【下村陽子】“落ちこぼれ”からヒットメーカーへ ゲーム音楽と共に歩んだ作曲家人生
© OSAMU NAKAMURA
Yoko Shimomura’s TOPICS
- 作曲家生活35年の売れっ子ゲーム音楽家
- 新作「スーパーマリオRPG」でも音楽制作
- スポーツ関連の作曲など多ジャンルで作曲活動を展開中
- Topics -
「音楽を仕事に」小学生時代に定まった将来の目標
――まずは、下村さんの音楽の原体験から教えてください。
音楽好きの父がレコードを集めていたので、幼い頃から家には音楽があふれていました。クラシックから歌謡曲、中にはラテンの曲まで、父が聴く音楽をよく耳にしていたのを覚えています。決して裕福な家庭ではなかったのですが、レコードプレーヤーやカセットレコーダーなど当時はまだ珍しかった機器が発売されるとすぐに買ってきて、自然と音楽に触れられる環境が整っていました。
私自身は4歳頃からピアノを習い始めました。先に習っていた従姉妹の家に置いてあったピアノを見て「私も習いたい」と思ったことがきっかけでした。それ以来、ずっとピアノを続けながら「将来は音楽を仕事にできれば」と漠然と考えていたのですが、中学生になる頃には「私はあまり上手じゃない」ということにうすうす気づき始めました。
中学時代も「音楽が好き」「音楽に関係した仕事に絶対就きたい!」という気持ちは変わらず、進路を考える際にピアノの先生に「高校の音楽科に行きたい」と相談したところ「(急にそんなことを言っても)行けるわけない」と全く取り合ってもらえませんでした。本気で音楽科を目指している子はかなり早い段階から準備を始めているんです。どれぐらい難しいんだろうと思って課題曲を調べてみたら、聞いたこともない練習曲集で楽譜は音符で真っ黒(笑)。「これは無理だな」と、そこでハードルの高さを思い知りました。
――高校は公立高校の普通科に進学されたんですね?
音楽科を断念した時点で高校進学に対する熱意をなくしてしまったのですが、母が「ここは音楽の授業が面白いらしい」と見つけてきた公立高校を受験し入学しました。聞いていた通り、音楽の授業はとても刺激的でした。
1年を通して、全員がソロとアンサンブルの演奏か作品提出(作曲)か、レコードを聴いて楽曲についての論文(批評)のどれかに取り組むというカリキュラム。音楽室にはピアノが4台あったのでピアノデュオに目覚めて、友だちとのアンサンブルも2台4手の連弾をしました。時には民俗音楽を聴いたり、グレゴリオ聖歌を歌ったり、普通はなかなかできない経験ができたと思います。
高校時代はブラスバンド部に所属してフルートを担当する傍ら、関西フィルハーモニー管弦楽団の副指揮者の方に師事して指揮も習っていました。このように、何でもやってみようと音楽と貪欲に向き合った高校時代に私の音楽の幅は大きく広がりましたし、今につながっていることもたくさんあると感じます。
――卒業後は、念願の「音楽の学校」大阪音楽大学短期大学部に進学されました。
高校までは普通科だったので、あくまでも本分は「勉強」。音楽大学に入ったことで、ピアノを弾いていても堂々と「遊びではない、これは勉強なんだ」と言えることがうれしかったです。学生生活自体はすごく楽しかった一方で、ピアノが上達しないという苦しみも抱えていました。先生からは「音楽が好きだという割には練習していない」とよく怒られました。
幸い私には妄想癖があって(笑)、「もしかしたらどこかですごく上達するタイミングが来るんじゃないか」「実は私にはすごい才能があって、まだ発揮されていないだけかも」という思い込みを支えに、気持ちをごまかしながら行ったり来たり。ジグザグに進んでいるような感じでした。
――揺れる気持ちを抱えながら、最終的に就職を選択されました。
演奏家を諦める決定打になったのが、2年生の春ごろに親指が腱鞘(けんしょう)炎になったこと。医師からは「指を休ませないと治らない」と言われたため、進路を就職にシフトしました。
大学への編入を考えていたので就職活動も出遅れ気味。自動車のディーラーや音楽教室のピアノ講師の内定をいただき「これで決まりかな」と思っていた時に、学内の就職指導課でカプコン※1のサウンドクリエーターの求人を見つけました。横文字の職業がかっこよく見えたのと、作曲専攻以外でも応募できたので半ば記念受験のような気持ちで受けたのですが、幸運にも内定をいただくことができました。
――それまで、下村さんご自身はゲームが好きだったんでしょうか?
