グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



大阪音楽大学について

ホーム > 大阪音楽大学について > 100周年史 > 1976年~1985年

1976年~1985年



1976年(昭和51年)

大阪音楽大学の歴史

4月1日 大学器楽学科に箏専攻開設

4月1日 学長補佐職を設け、小橋潔(短期大学部)、田中喜一(音楽学部)を任命
任期4年。音楽学部長、短期大学部長職を廃止

4月1日 永井八重子に名誉教授の称号
名誉教授称号授与規則を制定。その第1号の授与となる

4月23日 ジャンカルロ・カルディーニ 特別講義
ルイジ・ケルビーニ音楽院ピアノ科教授で作曲家でもある同氏のピアノリサイタルを開催

《カヴァレリア・ルスティカーナ》より

4月26、27日 昭和50年度大学院修了生による演奏会(郵便貯金会館ホール)
昭和43年度の大学院開設以来初の企画で、前年度修了生10名による演奏会を開催。4月より本学教員となった4名、韓国からの留学生2名を含んでいた
5月15日 箕面校舎(のち「山の学舎」から改称)起工式

鍬を入れる水川学長

手前左から田中学長補佐、水川学長

5月22日 付属音楽高等学校姫路演奏会(姫路市市民会館大ホール)
しらさぎ音楽学院主催。他都市における高校の演奏会は17年ぶりであった
5月23日 ウィリアム・ブリムローズ ヴィオラ、ヴァイオリン特別講義
世界的ヴィオラ奏者による公開講座を開催

6月1日 『西日本音楽文化資料1976』刊行
音楽文化研究所調査編集により発刊してきた『関西音楽文化資料』を資料収集の対象地域拡大につき、改題して刊行。「西日本音楽関係団体総覧」に加え、「関西に於けるオペラの公演史」を取り上げ、調査報告を行った

6月15日 ヤン・ホラーク ピアノ特別講義
学内特別演奏会として、本学教員となった同氏によるリサイタルを開催

10月27日 第20回付属音楽高等学校定期演奏会(毎日ホール)

10月29~31日 大学祭「今」

11月2日 ヤン・エキエル ピアノ特別講義

11月6日 ペーター・ルーカス・グラーフ フルート特別講義

11月12日 第9回吹奏楽アンサンブル演奏会(豊中市民会館)
管弦楽曲のマーラー《さすらう若人の歌》、ムソルグスキー《展覧会の絵》を吹奏楽用に編曲して演奏した

チラシ

マーラー《さすらう若人の歌》

11月19日 第19回定期演奏会(フェスティバルホール)
バッハ《カンタータ第80番》、ドヴォルジャーク《交響曲第8番》に加え、演奏機会の少ないベートーヴェン《合唱幻想曲》をプログラムに取り上げた。独唱は教員と大学院生。オーケストラも教員が学生たちと一緒に参加した。指揮は足立勝、宮本政雄、朝比奈隆の教員3名によりそれぞれ行われた

チラシ

ベートーヴェン《合唱幻想曲》op.80

11月26、27日 演奏旅行(岐阜県)
大垣市、可児市への訪問。J.シュトラウス《美しく青きドナウ》やシベリウス《フィンランディア》などに加え、ソリストとして教員の矢野蓉子、田原祥一郎が同行し、名作オペラのアリアと二重唱などを演奏

可児町民センター公演

左から矢野蓉子、田原祥一郎、宮本政雄教員

12月11日 第10回合唱演奏会(豊中市民会館)

12月23日 箕面校舎竣工
箕面市下止々呂美の海抜230mの山林を切り拓き、約1万坪の土地に平屋建て鉄骨造りの校舎3棟が完成した
「山の学舎」計画の実現
10年前に創立50周年事業として進めてきた校舎の建て替え、またさらなる拡充計画は1974年(昭和49年)のH号館の竣工をもってひとまず完了した。途中、大阪国際空港の着陸コース直下にあり、飛行機の騒音に悩まされていた本学は、昭和47年度より順次防音工事も行っていたが、デリケートな演奏への微妙な影響を完全に排除するのは困難であった。また管楽器などの練習の音が周囲に響き、近所からは逆に騒音の苦情が絶えなかった。移転当時の1954年(昭和29年)頃は、あたり一面畑が広がり、何もなかった庄内の地も住宅が増え、校舎に民家が張り付くように建ち並ぶ状況だったのである。自然に恵まれた環境の中で、学生たちがのびのび練習のできるような施設を作りたい…1962年(昭和37年)に第二の校地を川西に求めた時も同じことを計画し、断念していた経緯があった。今度こそその実現をめざすことが、次なる創立60周年の中心事業となった。セミナーハウス「山の学舎」の建設である。
5年越しで箕面市下止々美の山中に32,430㎡(9,810坪)の土地を入手。保護者、学生、教職員、卒業生等から学校債を通じ資金面で甚大な協力を得て、1976年(昭和51年)5月15日に起工式を行い、建設に至った。庄内校舎から車で行くこと約40分、池田から国道423号線をしばらく北上し、余野川を渡った先の約300mのつづら坂を登ったところに、ほどなく平屋建て鉄骨造りの3棟の校舎が完成した。同年12月のことである。
翌年、1977年(昭和52年)4月26日に開所式を行い、「山の学舎」の利用を開始する。同年9月に「箕面校舎」と改称したこの施設は、AからC棟まで1棟各1教室で、うち1棟は教室兼食堂になっており、厨房やシャワールームも完備され、180名の宿泊も可能であった。スクールバスを運行し、授業、集中講義、レッスンや合唱・合奏の実習室、休暇中にはクラブの合宿場として、また教職員の研修や親睦を深める場としても利用された。隣接の山林も借り受け、1978年(昭和53年)には遊歩道、休息所、アーチェリー練習場なども設置した。
「山の学舎」完成まで

下止々呂美の山林を拓き、つづら坂に道を造成、
山頂に校舎3棟の建設を開始

10月25日、上棟式を行い、12月23日竣工

「山の学舎」完成後

民家を離れ、自然あふれた環境の中に完成した念願の「山の学舎」

授業や集中講義、クラブの合宿場、教職員の研修など様々に利用された

C棟に完備された厨房

シャワー室

遊歩道からはのどかな風景を楽しむことができ、自然に囲まれた休憩所で練習したり、アーチェリーに興じたりする学生の姿が見られた。

関西音楽の歴史

4月21日 世界バレエ・フェスティバル 初開催(京都会館第一ホール)
23日:神戸文化大ホール 24日:和歌山県民文化会館 28、29日:フェスティバルホール 5月10日:姫路市市民会館
日本各地50都市で開催。アリシア・アロンソ、マーゴ・フォンティーン、マヤ・プリセツカヤ、そして初来日のカルラ・フラッチ、エヴァ・エフドキモワ、アントワネット・シブレーなど欧米で活躍のバレリーナが多数出演。チャイコフスキー記念東京バレエ団が共演した。関西ではガラ・パフォーマンス、《白鳥の湖》、《眠れる森の美女》の3演目が上演された

5月7~21日 第19回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール) 初来日のアラン・ロンバール指揮ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団の公演で開幕。当回には、ベルリン・フィルの首席奏者からソロに転向したジェームズ・ゴールウェイ(Fl)や、マルタ・アルゲリッチ(Pf)といった著名演奏家が出演。アメリカ独立200周年記念として初来日したモダン・ダンスのアーウィン・ニコライ・ダンス・シアターや、同じく初来日となった作曲家クシシュトフ・ペンデレツキの指揮による大阪フィルとの自作自演など、「現代」を強く反映した斬新な企画が話題を呼んだ

自作を指揮するペンデレツキ(公財)朝日新聞文化財団提供

チラシ

6月24、25日 関西歌劇団第40回定期公演 ヴェルディ《ドン・カルロ》(大阪厚生年金会館大ホール)
朝比奈隆指揮・訳詞、三谷礼二演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団合唱部、大阪メンズコーラス
邦人による初演。リコルディ出版の5幕版を4幕版に改編しての上演であった

チラシ

昭和51年7月1日 関西音楽新聞

10月14日 マレイ・ペライア 関西初公演(毎日ホール)
10月21日~12月3日 チェコスロヴァキア音楽祭・関西公演(フェスティバルホール、京都府立文化芸術会館、大阪厚生年金会館中ホール、神戸文化ホール)
日本と当時のチェコスロヴァキアの文化交流協定締結記念として東京と大阪で開催。大阪では全8公演が行われ、スメタナ弦楽四重奏団、ヴァーツラフ・ノイマン及びズデニェック・コシュラー指揮のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団や、初来日となったプラハ・フィルハーモニー合唱団とスロヴァキア室内合奏団(現・スロヴァキア室内オーケストラ)等が出演した。チェコスロヴァキアで学んだ石川静(Vn)が当音楽祭で帰国デビューし、チェコ・フィルと共演した黒沼ユリ子(Vn)と共に両国の国際交流に寄与した

プログラム

11月12~14日 京都市交響楽団 初の海外(香港)公演
「1976年アジアミュージックフェスティバル」(香港市政局アジア音楽祭実行委員会主催)の招聘による。佐藤功太郎、小松一彦の両指揮者に率いられての海外遠征で、外山滋(Vn)、北山暁子(Pf)らがソリストとして同行した。チャイコフスキー《ヴァイオリン協奏曲》やブラームス《交響曲第1番》などを演奏

11月17、18日 関西歌劇団第41回定期公演 モーツァルト《魔笛》(大阪厚生年金会館大ホール)
朝比奈隆指揮 三谷礼二演出 大阪フィルハーモニー交響楽団 関西歌劇団合唱部
舞台設定を第2次大戦前の大阪に置き換え、反戦思想を訴えた三谷の異色の演出。ザラストロを善、夜の女王を悪の象徴とし、ミリタリー・ファッションや抽象的な装置を用いた今日的な読み替えにも匹敵する上演に、当時の批評は賛否両論に分かれた。ローラー・スケートを履かせた歌い手を登場させ、舞台上でオートバイを走らせるなど、先鋭かつ実験的な公演であった

関西歌劇団提供『関西歌劇団50年のあゆみ』より

12月4日 関西歌劇団 第1回室内オペラシリーズ開催(大阪市中央公会堂中集会室)
朝比奈千足指揮 松山雅彦演出 戎洋子ピアノ
室内オペラの魅力をオペラ愛好家に伝えようと開始されたシリーズ。第1回公演として、パイジェッロ《カンタータ・コミカ》の本邦初演、及びモーツァルト《劇場支配人》が上演された

12月8日 古楽アカデミー(現・エンシェント室内管弦楽団)関西初公演(御堂会館3階大ホール) クリストファー・ホグウッドにより1973年に創設。カウンター・テナーのジェームズ・ボーマンとオリジナル楽器奏者の計5名からなる小アンサンブルでの初来日であった
12月19日 大阪テレマン協会 昭和51年度(第31回)文化庁芸術祭優秀賞受賞
「教会音楽シリーズ・東京特別公演」の成果により受賞。同賞の受賞は関西楽壇初であった

1977年(昭和52年)

大阪音楽大学の歴史

2月7日 ペーター・ホルヘルダー ピアノ特別講義

4月18日、6月15日 昭和51年度大学院修了生による演奏会(郵便貯金会館ホール)
4月に声楽専攻、6月に作曲・器楽専攻の前年度大学院修了生による演奏会を開催

作品発表 中澤道子《室内楽の為の組曲“MU-MA”》

4月21日 関西音楽大学協会第1回研究会
水川学長が会長を務める関西音楽大学協会が従来の新人演奏会に加えて、新たに研究会を企画。その第1回が「ソルフェージュ教育」をテーマに本学で開催された。協会加盟校は本学のほか、相愛女子大、神戸女学院大、武庫川女子大、大阪教育大、大阪芸大、京都芸大、同志社女子大の8大学

