大阪音楽大学創立者・永井幸次、生誕150周年を迎えて
ピアノの前の永井幸次
永井幸次と大阪音楽大学
本学の創立者である永井幸次は1874年、鳥取市生まれ。18歳で東京音楽学校(東京藝術大学音楽学部の前身)に入学し、瀧廉太郎や岡野貞一など、日本における西洋音楽文化の黎明を支えた錚々たる顔ぶれと学びを共にしました。卒業後は神戸や大阪等で教鞭を執りながら、関西地域における西洋音楽の普及と教育に自らの使命を感じ、私財を投じて大阪音楽学校(現大阪音楽大学)を創立。生涯をかけて西洋音楽の普及に尽くしました。以来、ここから3万7千人を超える“音楽人”が巣立っています。
永井幸次が音楽学校をつくった理由は?
現在の南船場にあった大阪音楽学校(大正4年頃撮影)
大阪は江戸時代より商都としてさかえ、上方の地歌や人形浄瑠璃などの伝統を有する文化都市でもあった。しかし、こと西洋音楽においては、東京に大きく遅れをとっていた。東京には官立の東京音楽学校があり、国費をもって外国人教師を雇うなど、国策としての西洋音楽教育が行われていた。永井自身も卒業生である。首都東京につぐ、第二の都市に西洋音楽の専門学校をつくりたい、という彼の熱意によって、ついに大阪の中心部、塩町(今の南船場)に「大阪音楽学校」の看板を掲げることになった。関西ではすでに相愛高等女学校(大阪女子音楽学校を併設)、神戸女学院が音楽専門教育を始めていたが、男子が学べる関西初の音楽学校がここに誕生した。男女共学が許されなかった時代ゆえ一日交替で男子と女子の授業を行う、授業は夜間のみ、といったスタートではあったが、永井は「東京音楽学校と対抗するに足るべき音楽学校」という高い目標を掲げていた。
(🔗大阪音楽大学100周年史より)
(🔗大阪音楽大学100周年史より)
写真でたどる
\ 懐かしの校舎 /
\ 懐かしの校舎 /
在学生が旧東京音楽学校奏楽堂で記念公演
旧東京音楽学校奏楽堂
2024年9月5日、旧東京音楽学校奏楽堂(東京都台東区)で「永井幸次生誕150年記念 大阪音楽大学大学院生によるコンサート」が開催されました。〈(公財)台東区芸術文化財団と本法人の共催事業〉
宮内栄輝さん(院2・作曲)の新作発表、久保美琴さん(院1・声楽)、谷川あおさん(同)による独唱、加藤舞香さん(院2・ピアノ)、園田育実さん(同)、谷口響子さん(院1・Vn)による独奏が披露され、会場から大きな拍手が送られました。
谷口響子さん
谷川あおさん(右)と、伴奏の堀怜子さん(本学卒業生)
(写真左から)谷川あおさん、久保美琴さん
さらに出演者によって永井幸次のプロフィールや語録が紹介されたほか、学校教材用として作曲された歌曲「雛菊」と「流れ星」も演奏され、会場全体でその功績を称えました。
約200名が来場した旧東京音楽学校奏楽堂
今回の来場者のうち8割以上が一般来場者ということで、永井幸次の名や本学の由縁に初めて触れくださった方も多かったようです。また本学の同窓会《幸楽会》関東支部の呼び掛けにより、多くの在京卒業生が応援に駆けつけ、出演者に声をかけるなど温かな母校愛を感じる一幕もありました。
出演した大阪音楽大学の大学院生と卒業生
\ 出演者のコメント /
園田育実さん
「東京でのコンサート出演の機会は貴重。歴史ある会場で、将来への糧となる経験ができました」
谷川あおさん
「旧奏楽堂で演奏するという貴重な機会をいただいたことに、感謝の気持ちでいっぱいです」
谷口響子さん
「永井先生が学んだ校舎で、100年以上の時を越えて演奏できたことにご縁を感じ、幸せな気持ちでした」
園田育実さん
「東京でのコンサート出演の機会は貴重。歴史ある会場で、将来への糧となる経験ができました」
谷川あおさん
「旧奏楽堂で演奏するという貴重な機会をいただいたことに、感謝の気持ちでいっぱいです」
谷口響子さん
「永井先生が学んだ校舎で、100年以上の時を越えて演奏できたことにご縁を感じ、幸せな気持ちでした」
鳥取・わらべ館での特別イベント
2024年10月12日には鳥取県鳥取市にある〈わらべ館〉でも「永井幸次ゆかりの人が贈る講演&コンサート」が開催されました。
永井幸次のひ孫にあたる永井正幸さん(本学講師)が永井幸次の功績や作品について講演したほか、講演の最後には素敵なピアノの演奏も。
そしてコンサートの後半には、本学出身のソプラノ歌手・寺内智子さんと中原美幸さんが永井幸次の12作品を披露。永井幸次が遺した作品の数々を美しく、ときには楽しく、会場のお客様にお届けしました。
同館では9月21日から10月15日まで「生誕150周年記念特別展 ~永井幸次 91年の歩み~」も開催。「ひらがな唱歌かるた」や直筆楽譜、永井が弾いたオルガン、刊行した唱歌教材など約80点の資料が展示され、「関西音楽界の父」とも呼ばれた永井幸次の91年の歩みに迫りました。