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【羽鳥三実広】演劇経験ゼロから始まった芝居屋人生 立ち位置を自覚していたから、一歩ずつ前進できた


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仕事図鑑

大学4年生、21歳で劇団四季の研究所に入所し、劇団創設者・浅利慶太氏の薫陶を受けた羽鳥三実広さん。劇団に在籍した27年を含め、40年以上の間、数多くの俳優を指導・育成してきました。2011年からは大阪音楽大学短期大学部ミュージカル・コースの教育主任として「大阪から世界に通用するミュージカルの発信」を掲げ、学生の指導のみならずオリジナル作品の制作にも心血を注いできました。自身を“生涯芝居屋”と称する羽鳥さんに「脚本を書くこと」の奥深さや、オリジナル作品に込める思いなどを伺いました。

高校時代から温め続けた「表現したい」思い

過労での入院がターニングポイントに

僕が本格的に脚本を書くようになったのは、劇団四季に入って20年ほどたった頃でした。

役者として研究所に入所したものの、それまで演劇経験はゼロ。劇団内で年に2回実施される試験では常に赤点ギリギリで合格していたので「On The Red」とあだ名をつけられるほどでした。

羽鳥三実広さん

不器用で才能が無いことを自覚し「どうやればうまくなるか」と人一倍研究・勉強していたことが功を奏したのか、27歳の頃から後輩の俳優に台本の読み方や演技の指導、脚本の修正などをさせてもらえるようになりました。その頃の四季は人気劇団になっていて、公演は月に5本以上。僕も公演に出演しながら、合間に演技指導、夜は自分の勉強と、睡眠時間が足りない日々が続きました。当時は無我夢中でやりがいを感じながら走り続けていたのですが、40代で体調を崩し入院することになりました。

病院で時間を持て余している中、劇団内で脚本を募集しているという話が聞こえてきました。実は大学在学中からシナリオ学校に通っていたほど、昔から脚本を書いてみたいという気持ちを温めていたんです。劇団に入ってからもその思いは消えず、ひそかに書くトレーニングを続けていたので応募したところ「なんだ、お前書けるんじゃないか」と。復帰後は創作ミュージカルのメンバーとして、劇団内の文芸部で脚本を書くことになりました。

見る側の耳と目を意識して書く

この時に書いた「異国の丘」が脚本家としての僕の原点。「李香蘭」「南十字星」と共に“昭和の歴史三部作”と呼ばれた演目です。

浅利さんが「戦争のことを書きたい」と強い思いで取り組んだ作品。ここで「芝居は構成が第一だ」と徹底的にたたき込まれました。約2時間の上演時間の中で、お客さんの心をつかむためには最初の15分が勝負。落語で言うなら“枕”ですね。そこに全力を集中しろとも教わりました。

さらに、「橋掛かり」というのですが、1幕が6場あれば、ストーリーをちゃんと渡していかなければならない。例えば5場まで進んだときになぜそのシーンがあるのか、理解できない台本ではダメなんです。書く側の視点ではなく、お客さんの耳と目を意識した構成に細心の注意を払いました。

書いても書いても「ダメだ」と突き返されて、頭の中は沸騰寸前。ようやく完成したのは13稿目でした。今振り返れば「生みの苦しみ」ということなのかもしれませんが、当時は苦しいとは感じていませんでした。下手なのは自覚していましたし、好きなことができる幸せを感じていたから乗り越えられたのかもしれません。

作品の全責任を負う覚悟

僕の仕事は「芸術家」などと言われることもありますが、僕自身はどちらかというと自分のことを大工の棟梁のような「職人」だと捉えています。

建築現場で左官屋や電気屋などの職人を差配する棟梁は、完成した建築物の全責任を負うポジション。舞台の仕事も役者をはじめ照明、衣装といったあらゆるスタッフの協力があって初めて完成する。そうして会心の作品が生まれたときは全部スタッフのおかげ。でも、失敗したときは全て僕の責任なんです。決して格好をつけて言っているのではありません。脚本は僕が書いているし、演出家として音楽も衣装も道具も全て僕が確認してOKを出しているのだから、失敗したときの責任は全て負う覚悟で臨んでいます。

大阪音楽大学で手掛けたオリジナル公演は今年で13回目に

スタッフに対してもお客さんに対しても真剣勝負だからこそ、公演が終わってお客さんから拍手をいただく時が一番のやりがいを感じますし、作品に関わった全てのスタッフに対する感謝の気持ちでいっぱいになります。

大切なのは「表現したい思い、欲求」

脚本家にとって必要な資質は、自分の中に「表現したい思い、欲求」を持っていること。

僕は子どもの頃から硬軟さまざまな本を読んできたし、映画もたくさん見てきました。創作の世界だけでなく、実社会でもいろいろな大人や社会の清濁両面を見てきました。そうした体験を積み重ねる中で、感じたことを「表現したい」という気持ちが芽生え、高校生の頃には表現の世界に進むことを漠然とイメージするようになっていました。

人によっては持っている技術で「有名になりたい」「金を稼ぎたい」という気持ちがモチベーションになる人もいるだろうけど、僕にはそういう気持ちはないですね。

もちろん、表現する技術として「書く力」も大事です。素質がモノをいう部分もありますが、技術はトレーニングで何とかなる部分も多い。僕が通っていたシナリオ学校では「とにかく200字詰めで毎日書け」と教えられました。役者なら「せりふを100回言え」と。

苦労をいとわず続けられることも必要な資質なのかもしれません。