研究会報告書

挨拶をする水川学長

4月26日 箕面校舎開所式
当年度よりスクールバスを運行させ、授業や集中講義、アンサンブルや合唱の練習などに使用。炊事、宿泊の設備も完備され、クラブ活動の合宿や教職員の研修施設としても活用を開始する
6月1日 付属幼稚園園長に中井能子就任
大学・短期大学の第三次定員増をめざし、要件整備のために付属音楽高等学校を幼稚園敷地へ移転する案が浮上。一旦園児募集を打ち切るものの、同園敷地が高校設置基準に満たないことが判明し、一転、幼稚園存続に方針転換を行う。新園長を任じ、園児募集を再開、次年度より再スタートを切る

6月16日 フェリックス・アーヨ ヴァイオリン特別講義

6月18日 ショルム 声楽特別講義

6月30日 ダニエル・デファイエ サクソフォーン特別講義

10月7日 クラウス・シルデ ピアノ特別講義
10月26日 第10回吹奏楽演奏会(豊中市民会館)
第10回を記念して、その意味をこめたシュミット《祝祭協奏曲》を演奏。合唱が初参加し、演奏機会の少ないベルリオーズ《葬送とがいせんの交響曲》op.15(《葬送と勝利の大交響曲》)を取り上げるなど、意欲的なプログラムであった

チラシ

ベルリオーズ《葬送とがいせんの交響曲》op.15

10月31日 第21回付属音楽高等学校定期演奏会(毎日ホール)

11月1~4日 大学祭「歩」

11月14日 第20回定期演奏会(フェスティバルホール)
定期演奏会も四年制大学開学の昭和33年開催を第1回とし、20回を数えることとなった。前年、音楽学部に箏専攻が開設されて学生が4年生までそろったことから、箏の合奏をプログラムに入れた。当回の委嘱作として、水川清一考案、吉井勇、与謝野晶子の詩による鈴木英明《交響詩「寂光院」》を演奏。本学定演では初となる外国人指揮者、デイヴィッド・ハウエル氏(のち本学教員)を招聘した

チラシ

(上)光崎検校《五段砧》
(下)鈴木英明《交響詩「寂光院」》

11月15日『西日本音楽文化資料1977』刊行
当年5月、音楽文化研究所所長が水川学長から田中喜一へ引き継がれた。「公演曲目選択傾向統計」を発表

11月16日 ローレ・フィッシャー=ネル 声楽特別講義
11月18~22日 演奏旅行(岡山県)
久世町、新見市、総社市、倉敷市の4地区における本学管弦楽団の音楽教室、演奏会計7公演。ピアノの伊藤勝、富岡潤子、ファゴットの日名弘見がソリストを務めた

12月1日 マルコ・レンツィ ヴァイオリン特別講義

12月7日 第11回合唱演奏会(豊中市民会館)

関西音楽の歴史

パンフレット表紙

1月18~20日 ベルリン国立歌劇場 関西初公演(フェスティバルホール)
音楽監督オトマール・スウィトナーに率いられての初来日。総勢150名の引越し公演であった(同バレエ団は単独で1974年に初来日)。モーツァルトの《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《コジ・ファン・トゥッテ》を上演。21日には同歌劇場管弦楽団のコンサートを開催(同会場)

3月16日 アンドラーシュ・シフ 関西初公演(京都府立文化芸術会館)
29日:大阪厚生年金会館中ホール
3月30、31日 モスクワ・オペラ(現・スタニスラフスキー&ネミロヴィチ=ダンチェンコ記念国立モスクワ音楽劇場オペラ)関西初公演(フェスティバルホール)

4月4、5日:大阪厚生年金会館大ホール

パンフレット表紙

第1回ソビエト・プラズニク(ソ連祭)への参加のため音楽総監督ドミトリー・キタエンコに率いられて初来日。総勢180余名の引越し公演であった(同バレエ団は単独で1973年に初来日)。ロシアの演出家コンスタンチン・スタニスラフスキーのリアリズムを追求した演技理論(スタニスラフスキー・システム)に基づく実験的な劇場として知られ、チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》の上演、そして同《イオランタ》、ラフマニノフ《アレコ》、スッペ《ドンナ・ファニータ》の3作品の本邦初演を行った

4月11日 タチアナ・ニコライエーワ 関西初公演(大阪厚生年金会館中ホール)

6月14日 ギドン・クレーメル 関西初公演(毎日ホール)

6月18、20日 シカゴ交響楽団 関西初公演(フェスティバルホール)
1969年に第8代音楽監督に就任したサー・ゲオルグ・ショルティに率いられての初来日
11月6~12日 第20回記念大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
当記念回にヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を招聘。カラヤンのスケジュールに合わせ異例の11月開催となった。同管弦楽団は6日から連続5夜のコンサートを開催し、その内の4夜はブラームス・チクルスとして交響曲全曲と協奏曲を演奏。協奏曲ではアレクシス・ワイセンベルク(Pf)、塩川悠子(Vn)等と共演した。ユニークな編成のベルリン・フィルハーモニー・チェロ12重奏団のコンサート、ワイセンベルクのリサイタルも開催。カラヤン指揮ベルリン・フィルは大阪公演の後、東京の普門館でベートーヴェン・チクルスを行っている。この両都市のチケット予約のため全国から電話が殺到し回線がパンクしたというが、それほど聴衆からの人気は絶大なものがあった
(公財)朝日新聞文化財団提供

カラヤンとワイセンベルクの共演

ベルリン・フィル・チェロ12重奏

11月8、9日 二期会関西支部第9回オペラ公演 ヤナーチェク《利口な女狐の物語》本邦初演(大阪厚生年金会館大ホール)
佐藤功太郎指揮、栗山昌良演出、京都市交響楽団、二期会関西支部合唱団
当公演により昭和52年度大阪文化祭賞受賞

公演写真(関西二期会提供)

11月11日 グスタフ・レオンハルト 関西初公演(大阪厚生年金会館中ホール)
来日3度目であったリコーダー奏者ハンス・マルティン・リンデと共演し、チェンバロを演奏
11月22日「大阪の秋」国際現代音楽祭 最終回(大阪厚生年金会館中ホール)
1962年より開催の当音楽祭が第15回をもって終結。これまで取り上げられた現代作曲家の総数は100名を超え、関西楽壇に大きな足跡を残した。

昭和53年1月1日 関西音楽新聞


当回では、手塚幸紀と朝比奈隆が指揮する大阪フィル、及び栗山智子(Vn)、田原冨子(Pf)らにより、松下眞一《ヴァイオリンとオーケストラのための「田園詩」》、藤井園子《ピアノ協奏曲II》、辻井英世《ファンタスマ》など、主に関西の現代作曲家の作品が演奏された。本企画と演奏の成果により当音楽祭委員会は昭和52年度大阪文化祭賞金賞を受賞
大阪フィルの創立30周年記念とベートーヴェン没後150年記念チクルス
1977年(昭和52年)、大阪フィルハーモニー交響楽団はその前身である関西交響楽団の創立から30周年を迎えた。朝比奈隆指揮による関西交響楽団の第1回定期演奏会が行われたのが1947年(昭和22年)4月26日(大阪朝日会館)。その30年後の同日、大阪フィルは朝比奈の指揮による第139回定期演奏会を楽団創立30周年記念の冠を付して開催(フェスティバルホール)。この定演はベートーヴェン没後150年記念チクルスの第1回を兼ねた公演でもあった。演目は交響曲第1番と第3番「英雄」の2曲で、1曲目の演奏を終えた後、朝比奈は舞台上でドイツ連邦共和国総領事より同国の功労勲章大功労十字章を授与されている。これは朝比奈の日独文化交流における多大な功績に対し授与されたもので、満場の聴衆から盛大な祝福の拍手が贈られた。大阪フィルはこの後、5月12日、9月28日、11月29日、12月29日の公演で交響曲全曲演奏を主軸とした全5回のチクルスを行った。また7月4、5日の両日、同会場にて朝比奈と大阪フィルは大阪新音公演として同協会のフロイデ合唱団等と《ミサ・ソレムニス》を演奏している。
創立30周年記念の一環として、8月18日には市民の側から楽団を祝福する意向により“みんなで祝おう大フィルまつり”が開催された(フェスティバルホール)。同団友の会の世話人代表であったSF作家の小松左京による企画で、関西の芸能人が無報酬で出演、来場者の「ノー・ネクタイ、ジーパンOK」をキャッチ・フレーズとした、当時としては異例の大衆的なコンサートであった。朝比奈をはじめ大阪フィル団員も軽装で演奏した。浜村淳や末広真樹子らの司会により、同団の30年の歴史をスライドで回想。笑福亭仁鶴がかつらをつけて同団を指揮し、満席の会場は大いに沸いたという。この市民一体型のユニークなコンサートにより、同団の聴衆の層は更に広がったとされる。
また、ベートーヴェン没後150年記念チクルス協賛として、9月12、13日には園田高弘によるピアノ協奏曲連続演奏会が開催された(フェスティバルホール)。朝比奈指揮の大阪フィルとの協演。日本におけるベートーヴェンのピアノ協奏曲連続演奏は、過去にエミール・ギレリス等の外来演奏家の例がわずかにあったのみで、園田の演奏は邦人初の快挙となった。

大阪フィルハーモニー交響楽団ベートーヴェン没後150年記念チクルス
チラシ・プログラム

ドイツ連邦共和国大功労十字章をドイツ総領事より授与される朝比奈隆(昭和52年5月1日 関西音楽新聞)

“みんなで祝おう大フィルまつり”(昭和52年9月1日 関西音楽新聞)

“みんなで祝おう大フィルまつり”プログラム

園田高弘 ベートーヴェン ピアノ協奏曲連続演奏会
チラシ・プログラム


1978年(昭和53年)

大阪音楽大学の歴史

2月22日《仏陀》演奏会に出演(大阪厚生年金会館大ホール)
松下眞一《仏陀》舞台初演に本学学生有志の合唱団が出演。テノール独唱に林誠、ナレーターに茂山千之丞と本学教員も参加

3月15日 本学三財団発足を発表
卒業式において、水川学長から大阪音楽大学社会福祉事業団・同音楽文化振興財団・同奨学事業財団の発足が正式に発表された

4月1日 大学、新カリキュラム実施
専門特殊研究コース新設

4月1日 大学専攻科器楽専攻に箏を導入

4月1日 朝比奈隆に名誉教授の称号
長年にわたり本学教員として、また大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者としての数々の共演を通じ、学生を指導してきた同教員が前年度末をもって定年退職した。本学2人目の名誉教授の称号授与となった

現行のチャイム使用開始

5月13日 付属音楽高等学校・石山高等学校音楽科交歓演奏会(滋賀県立石山高等学校)

音楽高校同士の交流を目的に、横井輝男校長以下、3年生と指揮・引率教員の計62名が石山高校を訪れ、同校との演奏会を行った。終演後は生徒たちの語り合いの時間も持たれ、校歌合唱のエールを交わした
5月14、15日 第1回五月祭「我」開催



新入生の歓迎、クラブ同好会の紹介、教職員と学生相互の親睦などを目的に、本学初の試みとして、学生自治会主催による五月祭(テーマ「我」)が開催された。教職員百数十名も参加、新入生懇親会という企画には90余名の教員が出席し、25教室で熱心な話し合いがもたれた。秋の大学祭とともに、学生自治会の大きな催しとなった
5月30日 付属音楽高等学校閉校を決定
文部省の国庫補助金配分の見直しにより、大学・短期大学の入学定員増加が必要となり、その必要条件である校地基準を満たすため、高校の閉鎖という苦渋の決断を行った。6月14日、大阪府に生徒募集の停止届けを提出、3年後に閉校することとなる

6月30日 フランコ・グッリ(Vn)/エンリカ・カヴァッロ(Pf)室内楽特別講義
7月20日 女声コーラス「せせらぎ」「アルス・ノーヴァ」結成
大学の施設を開放し、音楽を通じて地域の文化振興に寄与しようと、女声コーラスを募集、指導することとなった。これは当年度より始動した音楽文化振興財団の助成事業の一つであった。18歳から67歳まで、184名の応募があり、豊中市内と市外の2グループに分けて練習を開始。指導には本学教員の谷川勝巳、八木宣好があたり、受講料は無料とした

