vol.5 追悼 日下武史さん (2017/07/03)
大先輩、日下さんが逝かれた。
劇団四季の創立メンバーであり、常に第一線の舞台に立たれ、数々の賞も受けられた演劇界の至宝、「日下武史」氏。
今から42年前。1975年12月のある日。私は東京・渋谷にある「パルコ劇場」の3列目、中ほどの席に座り、「エクウス」の初演を観劇していた。
はちきれんばかりのエネルギーで舞台上を所狭しと演じるのは市村正親さん。その市村さんと対峙し、エリート医師の苦悩や現代人が抱える心の闇を映し出していたのが日下さんだった。
当時、私は卒業後の進路をまだ決めかねている大学3年生。芝居を見始めてはいたが、文学座、俳優座、民芸などの三大劇団は知っていても、劇団四季の存在は全く知らなかった。たまたま大学の友人の紹介で知り合い、遊び仲間になっていた中尾隆聖さんからチケットを譲られたのである(中尾さんは今や声優界の大御所であり、彼が私を劇団四季に導いたと言える)。
この「エクウス」観劇時のことは、のちに劇団四季の機関誌「ラ・アルプ」にも書いたので、いつかこの小欄に載せるかもしれない。ただその時、客席で言いようのない感動に襲われたのは今でも覚えている。私は「何か」に打ちのめされて、幕間に席を立てなかった。
そして演劇経験が全くないにもかかわらず、私はこの日、劇団四季受験を決意した。
以後、42年にわたる私の演劇人生で、日下さんは私にとって特別な存在となった。
劇団時代、何度か舞台で共演させて頂き、日下さんからは多くのアドバイスを頂いた。俳優として不器用この上ない私に、歯痒い思いをされながらのご指導であったと思う。その際、何度か口にされ、その後の私の指導人生に大きな影響を与えたキーワードがある。「心の置きどころ」。「意識の変化」。
現在に至るまで私は演技指導の勉強を怠らないよう努めているつもりだが、この「心の置きどころ」や「意識の変化」を様々な角度から色々なボキャブラリーに変換し、俳優へ伝えている。
一つ忘れられない思い出がある。おそらく入団して5~6年の頃だ。私は代々木の稽古場(小田急線・参宮橋)へ「闇練(やみれん)」に出かけた。夜遅く、人がいなくなった稽古場で自主稽古するためである。しかし、誰もいないはずの稽古場から灯りが漏れ、声が聞こえてくる。日下さんだった。何かの演目の稽古を一人でされていたのである。もちろん邪魔になってはいけないから、声をおかけするはずもないが、私はドアのすき間からその自主稽古のお姿をしばらくの間、食い入るように見つめていた。
日下さんは小さな声でブツブツ台詞らしきものを言いながら、時折、腕を伸ばしたり、曲げたり、手のひらをクルクル回している。「…何をやっているんだろう…?」。自分なりに出した結論は、「言葉が持っているイメージのリアリティーをつかむ練習」。これが、のちに私のメソッドにもなる「イメージマイム」につながり、「手切り」や「仕分けのマイム」等々のエクササイズとして発展する。
現在、ミュージカルの上演では日本を代表する劇団四季であるが、そのルーツは「ストレートプレイ」の劇団である。私が入団した頃は芸達者で卓越した演技力を持つ俳優さんがたくさん在籍され、数々の名舞台が生まれている。そんな中、日下さんが演じられた役で私が最も印象に残っているのは、やはり「エクウス」の「ダイサート」だが、もう一つ挙げるとなると、「ヴェニスの商人」の「シャイロック」だ。個性派揃いの共演者たちの間で、日下さんの「シャイロック」は鬼気迫るものがあり、とにかく「すごかった」。
1975年の「エクウス」と77年の「ヴェニスの商人」。この二つが私の中では伝説とも言える作品となっており、ほんの一部ではあるが、「ダイサート」や「シャイロック」の台詞を今でも私はソラで言うことができる。
「心の置きどころ」や「意識の変化」、そして「発声と発想の一致」という方法論も含め、日下さんはまさに四季演技術の体現者の一人であり、第一人者であった。
その日下さんが、5月、静養先のスペインで旅立たれた。享年86歳。私より二回り上でいらしたが、干支(えと)の未(ひつじ)と2月生まれが一緒で、それが私の密やかな喜びでもあった。
6月28日。私は「日下武史さんを偲ぶ会」に参列。ご無沙汰してしまった非礼を心からお詫びし、お別れを申し上げた。
「日下さん、お疲れ様でした。ゆっくりお休み下さい。そして、ありがとうございました」。合掌。