ゲームは大好きで、短大時代も友だちの家でよく遊んでいました。ただ、上手ではなかったので、「下手でもできる」と教えてもらったRPG(ロールプレーイングゲーム)を片っ端からプレイしていました。
ゲーム音楽を意識し始めたのは「スーパーマリオブラザーズ」。あの有名なメロディーを初めて聴いた時は衝撃的でした。こういう曲を作っている人が世の中にいる、ということを初めて意識しました。RPGだと「ドラゴンクエスト」も外せません。すぎやまこういち先生が作る壮大な曲は、クラシック音楽好きな私に一番刺さったと言えます。
音楽好きの父がレコードを集めていたので、幼い頃から家には音楽があふれていました。クラシックから歌謡曲、中にはラテンの曲まで、父が聴く音楽をよく耳にしていたのを覚えています。決して裕福な家庭ではなかったのですが、レコードプレーヤーやカセットレコーダーなど当時はまだ珍しかった機器が発売されるとすぐに買ってきて、自然と音楽に触れられる環境が整っていました。
私自身は4歳頃からピアノを習い始めました。先に習っていた従姉妹の家に置いてあったピアノを見て「私も習いたい」と思ったことがきっかけでした。それ以来、ずっとピアノを続けながら「将来は音楽を仕事にできれば」と漠然と考えていたのですが、中学生になる頃には「私はあまり上手じゃない」ということにうすうす気づき始めました。
中学時代も「音楽が好き」「音楽に関係した仕事に絶対就きたい!」という気持ちは変わらず、進路を考える際にピアノの先生に「高校の音楽科に行きたい」と相談したところ「(急にそんなことを言っても)行けるわけない」と全く取り合ってもらえませんでした。本気で音楽科を目指している子はかなり早い段階から準備を始めているんです。どれぐらい難しいんだろうと思って課題曲を調べてみたら、聞いたこともない練習曲集で楽譜は音符で真っ黒(笑)。「これは無理だな」と、そこでハードルの高さを思い知りました。
――高校は公立高校の普通科に進学されたんですね?
音楽科を断念した時点で高校進学に対する熱意をなくしてしまったのですが、母が「ここは音楽の授業が面白いらしい」と見つけてきた公立高校を受験し入学しました。聞いていた通り、音楽の授業はとても刺激的でした。
1年を通して、全員がソロとアンサンブルの演奏か作品提出(作曲)か、レコードを聴いて楽曲についての論文(批評)のどれかに取り組むというカリキュラム。音楽室にはピアノが4台あったのでピアノデュオに目覚めて、友だちとのアンサンブルも2台4手の連弾をしました。時には民俗音楽を聴いたり、グレゴリオ聖歌を歌ったり、普通はなかなかできない経験ができたと思います。
高校時代はブラスバンド部に所属してフルートを担当する傍ら、関西フィルハーモニー管弦楽団の副指揮者の方に師事して指揮も習っていました。このように、何でもやってみようと音楽と貪欲に向き合った高校時代に私の音楽の幅は大きく広がりましたし、今につながっていることもたくさんあると感じます。
――卒業後は、念願の「音楽の学校」大阪音楽大学短期大学部に進学されました。
高校までは普通科だったので、あくまでも本分は「勉強」。音楽大学に入ったことで、ピアノを弾いていても堂々と「遊びではない、これは勉強なんだ」と言えることがうれしかったです。学生生活自体はすごく楽しかった一方で、ピアノが上達しないという苦しみも抱えていました。先生からは「音楽が好きだという割には練習していない」とよく怒られました。
幸い私には妄想癖があって(笑)、「もしかしたらどこかですごく上達するタイミングが来るんじゃないか」「実は私にはすごい才能があって、まだ発揮されていないだけかも」という思い込みを支えに、気持ちをごまかしながら行ったり来たり。ジグザグに進んでいるような感じでした。
――揺れる気持ちを抱えながら、最終的に就職を選択されました。
演奏家を諦める決定打になったのが、2年生の春ごろに親指が腱鞘(けんしょう)炎になったこと。医師からは「指を休ませないと治らない」と言われたため、進路を就職にシフトしました。
大学への編入を考えていたので就職活動も出遅れ気味。自動車のディーラーや音楽教室のピアノ講師の内定をいただき「これで決まりかな」と思っていた時に、学内の就職指導課でカプコン※1のサウンドクリエーターの求人を見つけました。横文字の職業がかっこよく見えたのと、作曲専攻以外でも応募できたので半ば記念受験のような気持ちで受けたのですが、幸運にも内定をいただくことができました。
――それまで、下村さんご自身はゲームが好きだったんでしょうか?