募集チラシ

土曜日・八木宣好クラスの「アルス・ノーヴァ」

10月12日 第1回邦楽演奏会(郵便貯金会館ホール)
大学専攻科に箏を導入し、大学・短大ともに専攻科まで邦楽部門がそろったことを記念し、邦楽演奏会を開催することとなった。当演奏会のために作曲された山口福男教員の《─触─邦楽器と弦楽五重奏のために》の初演や、大栗裕・須山知行編曲の宮城道雄《春の海》における和洋音楽の融合は、「諸般の芸術は之の学校によって統一され新音楽・新歌劇の発生地たらん」とする創立者永井幸次の建学の精神をまさに具現化するものであった。現在も本学の主要演奏会の一つとして継続開催している

​チラシ

(上)八橋検校《六段の調》
(下)宮城道雄《春の海》(箏と管弦楽)

10月28日 庄内第二校地、第三校地を取得
大学・短期大学の入学定員増の申請に伴い、必要条件であった中心校地の拡張のため、豊中市名神口1丁目の鉄筋5階建ての建物付き土地を買収、さらに不足分として野田グラウンドに近接する3,003㎡の土地を長期借用することとなった。庄内第二校地、第三校地である。第二校地の建物は内部改修工事を行い、各種教育・研究施設として活用(現・K号館)、第三校地は運動場の新設を計画した

改修前の現・K号館

建物は元ボーリング場であった

10月30日 第22回付属音楽高等学校定期演奏会(毎日ホール)

小坂明子のライブ演奏

11月2~5日 大学祭「見るまえに翔べ」
一般公募により7月に結成されたばかりの女声コーラス「せせらぎ」「アルス・ノーヴァ」の演奏や、在校中に作曲した《あなた》がミリオンセラーとなった、付属音楽高等学校卒業生、小坂明子の友情出演などがあった
11月21日 第21回定期演奏会(フェスティバルホール)
4年ぶりのベートーヴェン《交響曲第9番》と、田島亘教員の新作《ピアノとオーケストラによる前奏曲》の初演というプログラム。定期演奏会をより全学的な催しとするため、コーラスに声楽専攻以外の学生も初めて公募で募り、350名におよぶ合唱団と90名のオーケストラで演奏した

​チラシ

田島亘《ピアノとオーケストラによる前奏曲》

11月22日 ロベルト・ギュンター 特別講義
ケルン大学教授である同氏の特別講義を開催
11月24~27日 演奏旅行(鳥取、島根県)
指揮者の宮本政雄教員ほか管弦楽団81名の一行が松江市、鳥取県若桜町、安来市で演奏を行った。ソリストとしての特別出演など、各地において卒業生の協力があった。安来市では本学管弦楽団の演奏会が初のオーケストラ公演となった

12月13日 第12回合唱演奏会(豊中市民会館)

12月14、15日 ロマン・オルトナー 声楽特別講義
12月19日 第11回吹奏楽演奏会(西宮市民会館)
当年より、広く大阪府下、兵庫県下の吹奏楽が盛んな地域で演奏し、地元の吹奏楽関係者とも連携を図って、各地域の吹奏楽運動の発展に貢献しようということになった。初回は西宮地区を選んで開催。西宮は全日本吹奏楽コンクールで全国優勝を重ねる名門校、市立今津中学校などを有し、すでに独自の吹奏楽連盟も組織していた。アンコールでは本学卒業生で、今津中学校を指導してきた得津武史教諭の飛び入り指揮による《星条旗よ永遠なれ》が演奏されるなど、盛会であった

チラシ

得津武史教諭指揮による《星条旗よ永遠なれ》

12月1日『西日本音楽文化資料1978』刊行
音楽文化研究所の調査編集により「関西に於けるベートーヴェンの公演史」を発表

12月25日 大学入学定員変更(150名→225名)
短期大学第一部入学定員変更(200名→300名)
三財団の設立
1978年(昭和53年)3月15日の卒業式で、水川学長は社会福祉事業団、音楽文化振興財団、奨学事業財団という本学三財団発足の正式発表を行った。このうち最初に発足したのは、社会福祉事業団である。「文化社会・文化国家は福祉社会・福祉国家であります。文化の道を歩むものは、福祉の道を歩むものでなければならぬと思います」と同年7月15日発行の『四季楽報』第3号に水川はその設立趣旨、経緯について冒頭こう記している。水川には「福祉」は国家や地方自治体が担当すべきは当然だが、同時に各企業体や個人も「福祉」に努めるべきであるとの思いがあった。25年ほど前に自身カリエスを患い、杖を引く身となり、それ以来、大阪身体障がい者団体連合会長などを務め、福祉向上に力を注いできた。それは本学においても昭和42年度より入学試験に点字答案を認め、身障者雇用促進法の基準以上に積極的に身障者の雇用を行うことなどで実践していた。
財団設立のきっかけを作ったのは、図書館長、博物館長を歴任し、1975年(昭和50年)に亡くなった教員の市野正義であった。市野は生前、何かに役立てて欲しいと自身の退職金から640万円を本学に遺していた。これを基金とする社会福祉事業団の設立が1978年1月の理事会で可決。これは水川にとって長年の夢の実現であった。市野からの厚志を基に、利息も含め、教職員、父兄会(現・後援会)、幸楽会の協力も得て集まった1,200万円のうち、1,000万円を新たに基金として活動を開始。昭和53年度は9団体・1慈善事業へ220万円を寄付し、学生のボランティア活動や教員の社会福祉研究の助成、身体の不自由な学生への支援などを行った。
水川がこの社会福祉事業団について父兄会の役員会で了承を得た際に、さらに自らの夢物語として音楽文化振興財団と奨学事業財団の構想について語ったところ、役員の間から現行月500円の父兄会費を月1,000円に値上げして、値上げした500円分を3つの財団の財源に充てれば可能ではないかとの提案がなされ、役員会を経て父兄会総会でも可決されて、残る二財団も設立の運びとなった。何年かかるか分からない、生涯最後の目標としていた自らの構想が、全く予期せぬ形で実現できたことに、水川は大変感激したという。
音楽文化振興財団の事業内容は、本学教員の演奏会、著作・研究、国内外への留学、演奏旅行、幸楽会各支部の演奏会、音楽文化研究所(のち音楽研究所)提携の著作刊行物、各種市民合唱団や音楽団などの活動奨励、コンクール開催などへの多岐にわたる援助である。外来講師招聘に関わる費用の助成なども手がけるとした。さっそく始動した助成事業の一つに、女声コーラスの指導育成がある。年齢、経験を問わず参加者を募集したところ、18歳から67歳まで、三田市や南河内郡からの応募もあり、184名が集まった。豊中市内106名(八木宣好指導の土曜クラス)と市外78名(谷川勝巳指導の木曜クラス)の2グループに分け、昭和53年7月20日、学内において月3回約1時間半の練習を開始した。同年の大学祭でデビューを飾り、のちにそれぞれ「アルス・ノーヴァ」、「せせらぎ」と命名される。
奨学事業財団は昭和56年度より本学独自の奨学金の貸与、特待生制度を設けて学費援助を開始。奨学金は一般貸与(毎月)と特別貸与(緊急時の一時金)の2種類であった。なお、これら三財団は一部実績が先行し、組織・体制が確立したのは1980年(昭和55年)7月1日のことである。第1回運営会議において、運営方法、企画は大学、父兄会、幸楽会の三者が立案、推進するという基本方針と、各責任者を音楽文化振興財団=学長補佐、奨学事業財団=学生部長、社会福祉事業団=事務局長とすることを決定した。

水川学長が父兄会全員に送った三財団設立に関する書状(昭和53年12月14日)
カリキュラムの改革──「基礎の確立」「個の充実」
1973年(昭和48年)の学長選挙で三選された水川は、2年後の1975年(昭和50年)、学長就任から10年、創立60周年という区切りの年を迎え、本学の将来を鑑み一大決心をする。必要な諸改革断行のために、一旦学長を辞し、信を問うた上で実施したいと教授会に申し入れ、教授会は5月、信任を決議して同学長の任期を改めて1979年(昭和54年)6月末日までの4年とした。これを受けて水川は次年度初回の教授会で、今後の大学教育の基本方針について大きく2つのことを提案する。一つは個別指導の徹底化、そしてもう一つはカリキュラムの多様化によって学生の個性を伸ばすことのできる条件を確立すること。水川自身が教育内容に直接言及するのは学長就任以来、初めてのことで、本学の後退なき発展のためには新機軸が必要であると痛感しての提案であった。これらは全員異議なく承認された。新カリキュラム委員会が組織され、昭和53年度実施をめどに始動する。「基礎の確立」「個の充実」という指標を掲げ、新たな一歩を歩み出すこととなったのである。
検討を重ね、本学の教育目標の3つの柱、すなわち音楽家養成、音楽指導者養成、教養人養成に則って、選択科目の拡充、英才を育てるための科目の開設を決定する。具体的には、教職の選択科目増や「専門特殊研究」の新設などである。この「専門特殊研究」とは、優れた才能を持つ学生により専門的な教育を提供することで、その能力を最大限に伸ばすことを目的としたもので、各専攻によりそれぞれ独自の内容を持っていた。ピアノ専攻はオーディションで選んだ学生に3年次から2年間、特別授業を受けさせ、年に2回の公開演奏会出演、特別外来講師のレッスン受講を課した。声楽専攻は同じく20名ほどの学生を選び、3年次に四半期ずつの歌曲(独・仏・伊)、オペラの4クラスに分かれてグループ・レッスンを行い、ピアノ専攻の「伴奏理論」での歌唱実践と受講も必修とした。4年次はオーディションで学生をさらに半数に絞って、オペラか歌曲のコースを受講させるというものであった。管弦打専攻については、弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器別に「室内楽」の講座を設けて受講させるとした。
この他にも旧科目の内容を発展させたり、より専門性の高い科目の新規開設や演習科目の細分化などにより、選択科目は2倍近くに増えた。他方、専門教育だけではなく、一般教育、基礎教育の徹底も加えて行った。1978年(昭和53年)4月、いよいよ新カリキュラムがスタートした。

ロドルフォ・リッチ氏による声楽特殊研究のレッスン風景(1986年4月)

大学3年 ピアノ特殊研究演奏会(1985年10月11日)

大学4年 声楽特殊研究生による「リート・オペラ発表会」(1991年12月20日)

関西音楽の歴史

2月22日 松下眞一《カンタータ「仏陀」》第3巻 舞台初演(大阪厚生年金会館大ホール)

プログラム表紙

仏教に造詣が深かった松下眞一が法華経の音楽化を意図し、1975年から3年をかけて第1~3巻を作曲(当初全7巻の構想であったが第4巻以降は未完)。作曲と平行してレコード録音され(佼成出版社)、第3巻は前年度の文化庁芸術祭レコード部門国内盤優秀賞を受賞。これを記念した舞台初演であった(全6楽章のうち第3楽章のみ割愛)。演奏は山田一雄指揮大阪フィルハーモニー交響楽団など総勢409人。大阪音楽大学学生有志が合唱に参加、初演に尽力した

2月25、26日 ローラン・プティバレエ団 関西初公演(フェスティバルホール)
27日:神戸文化ホール
28日:京都会館第一ホール
振付家ローラン・プティ率いる総勢60名の初来日。代表作の《ピンク・フロイド・バレエ》やデュティユー《狼》等を上演。《コッペリア》ではコッペリウス役でプティ自ら舞台に立った
3月1日 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラ 関西初公演(フェスティバルホール)
ゲルハルト・ボッセ(Cond・Vn)に率いられての初来日

