Vol.6 追悼 浅利先生 (2018/08/19)
浅利慶太先生が亡くなられた。享年85歳。私の演劇の師。
今、私は師の顔写真が載る新聞の切り抜きを手にしている。43年前のものだ。ふっくらした頬、遠くを見据えた瞳。その下の2段組みの記事で、師はインタビューに応えてこう結ぶ。「思想を優先させ、芸の修業を切り落とし、その上、観客を忘れた、クスリくさい新劇なるものは、もういらないんです」。自分達を批判する相手を真っ向から切り返していた。
この記事を読んだことで、私の演劇人生が始まった
「自分が今あるのは、先生のおかげです」。そう言われる何人もの内の一人が、私である。師が演劇界、ミュージカル界に残した足跡はあまりに大きく、それらを私などが語れば矮小化しかねない。だから心に残る師の言葉とその思い出をいくつか記す。
43年前、それまで演劇とは無縁だった20歳の私が、劇団四季研究所の入所試験で合格となった。「慶応の同窓ということで、能力もないのに合格させた」。当時、周りからそう揶揄されたそうだが、後年、このことについて師は笑い飛ばしながら言った。「羽鳥はちゃんと劇団の戦力になっている。予想外だったけれど」。暖かかった。
「八百屋は野菜を売って生活する。芝居屋は芝居を売って生活する」。観客動員(集客)の重要性を説き続けた師。チケットを売ることに引け目を感じる劇団員に対しては「崇高なる屈辱」という先達の言葉(ルイ・ジュヴェだったか…)を引用し、「誇りを持って自分の劇団の芝居を売ってくれ。俺は演出家としてそれだけのものを創るから!」と、叱咤激励した。
良い舞台を作り、そのチケットを売ることは、観客を増やし、自分たちが生活する基盤を作るのにとどまらず、演劇を社会に根付かせ、劇場文化の華を咲かせるのに欠かせない「演劇運動」の一つだという強い信念。「商業主義云々」などの批判を寄せつけず、師が率いる劇団は多くの観客に支持されるプロ集団として成長していった。
「演出家の仕事は自らが鏡となり、自分の姿が見えない役者にその実像を見せること」。師は時に容赦ないダメ出しを俳優達に浴びせかけた。俳優自身のために、観客のために。不器用役者の私には「お前は自分が不器用なことに甘えている!」。打ちのめされ、ズタボロにされながらも、私は師に喰らいついていくしかなかった。
「芝居は構成が第一。台詞よりもまず構成をきちんとしろ」。文芸部にも所属していた私は、師から「芝居を書く基本」を徹底的に叩き込まれた。台本書き直しの指示が気の遠くなるほど続く。妥協は一切ない。そうして書き上がったのがミュージカル「異国の丘」。私の脚本家としての原点である。
20代の後半から子供のためのミュージカル(現・ファミリーミュージカル)の一座を任され、私は若手俳優の指導も行うようになった。稽古を重ね、私自身も俳優として出演しながら、若手を率いて全国を巡演する日々。そんな中、不遜ながら「指導は私の天職」と思い至るようになった。後に「お前は教えの天才だ。俺も上手いが、お前も上手い」。師におだてられ、乗せられ、ロングランミュージカルやストレートプレイ、研究生に至るまで、幅広く俳優の指導を任せて頂き、演出助手として作品づくりのお手伝いもさせて頂いた。光栄至極。
かつて、アルコールが入った席で、師がこう言っているのを耳にしたことがある。本気ではなかったかもしれない。「俺は演出家として名前が残らないかもしれないが、自分の劇団の俳優を食べさせた、との評価だけは受けるだろうなあ」。
とんでもない。「芸術性と経済性」という二元の道を突き進みながら、数々の名舞台を作られ、演劇界に比類なき金字塔を打ち建てた。それが、浅利先生、あなたです。
8月5日。大阪から戻った私は代々木の稽古場にお伺いし、師の遺影に手を合わせて誓った。かつての教えを唱えながら。
「間口が広く、敷居も低く、入りやすい。だが奥行の深いところに深遠なるテーマが存在する」。そんな作品を私は創ります。
「技術を磨き、想像力を駆使して作品に貢献することが俳優の仕事である」。そんな俳優を私は育てます。
師の教えを継承し、後進に伝えていくこと。それが残りの人生での私の仕事である。
合掌。