ゲームは大好きで、短大時代も友だちの家でよく遊んでいました。ただ、上手ではなかったので、「下手でもできる」と教えてもらったRPG(ロールプレーイングゲーム)を片っ端からプレイしていました。
ゲーム音楽を意識し始めたのは「スーパーマリオブラザーズ」。あの有名なメロディーを初めて聴いた時は衝撃的でした。こういう曲を作っている人が世の中にいる、ということを初めて意識しました。RPGだと「ドラゴンクエスト」も外せません。すぎやまこういち先生が作る壮大な曲は、クラシック音楽好きな私に一番刺さったと言えます。
ターニングポイントは「私の作品を出したい」という欲
――作曲の経験「ほぼゼロ」から始まったカプコンでの仕事はどうでしたか?
サウンドクリエーターという仕事のイメージは漠然と持っていましたが、どうやって曲を作るかは入社するまで全く知りませんでした。改めて無謀なチャレンジだったなと思いますが、知らなかったからこそ飛び込めたのだろうとも思います。今のように情報があふれていて、入社前に仕事の内容を詳しく知ることができていたら、「私には無理」と受験すらしていなかったかもしれません。
まず、パソコンを使って作曲できるということが衝撃的でした。パソコン自体まだ珍しかった時代、その使い方がまったく分からず、頭の中は「???」だらけでした。先輩はすごく優秀な人が多くて、一つ上の先輩の作品が既に発表になっているのを見て「入社1年でそこまでできるの?」と驚く一方で、エリートだらけの中に落ちこぼれが入ってしまったという状況に相当悩みました。
ゲーム音楽なので好きな曲ではなく求められる曲を書かなければいけないのですが、まずその前に使い物にならないので何の曲も求められない、作曲の依頼がないという現実。あまりのふがいなさに落ち込み「いつ辞めよう、いつ辞めよう」と考えながら、本当に辞める決断もできなくて。「今日は取りあえず会社に行って、落ち込みながらでも作ろう。明日こそ『辞める』って言おう」という毎日を繰り返していました。
――“落ちこぼれ”が人気タイトルの曲を手掛けるようになったターニングポイントはどこにあったのでしょうか?
結果が出せない日々に苦しみながらも、いつしかピアノで作曲をしていた高校時代の気持ちを思い出してきて、自分の中で楽しみながら少しずつ作れるようになってきました。すると、とにかくファミコンで何か一つ「これは私が作ったのよ」と言える作品を出したいと欲が出てきました。「できない、辞めたい」から、「1本できるまで頑張ろう」と思えたときが私のターニングポイントだったと思います。
実際に1本できたら、仕上げた充実感で次の目標が出てきて、だんだん「辞めよう」より「作ろう」の気持ちが大きくなっていきました。パソコンの使い方にも慣れてくると、「あのゲームの、あの効果音はこうやって作っているんだな」ということが分かってきました。そのときは作曲も含めて「作る」「仕上げる」喜びがすごくあったと思います。
サウンドクリエーターという仕事のイメージは漠然と持っていましたが、どうやって曲を作るかは入社するまで全く知りませんでした。改めて無謀なチャレンジだったなと思いますが、知らなかったからこそ飛び込めたのだろうとも思います。今のように情報があふれていて、入社前に仕事の内容を詳しく知ることができていたら、「私には無理」と受験すらしていなかったかもしれません。
まず、パソコンを使って作曲できるということが衝撃的でした。パソコン自体まだ珍しかった時代、その使い方がまったく分からず、頭の中は「???」だらけでした。先輩はすごく優秀な人が多くて、一つ上の先輩の作品が既に発表になっているのを見て「入社1年でそこまでできるの?」と驚く一方で、エリートだらけの中に落ちこぼれが入ってしまったという状況に相当悩みました。
ゲーム音楽なので好きな曲ではなく求められる曲を書かなければいけないのですが、まずその前に使い物にならないので何の曲も求められない、作曲の依頼がないという現実。あまりのふがいなさに落ち込み「いつ辞めよう、いつ辞めよう」と考えながら、本当に辞める決断もできなくて。「今日は取りあえず会社に行って、落ち込みながらでも作ろう。明日こそ『辞める』って言おう」という毎日を繰り返していました。
――“落ちこぼれ”が人気タイトルの曲を手掛けるようになったターニングポイントはどこにあったのでしょうか?