4月10日~10月5日 大阪国際フェスティバル フェスティバルホール20周年記念 祝祭シリーズ(フェスティバルホール)
当年は回数を掲げず(実質的には第21回目)、会場であるフェスティバルホールの開場20周年を記念した「祝祭シリーズ」として開催。同ホールの開館記念日である4月10日、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(ヘルベルト・ブロムシュテット指揮)の公演で開幕し、初来日のルドルフ・フィルクスニー(Pf)による10月の閉幕公演まで5演目9公演が行われた。ロリン・マゼール指揮のフランス国立管弦楽団・国立放送合唱団、同じくマゼール率いるクリーブランド管弦楽団が来演。 旧ソ連からアメリカへ亡命したマーク・ゼルツァー(Pf)の初来日公演も話題になった

ロリン・マゼール指揮フランス国立管弦楽団

ルドルフ・フィルクスニー

京都公演チラシ

5月19日 イーストマン・ウインド・アンサンブル 関西初公演(和歌山県民文化会館)
20日:京都会館第一ホール
30日:神戸文化ホール
31日:姫路市文化センター
6月1日:大阪厚生年金会館

6月22日 アンドレイ・ガヴリーロフ 関西初公演(大阪郵便貯金ホール)

演奏会収録によるLP


6月30日 貴志康一作品演奏会(甲南高等学校・中学校講堂)
貴志康一の母校である甲南高等学校・中学校の講堂竣工を記念しての演奏会。講堂の一角には貴志の遺品を集めた記念室も新設された。演奏会は関係者のみの公開であったが、朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団、辻久子(Vn)、樋本栄(Sop)が出演。辻はヴァイオリン協奏曲の全曲初演を行った。同校は同年10月に昭和53年度兵庫県文化賞を受賞

9月19日 クリスチャン・ツィメルマン 関西初公演(神戸国際会館大ホール)
20日:京都会館第一ホール
22日:大阪厚生年金会館
10月 大阪府立労働センター(現・エル・おおさか)竣工

プログラム表紙

10月6日 文化庁芸術祭大阪公演「オーケストラの夕べ」開催(フェスティバルホール) 1946年に発足し東京のみで開催されてきた文化庁芸術祭が、当年(第33回)から大阪でも開催。主催公演として洋楽、邦楽、洋舞の3演目が行われ、このうち洋楽部門に朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団と石川静(Vn)が参加し「オーケストラの夕べ」を開催した。同出演者は2日、東京・虎ノ門ホールにての文化庁芸術祭開幕祝典にも参加
10月9日 ガルネリ弦楽四重奏団 関西初公演(毎日ホール) 

10月18、19日 二期会関西支部第11回オペラ公演 ニコライ《ウィンザーの陽気な女房たち》関西初演(大阪厚生年金会館大ホール)
手塚幸紀指揮、栗山昌良演出、京都市交響楽団、二期会関西支部合唱団

チラシ

公演写真(関西二期会提供)

11月6~8日 堺市民オペラ(現・堺シティオペラ)初公演(堺市民会館大ホール)
塩瀬順久指揮、益子務演出、アルモニア・ディ・アルス室内合奏団、堺市民オペラ合唱団
堺市制90周年記念オペラ公演(堺市民劇場第187回公演)として、メノッティ《アマールと夜の訪問者》、プッチーニ《ジャンニ・スキッキ》を上演。6、7日は高校生のための鑑賞会として開催された

プログラム表紙

ジャンニ・スキッキ(堺シティオペラ提供『堺シティオペラ生誕30年の歩み』より)

11月22~24日 現代の波 現代音楽祭 開催(大阪府立労働センター、ラックス・オーディトリアム)
現代音楽を推進してきた大阪楽友協会音楽研究所(辻井英世代表)の創設10周年記念として、3日間にわたり開催。22日は20世紀の作品によるコンサート、23日はテープ・コンサート・講演・シンポジウム、24日は同研究所所員の新作初演が行われた
関西における「地域オペラ」の誕生
1949年(昭和24年)に関西オペラ協会(現・関西歌劇団)が発足。そして1964年(昭和39年)に二期会関西支部(現・関西二期会)が設立された。この両団体による大阪市域を中心とした弛まぬ積極的な活動や、本学を含む音楽系大学で声楽を専攻する学生の増加に伴い、戦後から高度経済成長期にかけて関西のオペラ界は大きな躍進を遂げたといっても過言ではない。特に関西歌劇団は既存のオペラ作品の上演に加え、数々の創作オペラを世に送り出すことにより全国的な注目を集めるに至った。また、関西二期会は新人歌手の育成といった人材養成の面でも多大な貢献を果たしてゆく。こうした両団体による地道なオペラの啓蒙活動や実践の場を広く求める若き声楽家たちの台頭、そして海外のオペラ・ハウスの相次ぐ来演の影響等もあり、1970年代から大阪市域外で新たなオペラ運動の気運が徐々に高まりを見せはじめたのは、ごく自然な成り行きであったと言えるだろう。
1972年(昭和47年)に結成された京都オペラ・グループや、1973年(昭和48年)に発足した創作オペラの会「葦」といった新規団体に加え、1975年(昭和50年)には和歌山オペラ協会、1978年(昭和53年)には堺市民オペラ(現・堺シティオペラ)といった、いわゆる「地域オペラ」が誕生(全国的には大分県県民オペラ協会[1967]、藤沢市民オペラ[1973]等が先行)。1986年(昭和61年)に発足した作曲家・尾上和彦の創作を主に発信する声藝舎といったオペラ集団の他、関西圏では1980年代に入って「地域オペラ」の設立が一挙に拡大してゆく。

  • 1980:神戸オペラ協会(後のニュー・オペラシアター神戸)
  • 1981:明石オペラ協会
  • 1981:ALA DI KOBE
  • 1981:奈良オペラ研究会
  • 1983:滋賀オペラ協会
  • 1985:伊丹市民オペラ
  • 1989:加古川市民オペラグループ(現・加古川シティオペラ)

これらのオペラ協会や団体は、地方自治体の関与、市民参加型、オーディション・システム、といったそれぞれに個別の要素を有しながらも、主な共通点として音楽専門教育を受けた地元声楽家たちが中核となりオペラの制作を担ったのが大きな特徴であった。その幾つかは地元の題材に基づく創作オペラを手掛け、正に地元に密着したオペラ活動を展開(滋賀オペラ協会:野々垣恵信《余呉の天人》[1983]、堺シティオペラ:大野正雄《晶子》[1986]、明石オペラ協会:鈴木英明《イワイさまおじゃったか》[1989]等)。また、ニュー・オペラシアター神戸が行った海外公演や、堺シティオペラにおける海外のオペラ・ハウスとの提携公演等、国外を視野に入れた活動も特筆に値しよう。経費のかさむオペラ制作だけにすでに活動停止を余儀なくされた団体もあるが、1991年(平成3年)の川西市民オペラ(現・みつなかオペラ)、1992年(平成4年)の河内長野マイタウンオペラ、1995年(平成7年)の和歌山ふるさとオペラ(現・和歌山市民オペラ)、1998年(平成10年)の橋本市創作ふるさとオペラ(現・はしもとしふるさとオペラ)、2002年(平成14年)の芦屋市民オペラ、といった「地域オペラ」が1990年代以降も着実に産声を上げ意欲的な活動を行っている。
1982年(昭和57年)、尼崎市総合文化センター大ホール(現・あましんアルカイックホール)が開館。関西二期会や関西歌劇団等と共催してオペラ事業を展開してゆく。そして1989年(平成元年)に本学のザ・カレッジ・オペラハウスが開館し、オペラ上演を開始した。更に、いずみホール(1990年開館)、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール(1998年開館)、兵庫県立芸術文化センター(2005年開館)といった新設の音楽ホールや文化施設が独自のオペラ制作に取組み、平成以降の関西のオペラ界は多様性を増してゆく。

1979年(昭和54年)

大阪音楽大学の歴史

1月22日 学長選挙 水川清一を再選

3月1日 楽器博物館『楽器目録』刊行

3月2日 文化センター(現・K号館)地鎮祭
庄内第二校地の建物を「大阪音楽大学文化センター」と命名。水川理事長・学長をはじめ61名が参集し、地鎮祭が執り行われた。本学の教育・研究施設と同時に地域への大学開放に活用する多目的施設をめざし、1~3階部分を第一期工事、4~5階部分を第二期工事とする改修工事を開始した

5月2日 楽器博物館の一般公開開始
年1回、大学祭での一般公開を行っていたが、目録出版を機に「開かれた大学」をめざし、学外の研究者や地域市民のために定期公開を行うこととなった。毎週水曜日の午後1時~4時半であったが、団体の場合は予約により、それ以外も来館可能とした。各種マスコミにも取り上げられ、大きな反響があった(当時点の資料数:邦楽器298点、東洋楽器311点、西洋楽器276点 計875点)

5月8日 菊原初子、人間国宝に認定
菊原初子教員が多年にわたり古典芸能地歌(箏・三絃)の保存、および後継者育成に尽力、その功績が顕著であるとして人間国宝に認定され、東京の国立教育会館で認定式が行われた

5月13、14日 第2回五月祭「響」
「大音大に望むもの」をテーマに、参加した学生約700名、教員70名が43クラスに分かれてシンポジウムが行われた。学生が日頃感じていることを自由に発言し、討議した

プログラム表紙

6月6~9日 韓国・啓明大学校芸術大学へオペラ視察行
1967年の演奏旅行から12年ぶり、本学二度目の公式渡韓。桂直久、永井和子、柿木功の教員3名が啓明大学校芸術大学のオペラ視察のために、韓国・大邱に向かった。同大学の総長、副総長らと会い、両国の音楽事情、両学の交流などについて情報・意見交換を行った。大邱市民会館で同大学主催のヴェルディ《リゴレット》を鑑賞して帰国。啓明大学校は現在、海外提携校の一つである

6月27日 ヨナ・エットリンガー クラリネット特別講義
公開レッスンを一般にも公開した

9月18、20日 ローター・ブロダック ピアノ特別講義

9月26日 プーリー・アナビアン サントゥール特別講義

10月8日 ブルグハルト・シェファー フルート特別講義

10月12日 大阪音楽大学文化センター(現・K号館)第一期改修工事完了
10月20日 音楽文化研究所年報第8集『音楽文化1979』刊行
次年度に迎える設立15周年に向けての研究所の発展的計画も見据え、『西日本音楽文化資料』を改題して発行。当年度より、「関西洋楽文化史」を当研究所の継続的機関研究の成果として逐次発表していくこととなった。今号はその第1回で、明治20年以前の洋楽渡来期について考察、発表を行った

10月22日 第2回邦楽演奏会(大阪府立労働センター)
水谷一郎教員の新作《溶明》が初演された。プログラムには「邦楽器と洋楽器の両方の楽器に対して伝統的なものを離れた奏法を用いることにより、両者が互いの音響領域に少しずつ侵入してゆくべく構成した」と作曲者の弁が述べられている

チラシ

水谷一郎《溶明》─三群の箏と十七絃および弦と打楽器のために─

10月29日 第23回付属音楽高等学校定期演奏会(毎日ホール)

11月1~4日 大学祭「TUTTI」

11月20日 第22回定期演奏会(フェスティバルホール)
当回の新作は田中邦彦教員の《Omnes gentes…》。エーファ・タナカ・トーマンのラテン語による詩歌“人間讃歌”の一節が核になって作られた、合唱とオーケストラのためのカンタータ

チラシ

田中邦彦《Omnes gentes…》

11月29日~12月1日 演奏旅行(淡路島)
淡路市民文化祭にもメインゲストとして演奏

フィガロの結婚第2幕より

11月30日 音楽学部4回生声楽専攻 オペラ試演会
《カルメン》《トロヴァトーレ》《フィガロの結婚》よりそれぞれ抜粋で上演された。阪上和夫指揮、桂直久演出
12月8日 第13回合唱演奏会(豊中市民会館)

12月18日 第12回吹奏楽演奏会(堺市民会館)
堺市での開催となった。鈴木英明教員の新作《吹奏楽の為のカルマ─I・II》初演を含む6つの吹奏楽オリジナル曲を演奏

チラシ

演奏後握手を交わす鈴木英明、指揮者辻井清幸両教員

関西音楽の歴史

1月22日 第1回日本フルートフェスティバルin大阪開催(御堂会館)

日本フルート協会(1966年設立)の関西部会主催。当フェスティバルは、同協会の関西地方の会員であるオーケストラ団員や学校関係者、及びソリストとして活躍するフルーティスト等が出演する祭典として開催された

チラシ

2月28日 ドレスデン十字架合唱団(現・ドレスデン聖十字架合唱団)関西初公演(フェスティバルホール) 総勢150名という規模で初来日。来日3度目となるドレスデン・フィルハーモニー室内管弦楽団が同行した

神戸公演チラシ

3月8、9日 ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団 関西初公演(フェスティバルホール)
10日:神戸文化大ホール
音楽監督であったエド・デ・ワールトに率いられての初来日
4月8~23日 第21回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
再来日のクシシトフ・ペンデレツキがNHK交響楽団を指揮し本邦初演を含む自作自演により開幕を飾ったのが話題に。ラファエル・オロスコ(Pf)、ジェームズ・ゴールウェイ(Fl)が来演。イタリアの金管アンサンブルであるペザロ五重奏団が初来日、そしてルドルフ・パウムガルトナー率いるルツェルン祝祭弦楽合奏団が関西初公演(1971年初来日)を行った。当回では特別行事として「バイロイトのワーグナー・フェスティバル100年展」(大阪高島屋5階特別展覧会場)も開催された

ペザロ五重奏団​(公財)朝日新聞文化財団提供

「バイロイトのワーグナー・フェスティバル100年展」ハガキ

4月28日 リヨン管弦楽団(現・フランス国立リヨン管弦楽団)関西初公演(大阪厚生年金会館大ホール)
音楽監督であったセルジュ・ボドに率いられての初来日

パンフレット表紙

6月6日 フランツ・リスト室内管弦楽団 関西初公演(毎日ホール)

6月16~18日 ウィーン・フォルクスオーパー 関西初公演(大阪厚生年金会館大ホール)
総勢250名による初の引越し公演で、メラニー・ホリデイ(Sop)、ワルデマール・クメント(Ten)等が参加。レハール《メリー・ウィドウ》とJ.シュトラウスII世《こうもり》を上演

6月27日 ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団 関西初公演(大阪厚生年金会館中ホール)
28日:京都府立文化芸術会館

6月28日 キングズ・シンガーズ 関西初公演(神戸文化中ホール)
29日:大阪厚生年金会館大ホール
7月11~14日 関西歌劇団・二期会関西支部特別合同公演 プッチーニ《トスカ》(フェスティバルホール)
小澤征爾指揮、栗山昌良演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団合唱部、二期会関西支部合唱団、大阪放送児童合唱団
関西歌劇団創立30周年と二期会関西支部創立15周年を記念しての初の合同公演。小澤征爾の《トスカ》初上演に日本の音楽界が注視した

チラシ

公演写真(関西二期会提供)

9月1日 森ノ宮ピロティホール 開館
敷地内の森ノ宮遺跡の保存のため特殊梁によるピロティ方式(高床式)を採用し建設。大阪市の施設としては2008年3月末に一旦閉館。2010年に新装オープンし民間企業の運営となった

9月25~27日 英国ロイヤル・オペラ 関西初公演(フェスティバルホール)

チラシ・プログラム


音楽監督であったコリン・デイヴィス率いる総勢350名による引越し公演(同劇場のバレエ団は1975年に単独で関西初公演)。モーツァルト《魔笛》、プッチーニ《トスカ》、ブリテン《ピーター・グライムズ》を上演した。フランコ・ゼフィレッリ演出の《トスカ》ではモンセラート・カバリエとホセ・カレーラスの共演に注目が集まった

10月5日 ウラジミール・スピヴァコフ 関西初公演(大阪厚生年金会館中ホール)
11日:京都会館第一ホール
5日はリサイタル、11日は京都市交響楽団と共演

11月29日 アルバン・ベルク弦楽四重奏団 関西初公演(毎日ホール)
第21回大阪国際フェスティバル特別展覧会
1979年(昭和54年)4月に開催された第21回大阪国際フェスティバルの一環として、同月19~24日にかけて大阪高島屋5階特別展覧会場にて特別展覧会「バイロイトのワーグナー・フェスティバル100年展」が開催された(同月3~15日は池袋のワールド・インポート・マート・ビルにて開催)。
これは、ヴァーグナーゆかりのバイロイトで1976年(昭和51年)に同祝祭劇場及び同音楽祭の100周年を記念して開催された展覧会を再現するという豪華な企画であった。ヴァーグナー自身の演出により初演された《ニーベルングの指環》や妻コジマ演出による《パルジファル》の衣装をはじめ、息子ジークフリートとその妻ヴィニフレット、そして孫ヴィーラントとヴォルフガング兄弟の三代に渡る100年の歴史と伝統を巡るべく、写真、原画、模型、遺品等の450余点が展示された。大阪国際フェスティバルとしては1967年(昭和42年)の第10回記念として行ったバイロイト音楽祭引越し公演以来となるヴァーグナー関連の大きなイヴェントであり、これを記念して、当時の同音楽祭の総監督であったヴォルフガング・ヴァーグナーが来日。同月6日に大阪SABホールで特別講演会を行った。
関西歌劇団創立30周年と二期会関西支部創立15周年
1979年(昭和54年)、関西歌劇団と二期会関西支部(翌年に関西二期会と改称)はそれぞれ創立30周年、15周年を迎えた。これを記念し、両団体は初の合同公演として7月11~14日の4夜にわたり小澤征爾の指揮でプッチーニの《トスカ》を上演した。小澤の日本国内でのオペラ初上演は1976年(昭和51年)6月に神奈川・東京で行われた東京二期会とのムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》で、当《トスカ》公演は小澤にとって国内2度目のオペラ上演であった。《トスカ》の公演に先立ち、小澤自ら関西歌劇団と二期会関西支部で歌手のオーディションを行い配役を決定。両団体の選りすぐりの歌手陣でダブル・キャストが組まれ、関西歌劇団からは樋本栄(トスカ)、林誠(カヴァラドッシ)、二期会関西支部からは岩田孝子(トスカ)、松本幸三(カヴァラドッシ)らが参加した。「いまはオペラ運動のさなか。まず客を集めねばならない。そのためには日本語で」(昭和53年12月25日 朝日新聞夕刊)という、小澤たっての希望で日本語訳詞の上演となった。13、14日は民音例会として開催。関西では異例の1演目4夜連続公演となったが、会場のフェスティバルホールは満員盛況となった。
また当年、両団体はそれぞれの周年記念を銘打った自主公演を開催。関西歌劇団は5月19、20日に第46回定期公演を行い、辻井英世《小宰相の結婚》(初演)と大栗裕《赤い陣羽織》を併演(大阪府立青少年会館文化ホール)、11月7、8日には第47回定期公演としてプッチーニ《ラ・ボエーム》(大阪厚生年金会館大ホール)を上演した。一方、二期会関西支部は6月6、7日に室内オペラシリーズⅦを開催してブリテン《ルクリーシア》の関西初演を行い、10月24、25日の第12回オペラ公演ではモーツァルト《魔笛》(大阪厚生年金会館大ホール)を上演。関西のオペラ界を牽引する両団体は活況を呈していた。

関西歌劇団創立30周年/二期会関西支部創立15周年記念
合同特別公演《トスカ》プログラム表紙
【関西歌劇団】

第46回定期公演 辻井英世《小宰相の結婚》初演 [5月19、20日](昭和54年6月1日 関西音楽新聞)

第47回定期公演 プッチーニ《ラ・ボエーム》 [11月7、8日](関西歌劇団提供『関西歌劇団50年のあゆみ』)

【二期会関西支部】

室内オペラシリーズⅦ ブリテン《ルクリーシア》関西初演 [6月6、7日](関西二期会提供)

第12回オペラ公演 モーツァルト《魔笛》 [10月24、25日](関西二期会提供『関西二期会創立30周年記念誌』)


1980年(昭和55年)

大阪音楽大学の歴史

2月1日 理事長代行に田中喜一

2月26日 水川清一 永眠(79歳)
学長事務取扱に近藤圭

3月5日 故水川清一大学葬(本学ホール)
専務理事久保田藤麿が葬儀委員長を務めた。本学関係者はもとより、各界からの参列者は1500名を超えた。故水川学長・理事長に従四位が追賜される

3月6日 第3代理事長に久保田藤麿、副理事長に田中喜一就任

3月24日 学長選挙 田中喜一選出

4月1日 第3代学長に田中喜一就任(大学・短大併任)
     学長補佐永井譲

4月1日 小橋潔に名誉教授の称号

5月18、19日 五月祭

5月23日 ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ チェロ特別講義
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチに初の特別名誉教授の称号
大阪国際フェスティバルに出演中のロストロポーヴィチによる公開レッスンを開催。1,000人を超す教員、学生たちがホールの通路、ステージ上を埋めつくした。通訳のヴァイオリニスト佐藤陽子を伴って現れた同氏は3人の学生に、自らピアノを弾きながら、ユーモアを交えて熱い指導を行った。ときおり行われる模範演奏に、ホール全体が感嘆の嘆息に包まれたという。本学初の特別名誉教授の称号を贈り、感謝の意を表した

魅了された模範演奏

芳名帳に記された同特別名誉教授サイン

5月27日 常任理事会設置
同日理事会、および評議員会において常任理事会の設置が決定。構成員は理事長、副理事長と常任理事4名

6月9日 ガブリエル・チョドス ピアノ特別講義

6月21日 関西音楽大学協会 第1回アンサンブルの夕べ(大阪厚生年金会館中ホール)
関西音楽大学協会の新たな企画で、各大学のアンサンブル活動にも目を向け、音楽交流を図る目的で開催されることとなった。

6月27日 アンリ・ドゥ・レクリュー クラリネット特別講義
     ジークリント・クレーマー ピアノ特別講義

7月 短期大学改革諮問委員会発足

7月19日~8月17日「アジアの楽器展」に出品(尼崎市総合文化センター)
大学開放事業の一環として、本学楽器博物館のコレクションによる特別展が尼崎総合文化センター・神戸新聞社共催により開催された。120点の邦楽器、中国、朝鮮からトルコに至るアジア諸地域の楽器340点を出品し、図録編集や展示プランの監修にあたった。会期中、本学教員の講演、演奏も行った

​​チラシ

テープカット

7月30日 大阪音楽大学「文化センター」を「水川記念館」(現・K号館)と改称

8月 中庭造園工事
田中新学長の「音楽という情緒豊かな教育を行う本学に緑が少なすぎる」との声を受け、大規模な造園工事が行われ、現在の中庭の姿となった
9月18日 水川記念館第二期工事完成、同館内に楽器博物館、音楽文化研究所を配設

9月24日 第2回TUTTIコンサート オペラ《愛の妙薬》
専攻、学年の垣根を越えて、みんなで一つのものを創り上げたいとの学生たちの自発的な意志から、4年生が中心となり、4月にアンサンブルのコンサートを開催。それに続く第2回としてオペラ上演を行った。このとき大学院生であった指揮者高橋徹をはじめ、この公演に関わった学生たちの中に、のちに本学教員となる顔ぶれが多数見受けられる。一時中断もあったが、これが現在毎年続けられているTUTTIオペラの第1回公演である