結果が出せない日々に苦しみながらも、いつしかピアノで作曲をしていた高校時代の気持ちを思い出してきて、自分の中で楽しみながら少しずつ作れるようになってきました。すると、とにかくファミコンで何か一つ「これは私が作ったのよ」と言える作品を出したいと欲が出てきました。「できない、辞めたい」から、「1本できるまで頑張ろう」と思えたときが私のターニングポイントだったと思います。
実際に1本できたら、仕上げた充実感で次の目標が出てきて、だんだん「辞めよう」より「作ろう」の気持ちが大きくなっていきました。パソコンの使い方にも慣れてくると、「あのゲームの、あの効果音はこうやって作っているんだな」ということが分かってきました。そのときは作曲も含めて「作る」「仕上げる」喜びがすごくあったと思います。
レコーディング中の下村陽子さん
――サウンドクリエーターとして軌道に乗ってきた頃、スクウェア※2に移籍されました。
RPGの楽曲を作るチャンスを求めての移籍でした。ここでも当初スランプに陥るのですが、「ライブ・ア・ライブ」をはじめ「スーパーマリオRPG」「聖剣伝説」など主にRPGの曲を手掛けました。
アクションとRPGの両方を経験して言えるのは、作曲の根底にある「ゲームの画面に合うかどうか」「プレーヤーを乗せられるかどうか」という部分は実はどんなゲームでも変わらないということ。これは今も昔も、タイトルが変わってもブレない部分です。
――下村さんらしさは曲のどのような面に現れると感じますか?
ここでも私の妄想癖が顔を出すのですが(笑)、画面に見えていない部分をすごく想像してしまうんです。ストリートファイターⅡを作っているときに「ステージごとに印象深い効果音を一つ入れましょう」と提案をしました。例えば、春麗(中国)のステージでバトルの背後をおじさんが通るのですが「このおじさんはどういう思いでバトルを見ているんだろう」と想像をしてしまう。そこで、おじさんの自転車のベルを効果音として鳴らしてみようとか。
心情もそうだし風景も、テレビ画面に見えている部分以外に何が広がっているのか「その先」を想像する。ゲームの中でも、この一つの島の中で話が終わっているけど、実はその先にはもっといろいろな世界があるのではないかと。妄想しながら作ることが多いですね。
――カプコン、スクウェアでキャリアを重ねながら、2003年にフリーになりました。
退社のきっかけは妊娠が判明したこと。それまで会社員としては相当ヘビーな働き方をしていたので、育児と仕事の両立は無理なんじゃないかと感じてしまいました。サウンドクリエーターという仕事は楽しいことも、しんどいこともたくさんあるので、果たしてこれからも続けていきたいと思えるのかをいったんリセットして冷静に考えようと。フリーになろうという考えはなかったのですが、ありがたいことに退職してからも仕事の依頼が来まして、実際に休んだのは1~2カ月ぐらいでした(笑)。
RPGの楽曲を作るチャンスを求めての移籍でした。ここでも当初スランプに陥るのですが、「ライブ・ア・ライブ」をはじめ「スーパーマリオRPG」「聖剣伝説」など主にRPGの曲を手掛けました。
アクションとRPGの両方を経験して言えるのは、作曲の根底にある「ゲームの画面に合うかどうか」「プレーヤーを乗せられるかどうか」という部分は実はどんなゲームでも変わらないということ。これは今も昔も、タイトルが変わってもブレない部分です。
――下村さんらしさは曲のどのような面に現れると感じますか?
ここでも私の妄想癖が顔を出すのですが(笑)、画面に見えていない部分をすごく想像してしまうんです。ストリートファイターⅡを作っているときに「ステージごとに印象深い効果音を一つ入れましょう」と提案をしました。例えば、春麗(中国)のステージでバトルの背後をおじさんが通るのですが「このおじさんはどういう思いでバトルを見ているんだろう」と想像をしてしまう。そこで、おじさんの自転車のベルを効果音として鳴らしてみようとか。
心情もそうだし風景も、テレビ画面に見えている部分以外に何が広がっているのか「その先」を想像する。ゲームの中でも、この一つの島の中で話が終わっているけど、実はその先にはもっといろいろな世界があるのではないかと。妄想しながら作ることが多いですね。
――カプコン、スクウェアでキャリアを重ねながら、2003年にフリーになりました。
退社のきっかけは妊娠が判明したこと。それまで会社員としては相当ヘビーな働き方をしていたので、育児と仕事の両立は無理なんじゃないかと感じてしまいました。サウンドクリエーターという仕事は楽しいことも、しんどいこともたくさんあるので、果たしてこれからも続けていきたいと思えるのかをいったんリセットして冷静に考えようと。フリーになろうという考えはなかったのですが、ありがたいことに退職してからも仕事の依頼が来まして、実際に休んだのは1~2カ月ぐらいでした(笑)。
ゲーム音楽の作曲を学ぶなら
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