練習風景

公演写真

キャスト・スタッフ

集合写真

9月26日 ローター・ブロダック ピアノ特別講義

9月27日 クラウス・シュトール コントラバス特別講義

10月13日 中国音楽家代表団視察
中国音楽家協会主席の呂驥氏を団長に、計3名の代表団が中国領事館の随行員とともに本学の各施設を視察

握手を交わす田中学長と呂団長

井野辺館長が楽器博物館を案内

10月15日 水川記念館開館、完成披露
65回目の創立記念日に合わせて開館。4階若人広場に各界から600名を招待し、完成披露式を行った。のちに館内各所でデモンストレーションを交えて、施設の機能、特性を紹介。2階ロビーにおいて創立65周年と記念館完成を祝うパーティーが催された

挨拶をする田中喜一学長

10月17日 ヘルムート・ドイチュ ピアノ特別講義

10月22日 第3回邦楽演奏会(大阪厚生年金会館中ホール)
田島亘教員の新作《尺八と箏と打楽器のための小協奏曲》初演、2月に逝去した水川前学長への追悼の意味を込め、合唱が参加して《日蓮》などを演奏

チラシ

宮城道雄《日蓮》

10月27日 第24回付属音楽高等学校定期演奏会(毎日ホール)
今年度末での閉校ということで、今回が高等学校最後の定期演奏会となった。

在校生の演奏に続き、大学在学中の卒業生、教員も加わり、ヴィヴァルディ《四季》より「冬」、初代学長永井幸次の作品より《春の海》《郊外散歩》《菊》(水谷一郎編曲)、高田三郎《心の四季》などを演奏し、音楽高校33年の有終の美を飾った
10月31日~11月4日 大学祭「響応(こだま)─2307人の響き─」
最終日の4日には「水川記念館オープン記念祭」と題して、記念館の各教室において様々な演奏が行われた

11月5日 中国文化省文学芸術研究院代表団視察
10月に続き、中国から二度目の視察団が本学を訪問。白鷹団長はじめ、8名の代表団員が水川記念館などを視察した

11月14日 ブルーノ・サイドルホッファー 特別講義

11月19日 第23回定期演奏会(フェスティバルホール)
当回では教員による新作初演はなく、フォーレとサン=サーンスという、フランス音楽による定期演奏会となった。《レクイエム》を演奏し、亡き水川前学長への哀悼の意を捧げた

チラシ

フォーレ《レクイエム》

11月19日 サンガム・インドミュージック・グループ 楽理特別講義

11月24~28日 演奏旅行(鳥取、岡山県)

11月25日 ニコーレ・ビッキーホルダー ピアノ特別講義
12月6日 第14回合唱演奏会(豊中市民会館)
学生による指揮や、初の試みとして約80名の副科オーケストラが出演するなど、前回までになかった演奏会となった

12月23日 第13回吹奏楽演奏会(森ノ宮ピロティホール)
大阪市での開催。田中邦彦教員の《ピアノと打楽器群と管楽器群の協奏曲》初演や、リムスキー=コルサコフの大曲、交響組曲《シェエラザード》に挑んだ

チラシ

リムスキー=コルサコフ《シェラザード》

中興の祖、逝く
1979年(昭和54年)1月の学長選挙で四度目(1975年の信任投票を含めて五度目)の当選を果たすも体調不良を訴え、3月15日の卒業式出席以降、長い療養生活を送っていた水川学長が1980年(昭和55年)2月26日、腹部大動脈瘤破裂のため、ついにこの世を去った。79歳であった。
創立者永井幸次はその生涯をして、「関西洋楽の歴史である」といわれたが、その永井と出会い、1950年(昭和25年)に本学理事長に就任してからの水川の生涯は、まさに「本学発展の歴史」といえる。朝比奈隆も大学葬において、「豊中の新校地に移ってからあとの目を見張るような本学の発展は、今改めてくり返すまでもなく、みんなあなたの抜群の企画力と実行力に他なりません」と弔辞で述べたように、短期大学への組織変更、庄内移転、庄内校舎の整備、大学設立、全校舎建て替え工事、短期大学部、研究所、博物館、大学・短大専攻科、付属音楽幼稚園、大学院、邦楽専攻の各開設、音楽による国際親善など、その偉業は枚挙にいとまがない。「本学中興の祖」たるゆえんである。
ユーモアに富み、独創的な発想力と大きな包容力を持ち、『永井幸次先生と本学』と題した印刷物に創立者永井の功績を記して毎年配布していたことからも、義に熱い人物であったろうことは想像に難くない。社会福祉、社会教育、音楽教育の向上に尽くした功績も大きく、多方面での活躍が著しかったため、各界から3月5日の大学葬に集まった参列者は1,500名を超えた。
大学葬はブルックナー《交響曲第9番》の流れる中、本学ホールで行われた。半数以上の参列者は入りきらないため、中庭に大テントを設置して式場の模様をテレビ中継した。校歌が演奏され、安置されていた学長室から遺骨が入場、一同黙祷ののち本学管弦楽団が宮本政雄教員の指揮でベートーヴェン《交響曲第3番「英雄」》より「葬送行進曲」を献奏した。葬儀委員長久保田藤麿以下、朝比奈や幸楽会会長木村四郎などの弔辞が続き、亡き水川を偲ぶスライドの映写、前日に発見された故人の詩の朗読や最後の出席となった前年の卒業式の式辞の一部を録音テープで流すなどして、在りし日のその面影に思いを馳せた。
戦後の困難な時代に創立者永井幸次から本学の運営を委ねられて30年、永井亡きあとその遺志を継ぎ、学長としても15年。その強いリーダーシップで現在に至る本学の基礎をすべて築き上げ、帰らぬ人となった水川であったが、晩年、人生最後の念願として学部に第二部(夜間)を開設して三年に編入を許可すること、短大の音楽保育科新設の他、さらに実現したい2つの構想があったという。それがどういったものであったかは現在知る由もないが、本学の発展は常に前進、向上をめざした水川清一という中興の祖なくしては、成し得なかったのである。
水川清一学長・理事長大学葬(3月5日 本学ホール)

校歌演奏で祭壇へ遺骨を迎えた

オーケストラ・ピットで献奏する本学管弦楽団

弔辞を述べる朝比奈隆

朝比奈と水川の出会いは、戦後、外地から引き揚げてきた朝比奈が、荒廃した大阪の地でオーケストラを作りたいと奔走し、大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)を訪れた時にさかのぼる。当時の局長が水川であり、朝比奈の活動に協力、激励をしたという。1947年(昭和22年)、朝比奈は関西交響楽団を創設。3年後に設立された関西交響楽協会の監事、専務理事として、水川は最も困難な初期の10年間、その運営にあたった。朝比奈は弔辞で「大阪フィルハーモニー交響楽団が今日あるのは、その10年間のおかげだとも言えましょう」と水川への感謝の意を述べた。
本学管弦楽団がグリーグ《ペール・ギュント》より「オーセの死」を演奏する中、献花が続いた。その後、遺骨が遺族の胸に抱かれ学長室へ向かう間、中庭のテントにおいて、辻井清幸指揮の本学吹奏楽団がリード《逝ける者への哀歌》を演奏し、惜別の大学葬を締めくくった。

故人を偲んで

宮本政雄教員と台湾演奏旅行にて(昭和41年3月)

服部緑地での体育祭
中央が水川学長・理事長(昭和41年10月)

大阪空港でソウル大学校音楽大学一行を見送る
水川学長・理事長(昭和42年7月)

自ら提唱の日中韓三音楽大学音楽教育会議(昭和45年6月)

三笠宮殿下に楽器博物館をご案内(昭和46年7月)

大学祭にて(昭和53年11月)

最後の出席となった卒業式(昭和54年3月)

水川学長・理事長の書

好んで使われていた言葉

毎年作成、配布していた『永井幸次先生と本学』

毎年「大阪音楽大学の沿革はそのまゝ創設者であり、初代学長の故永井幸次先生の尊い人生記録でもある」の書き出しで始まり、本学の歴史に各年の動向を書き加え、最後は必ず「永い伝統に誇りをもち、創設者永井先生の開学精神にもとづき、若杉がすくすく育ってゆくように常に進歩向上をめざして、新しい校舎でみんなが一つになっていそしんでいるのが、今の「音大」の姿である」という記述でくくられていた。
水川清一学長・理事長のあゆみ
1900年(明治33年) 岡山県吉備郡真備町(現・倉敷市)に生まれる
1926年(大正15年) 25歳 東京大学文学部社会学科卒業
1926年(大正15年) 大阪府立農業補習学校教員養成所教諭
1935年(昭和10年) 34歳 青年学校教員養成所教諭
1936年(昭和11年) 36歳 大阪府社会教育主事
1938年(昭和13年) 37歳 京都府社会教育主事
1940年(昭和15年) 39歳 文部省社会教育官
1942年(昭和17年) 42歳 大使館調査官として中華民国北京、文化局兼政務局勤務
1943年(昭和18年) 43歳 文部省教学官として社会教育局勤務
1944年(昭和19年) 日本放送協会参事、同業務局教養部長
1946年(昭和21年) 45歳 日本放送協会理事、大阪中央放送局長
1948年(昭和23年) 48歳 大阪府教育委員
1950年(昭和25年) 49歳 大阪音楽高等学校理事長
1950年(昭和25年) 49歳 学校法人大阪工業大学理事長
1951年(昭和26年) 50歳 学校法人大阪音楽短期大学理事長
1952年(昭和27年) 51歳 関西交響楽協会専務理事(1959年より理事)
1958年(昭和33年) 57歳 学校法人大阪音楽大学理事長
1958年(昭和33年) 58歳 大阪身体障がい者団体連合会会長
1959年(昭和34年) 大阪音楽大学教授
1960年(昭和35年) 59歳 有限会社大阪交響楽協会代表取締役社長
1960年(昭和35年) 60歳 大阪府社会教育委員
1964年(昭和39年) 63歳 財団法人電子文化研究所理事長
1964年(昭和39年) 64歳 社会教育振興への寄与に対し藍綬褒章受章
1965年(昭和40年) 大阪音楽大学・同短期大学学長、同付属音楽高等学校校長
1966年(昭和41年) 65歳 大阪音楽大学音楽文化研究所所長
1967年(昭和42年) 66歳 大阪音楽大学付属音楽幼稚園園長
1967年(昭和42年) 67歳 大韓民国ソウル名誉市民
1968年(昭和43年) 68歳 関西音楽大学協会会長
1969年(昭和44年) 69歳 大阪文化賞受賞
1970年(昭和45年) 70歳 永年、教育学術文化向上のための多大な功績に対し勲三等旭日中綬章受章
1973年(昭和48年) 72歳 多年の社会通信教育への貢献に対し文部大臣より感謝状
1974年(昭和49年) 73歳 大阪府社会福祉費の寄付に対し紺綬褒章受章
1977年(昭和52年) 76歳 大阪音楽大学楽器博物館館長
1978年(昭和53年) 77歳 身体障がい者福祉事業への尽力に対し厚生大臣より表彰
1980年(昭和55年) 79歳 永眠

水川清一(1900~1980)

水川学長・理事長の胸像
(K号館2階)

第三代学長誕生
1980年(昭和55年)3月15日、水川学長の逝去に伴う学長選挙が行われたが、過半数を得た者がいなかったため、24日に行われた再選挙の結果、副理事長であった田中喜一が学長に就任する。田中は文学の教授で、1971年(昭和46年)に結成された本学教職員組合の初代、第四代委員長を務め、1975年(昭和50年)に理事に就任、本学教職員の給与、定年の両規程作りに手腕を振るった。翌1976年(昭和51年)には新設された学長補佐職(音楽学部)に就くも、翌年その職を退いて音楽文化研究所所長に就任。さらにその翌年となる1978年(昭和53年)には理事長補佐、そして1980年2月1日、水川の様態が急変したことを受け、理事長代行となって法人の実質責任者となった。水川の大学葬の翌日、3月6日、副理事長(理事長職務取扱)に就任していた。

第三代学長となった田中は4月7日、臨時教授会を招集し、就任の挨拶で次の3点を基本姿勢として発表した。
  • 関係各位と徹底した相談の上で事を運ぶ。
  • 財政面、教育面ともに多難のおり、時に水川路線の修正もあり得る。
  • ビジョンは大きく、しかし当面は小さい事柄から一つずつ着手する。
また、自らの心構えとして
  • 事柄を感情で処理しない。
  • 意欲にあふれての失敗は許されたい。消極、怠惰のための失敗は批判を受ける。
と語り、全教職員に一層の奮起と一致協力を要請した。

その後、1984年(昭和59年)の学長選挙で再選、1987年(昭和62年)には理事長にも就任し、学長の任期が満了する翌年まで兼任。1996年(平成8年)3月まで理事長を務めた。学長、理事長在任中には、創立70周年を記念した過去最大の催し「フェスタ70」の開催や、日本初のオペラハウスの建設など、さらなる飛躍をめざしていく。

第三代学長 田中喜一

文学の授業を行う田中喜一学長

学長となって初の大学祭

「開かれた大学」をめざして
1978年(昭和53年)10月、入学定員増の申請のため庄内第二校地として取得した名神口の鉄筋5階建物付き土地は、敷地面積約7,000㎡、2、4階に102レーンを持つ「名神豊中ハイウェイボウル」というボーリング場であった。ここを単なる校舎ではなく、故水川学長の「開かれた大学」をめざすという理念のもと、従来本学になかった新たな施設を創造しようと、「大阪音楽大学音楽文化センター」と名づけ、1979年(昭和54年)3月、創立65周年記念事業として改修工事を開始する。
完成を見ることなく計画実現半ばで、水川が逝去。1980年(昭和55年)7月、水川の名を冠し、新施設の名称を改めて「大阪音楽大学水川記念館(現・K号館)」と命名。生前の水川の功績および、この施設が故人の提唱によって設立されたことを記念し、その趣旨を改めて明確にするためであった。同年9月18日に竣工、楽器博物館と音楽文化研究所がH号館より移転した。
1980年(昭和55年)10月15日、65回目の創立記念日にオープンの日を迎えた。各界約600名の招待客を集め行われた完成披露式の席上、田中新学長が亡き水川の構想を代弁した。「今までの音楽大学というのはレッスン室を中心とする教育であった。しかし、これだけ科学文明が発達した。そういう状況の中で、最新の機械を使いつつ音楽教育の可能性を考えていきたい。そのための施設をまずつくること。そしてもう一つは、その教育を支え、あるいは前進させていく研究機関を充実させること。さらにもう一つの柱は、その教育、研究の成果を「開かれた大学」として社会に開放していくこと。その場としての新しい施設を水川先生は構想されていた」
この構想は音楽音響実験室、音楽教育実験室やオペラスタジオ、録音室といった、当時最新鋭の設備を整えた施設の設置、民族音楽、音楽生理など5研究室の新設、学外に向けての各種公開講座の開催などにより具現化された。式典ののち館内披露となり、各所においてその機能、特性が紹介された。
2階ロビーでは、完成披露と創立65周年を祝うパーティーがなごやかに催された。ロビー空間を広く取ったゆとりのある設計も、「教員と学生のコミュニケーション作り」を強調していた前学長の構想が生かされたものであった。

水川記念館完成披露

完成披露式で演奏する本学吹奏楽団
(4階若人広場)

式典後、デモンストレーションを交えて、各施設の紹介が行われた。

【2階】
邦楽演習室では箏、三味線の演奏、照明によって舞台空間を構成できるオペラスタジオではヴェルディ《マクベス》、ボーイト《メフィストフェーレ》の試演などが行われた。

(左)邦楽演習室、(中)歌曲演習室、(右)オペラスタジオ

天井、壁に60基ものスピーカーを取り付けた音楽音響実験室では、壁面スピーカーによる音源移動演奏やシンセサイザーによる自動演奏、波形スペクトルの分析装置測定などを披露。録音室ではピアノ三重奏の演奏と録音再生が行われた。

(左)音楽音響実験室、(中)音楽音響実験室、(右)民族音楽研究室展示

録音スタジオ

録音調整室

【3階】
ロビーにおいて音楽文化研究所による関西洋楽史資料の展示と、セミナー室ではサクソフォン・アンサンブルのセミナーが行われた。

音楽文化研究所展示

セミナー室

【4階】
音楽教育実験室では教育楽器演奏の実習を移動カメラでモニターテレビに映し、実習風景を再現。楽器博物館においては学生のガムラン演奏などが行われた。

(左)音楽教育実験教室、(中)楽器博物館、(右)ガムラン演奏

各所の披露を終えたのち、2階に場所を移してパーティーが行われた

2階ロビーでのパーティー

水川学長・理事長胸像(開館当初は1階ロビーに設置されていたが、現在は楽聖たちと並んで2階廊下に設置されている)

開館当時の全館見取り図

関西音楽の歴史

2月4日 カナディアン・ブラス・アンサンブル(現・カナディアン・ブラス) 関西初公演(毎日ホール)
5日:神戸文化中ホール
6日:京都会館第二ホール

3月18日 ケルン放送交響楽団(現・ケルンWDR交響楽団)関西初公演(フェスティバルホール)
24日:京都会館第一ホール
25日:神戸文化ホール
首席指揮者であった若杉弘に率いられての初来日

プログラムより

3月29日 メロス弦楽四重奏団 関西初公演(京都会館第二ホール)
31日:大阪厚生年金会館中ホール
同団は1978年に初来日。当公演が関西初となった
4月7日~27日 第22回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
初来日のワシントン・ナショナル交響楽団の公演で開幕。ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの指揮でロシア・プロ等を披露し、アレクシス・ワイセンベルク(Pf)が共演した。4年ぶりとなったフェスティバル能や、サルバトーレ・アッカルド(Vn)のリサイタルも開催。閉幕公演として関西初登場となったセルジュ・チェリビダッケがロンドン交響楽団を指揮し大きな話題に。翌5月22~26日には特別公演として再びロストロポーヴィチが来演。小泉和裕指揮の大阪フィル、夫人のガリーナ・ヴィシネフスカヤ(Sop)や娘のエレーナ・ロストロポーヴィチ(Pf)と精力的な4夜の公演を行った

ワシントン・ナショナル交響楽団を指揮するロストロポーヴィチ

(公財)朝日新聞文化財団・(株)朝日ビルディング提供『永遠の響き~フェスティバルホールの半世紀』より

セルジュ・チェリビダッケ(公財)朝日新聞文化財団提供

プログラム表紙

4月12日~5月2日 大阪フィルハーモニー交響楽団 カナダ・北米公演
同団初の欧州公演から5年ぶりとなる海外遠征。朝比奈隆と秋山和慶の両指揮者に率いられカナダ、北米にて全17回の演奏会を行った。潮田益子(Vn)と弘中孝(Pf)がソリストとして同行
5月12日~10月24日 朝比奈隆 ブルックナー交響曲シリーズ開催(東京カテドラル聖マリア大聖堂)
ブルックナーの交響曲を豊かな響きの会場で演奏するという趣旨で企画された全5回のシリーズで、梶本音楽事務所と日本ブルックナー協会が共催。同協会の会長であった朝比奈隆が在京オケ4団体と手兵の大阪フィルハーモニー交響楽団を振り分け、満員の聴衆を熱狂させた。大阪フィルとは10月24日に《第8番》を演奏。1983年9月、再び朝比奈は大阪フィルと共に同聖堂でブルックナー連続演奏会を開催している

昭和55年12月1日 関西音楽新聞

6月2日 ゲリー・カー 関西初公演(千里協栄生命ホール)

6月4日 スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団 関西初公演(近江八幡市文化会館)
11日:フェスティバルホール
ズデニェック・コシュラー、ラディスラフ・スロヴァークの両指揮者に率いられての初来日であった。当80年代より、欧米のメジャー楽団以外のローカル的なオーケストラの来日が増加してゆく

6月24日 ミハイル・プレトニョフ 関西初公演(大阪厚生年金会館中ホール)
10月7日 モーツァルト室内管弦楽団 モーツァルト交響曲全曲連続演奏開始
門良一の指揮により全74曲(交響曲形式の序曲、セレナーデの抜粋による交響曲や偽作等も含む)を演奏する企画であった。関西の9ヶ所の会場を使用し1986年11月に完結。単独の演奏団体としては日本初の試みであった。楽譜は旧モーツァルト全集を使用

10月13~17日 ウィーン国立歌劇場 関西初公演(フェスティバルホール)
総勢350名による初の引越し公演(同管弦楽団の精鋭メンバーからなるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は単独で1956年に初来日)。カール・ベーム等の指揮により、モーツァルトの《フィガロの結婚》、R.シュトラウスの《サロメ》《ナクソス島のアリアドネ》(関西初演)の3演目を上演。ヘルマン・プライの日本初オペラ登場やアグネス・バルツァ、エディタ・グルベローヴァといった気鋭の女声歌手に注目が集まった

フィガロの結婚

ナクソス島のアリアドネ

10月15日 團伊玖磨《盧舎那仏賛歌》初演(東大寺大仏殿前広場)
堀口大學作詞。東大寺大仏殿の昭和大修理落慶法要のために作曲され奉納演奏(初演)された。演奏は作曲者自身の指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団、中沢桂(Sop)、関西合唱連盟の1200人の大合唱団。3万5000人の参列者を魅了した。翌月24日にはフェスティバルホールで初演メンバー(合唱は400名)により再演。当作品は、2002年10月の東大寺大仏開眼1250年慶讃大法要において初演同様の大規模な編成により奉納演奏され、2001年に死去した團伊玖磨の追悼演奏ともなった

大阪公演プログラムより

12月 アルカディア協会(現・公益財団法人アルカディア音楽芸術財団)創設
中村八千代を代表として神戸女学院大学音楽学部卒業生を中心に設立。アルカディア室内管弦楽団・合唱団を擁し関西を中心に活動を展開

チラシ

12月2日 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 関西初公演(京都会館第一ホール)
3日:フェスティバルホール
創設者ニコラウス・アーノンクールと共に初来日。オリジナル楽器による室内オーケストラとして今日の古楽ブームを牽引する存在となった
大阪フィルハーモニー交響楽団 カナダ・北米公演
社団法人関西交響楽協会(現・公益社団法人大阪フィルハーモニー協会)創立30周年を記念し、1980年(昭和55年)、大阪フィルハーモニー交響楽団は約1カ月にわたるカナダ・北米公演を敢行した。これは約2年がかりで計画が進められたもの。1975年(昭和50年)の同団初の欧州公演に際しては、大阪フィルの永年のファンらが「大阪フィルをヨーロッパに送る会」を結成して渡欧のための募金運動を展開したが、当公演においても「北米公演を成功させる会」が同団の友の会の有志により発足し募金活動が行われた。同団は4月10日に大阪を出発し、12日のカナダ・ヴァンクーヴァーを皮切りに、5月2日のアメリカ合衆国・スケネクタディ(ニューヨーク州)を最終公演地として5日に帰阪した。公演数としてはカナダではヴァンクーヴァーのみの3回、北米では12都市で14回。全17回の演奏会が行われた。指揮には朝比奈隆(7回)と秋山和慶(10回)が立ち、ヴァイオリンの潮田益子(6回)とピアノの弘中孝(8回)がソリストとして出演した。
各者の主な演奏曲目は下記の通りである
朝比奈隆 ベートーヴェン《交響曲第3番「英雄」》
ブラームス《交響曲第1番》
チャイコフスキー《交響曲第4番》
大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》
秋山和慶 ベルリオーズ《幻想交響曲》
チャイコフスキー《交響曲第4番》
シベリウス《交響曲第2番》
大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》
潮田益子 モーツァルト《ヴァイオリン協奏曲第3番》
メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》
弘中孝 グリーグ《ピアノ協奏曲》
ラフマニノフ《ピアノ協奏曲第2番》
4月12日から14日にかけてのカナダのヴァンクーヴァー公演では、大阪フィルは当時秋山が常任指揮者を務めていたヴァンクーヴァー交響楽団と合同演奏を行い、総勢180名による壮観の舞台をつくり上げた。またこれ以後の北米公演は、4月24日のバトルクリーク(ミシガン州)でのコミュニティー活動50周年記念として行われた公演をはじめ、当時人口3~10万規模の諸都市で地域文化の振興に貢献することを目的としたコミュニティ・コンサートとして多数行われたのが特徴的であった。会場は高校や大学の講堂、ヴォードヴィル劇場等であったというが、そういった地域に根ざした活動が盛んな都市部での公演は、大阪フィルにとっておそらく大きな刺激となったに違いない。20日のサンフランシスコや4月30日、5月1日のニューヨークといった大都市でも公演が行われたが、聴衆の反応は積極的で暖かいものであったという。当カナダ・北米公演に同行した音楽評論家の大野敬郎は、朝日新聞に現地での印象を寄稿し「自発的に音楽を楽しむ聴衆に、カナダとアメリカの健康な部分を見た」と総括した(昭和55年5月19日 朝日新聞夕刊)。

「大阪フィルの北米公演を成功させる会」販売のハンカチとライター(昭和54年12月1日 関西音楽新聞)
募金とともに朝比奈隆のサイン入りハンカチとライターなどを販売し、公演資金とした

大阪空港から北米公演に出発する大阪フィルハーモニー交響楽団一行(大阪フィルハーモニー協会提供『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』)

北米公演プログラムの数々

公演スケジュール(プログラムより)

大阪フィルプロフィール(プログラムより)

会場に貼られたポスター

マソニック・オーディトリウム

朝比奈隆指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団

この日はサンフランシスコの姉妹都市である大阪市の大島市長も駆けつけ、儀仗兵とドラムの先導により来場。2,500名の聴衆の中、両国国歌で公演が始まったという。(満谷昭夫氏記)

1981年(昭和56年)

大阪音楽大学の歴史

1月12日 付属音楽幼稚園定員変更(5歳児70名→80名、4歳児70名→80名)

2月7日 FM大阪「カレッジ・オブ・ミュージック・コンサート」500回記念放送
田中学長と桂企画演奏部長の対談を交えて放送。FM大阪から本学に500回記念の楯と感謝状が贈られた

3月31日 付属音楽高等学校閉校
付属音楽高等学校が昭和23年に大阪音楽学校より組織変更以来、33年間の歴史に幕を閉じた

4月1日 水川記念館(現・K号館)に音楽研究所開設 所長浦山弘三
水川記念館開館時に新設された5研究室と音楽文化研究所を統合、資料研究と実験研究の2部門6研究室に再編した

4月1日 特待生制度、奨励研究・研究発表助成制度、非常勤助手(教育・研究)制度の実施

4月21日 楽器博物館第1回レクチャー・コンサート(楽器博物館展示室)
学生たちの音楽教養を広げることを目的に、楽器博物館がレクチャー・コンサートを企画。第1回はコンラッド・ユングヘネル氏による「バロック・リュートの演奏と講演」で、一般にも公開した。現在はミュージアム・コンサートの名称で開催、今年で第78回を数える

4月29、30日 五月祭「つどい」

5月16日 水川記念館公開講座開始
設立趣旨の一つである「教育・研究成果を社会に還元する場」としての使命を果たすべく、水川記念館で小・中学校教員を対象とした公開講座を企画、京阪神地区約1,500校に案内状を送付し、参加者を募集した。初年度はリコーダーと打楽器に関する講座で、単発および隔週土曜日に10回、20回開催のコースもあり、計114名の受講者があった。また6~9月に学内向けの公開講座も開催。

募集要項​

リコーダー公開講座

5月24日 ヘンリック・シェリング ヴァイオリン特別講義
ヘンリック・シェリングに特別名誉教授の称号

特別講義終了後、引き続き特別名誉教授の称号を授与(右写真、右よりシェリング氏、田中学長、永井学長補佐)

6月27日 第1回女声コーラスを楽しむ会─大阪音楽大学の企画による─(大阪府立労働センター)
3年前に本学音楽文化振興財団助成事業の一つとして結成した女声コーラス「せせらぎ」と「アルス・ノーヴァ」の初のコンサートを開催。本学教員の指導による研鑽の成果を披露した

6月30日 水川記念館公開講座「カストラートとカウンターテナーを探る」
学内向けに本学学生・教員対象の公開講座として開催。本学専攻科修了のカウンターテノール、岡田孝氏が演奏と解説を行った。7、9月には植野正敏、水谷一郎両教員によるシンセサイザー講習会を開催

7月8日 中国上海音楽家友好訪日団視察
上海からの友好訪日団が本学を視察。上海の声楽家4名、林誠、草野道広両教員が出演し、本学ホールにおいて交歓演奏会を開催した

水川記念館などを視察

交歓演奏会

7月19日 吹奏楽特別演奏会(豊中市民会館)
7月17、18日にパリ国立高等音楽院教授で、当時フランスの軍楽隊「ギャルド・レピュブリケーヌ」の隊長であったR.ブートリー氏による吹奏楽の特別講義を開催。翌日、指導を受けた本学吹奏楽団が同氏を指揮者に迎え、特別演奏会を行った。ブートリー作・編曲作品、および全日本吹奏楽コンクールをめざす中学・高校生のために昭和56年度課題曲を演奏した。同氏は現在、本学客員教授である

吹奏楽特別講義

吹奏楽特別演奏会出演のR.ブートリー氏

9月24日 ヴィタリ・マルグリス ピアノ・リサイタル(御堂会館)

9月7日~10月9日の1カ月間、特別講義と個人レッスンを行ったウクライナ出身のピアニスト、V.マルグリス氏によるリサイタルを開催。当年度よりピアノ専攻では、毎年1~2カ月間講師を招聘し、その個人レッスンをカリキュラムに定着させた

ピアノ特別講義

ピアノ・リサイタル

9月24日 ’81 TUTTIオペラコンサート モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》(本学ホール)
学生のオペラ自主公演の第2回

9月28日 大阪音楽大学ウインド・オーケストラTUTTIデビュー・コンサート(大阪厚生年金会館大ホール)
関西吹奏楽界の推進力となるべく、関西楽壇で活動する本学卒業生有志と在学生が吹奏楽団「TUTTI」を結成、その初公演を開催した

チラシ

10月8日 エリザベッタ・マイエロン ソプラノ・リサイタル(本学ホール)

10月5~10日に特別講義と個人レッスンを行ったE.マイエロン氏のリサイタルを開催。ギターはジュリアーノ・バレストラ氏

声楽特別講義

リサイタル

10月21日 第4回邦楽演奏会(森ノ宮ピロティホール)
武藤好男教員の新作《対流》、初の試みとして箏によるヴィヴァルディ《四季》より「秋」などを演奏

チラシ

邦楽教員による継橋検校《難波獅子》

10月25日 第14回吹奏楽演奏会(森ノ宮ピロティホール)
7月の特別演奏会で演奏予定であったロジェ・ブートリー氏寄贈の楽譜で、セルジュ・ランセン《ケープ・ケネディ》を本邦初演。山口福男教員の新作《吹奏楽のための「幻夢」》なども演奏。中学・高校生にも多く来場してもらうため、昼公演とした

チラシ

ヴァーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》前奏曲

11月1~5日 大学祭

11月20日 第24回定期演奏会(フェスティバルホール)
乾堯教員の《ピアノとオーケストラのためのSon-Relief》改作を初演、レスピーギ《ローマの松》でしめくくった

チラシ

ドヴォルジャーク《チェロ協奏曲 ロ短調》チェロ独奏:竹内良治教員

11月27日 第一次施設整備
全学の教育・研究・管理すべてにわたる施設の総合整備プランを検討する必要があるとして、理事会の諮問機関「施設総合整備計画委員会」が2月10日に発足。委員会の答申により、順次施設整備を行った。初回はレッスン室、練習室、事務室の一部を改造

12月8~10日 演奏旅行(和歌山・有田)
幸楽会和歌山支部協力の、管弦楽団総勢101名による演奏旅行。宮本政雄教員最後の演奏旅行となった

12月9日 第15回合唱演奏会(豊中市民会館)
施設総合整備計画
本学は逐次施設を増設してきたため、従来全学的な施設利用についてトータル・プランを持っていなかった。こうした状況のもと、水川記念館の開設、付属音楽高校の閉校などに伴う目前の諸問題も生じ、教育、研究、管理の全般にわたる施設の総合整備プランを検討する必要に迫られた。1981年(昭和56年)2月10日、理事会の諮問機関として学内各部門から構成された施設総合整備計画委員会が設置され、同年5月に第一次計画案を答申する。
立案にあたっては、向こう15年以内に本学のキャンパスが全面移転、あるいは大規模な部分移転をせず、総学生数また専攻別人員規模が現状と大きく変化しないことを前提とした。学内全施設の管理状況、利用状況を調査し、各部署より提出された施設面の改善要望の内容を吟味、改修・増設の可否について構造・法律・経費面から検討を行い作成した。まずは当面の課題から議論を進め、その中から長期的展望を見出すという手順で策定され、2年を要して第三次計画案まで答申される。これに基づき昭和56年度から58年度にかけて、教室、講義室、レッスン室、研究室、練習室の改造・改修・増設、事務部署の配置換え、図書館視聴室の新設、学生食堂や駐車場の整備など多岐にわたる学内整備が順次実施された。
当委員会は1983年(昭和58年)2月の第三次計画案の答申提出をもって施設面の改善事項をほぼ総括し得たとして解散するが、今後の課題としてホールの新設を提案している。当時のホールは1969年(昭和44年)に建設されたものであったが、委員会は「舞台設備・付帯設備が不完全であり、また老朽化もしてきている。将来的には本学から比較的近い距離に立地し、かつ交通の便のいい所を用地買収して、本学の中枢施設としてふさわしい先進的設備をそろえた新ホールの建設が期待される」とした。これがすなわち、のちのオペラハウスである。
この委員会の提案による具体的な計画地区の設定は昭和56年度より検討し、用地買収等については翌57年度より着手、1985年(昭和60年)12月には文部省に庄内西町1丁目の土地を取得し、穂積1丁目の庄内第三校地は返却する旨、校地の変更届を提出している。新ホール建設は創立70周年事業へと引き継がれていくこととなる。
付属音楽高等学校閉校
1981年(昭和56年)3月31日、付属音楽高等学校が閉校した。戦後1948年(昭和23年)、大阪音楽学校から大阪音楽高等学校へ新制高校として生まれ変わり、短期大学が設置されてからは付属音楽高等学校となって33年のその歴史に終止符が打たれたのである。思えばこの高等学校設立のための校地転用の交渉斡旋を願いに、永井校長が当時の大阪中央放送局長であった水川清一を訪れたことが、終生二人三脚で本学を導いていくことになる2人の出会いを生んだのであった。1学年40名の生徒で始まった設立当初、永井校長が生徒一人ひとりを面接して入学させたという。音楽学校からの編入組など、1949年(昭和24年)3月の第一期卒業生は、のちに本学教授となる鎌谷静男ら39名であった。
以来、関西初の音楽単科高校として、いち早く義務教育終了者への早期音楽教育と音楽専門大学進学への準備教育に努め、志望者が増加する中でも1学年50名以下という少人数教育に徹した。大学設置後は高校から7年間の一貫教育をめざし、推薦制度を設けた。在校中のコンクール入賞者も多く、1965年(昭和40年)の第19回全日本学生音楽コンクール(毎日新聞社主催、NHK後援)では高校の部のピアノ、ヴァイオリン、声楽の3部門の1位を独占した。続く第25、29回にもそれぞれ声楽、ヴァイオリンで全国1位になるなど、同コンクールでの入賞者は29名におよぶ。33年間で送り出した音楽家の卵は1,636名。この卒業生たちのほとんどが本学へ進み、1968年(昭和43年)の開設以降60名が大学院へ進学している。
高校の閉校は、学校運営の財政的安定に必要な国庫補助金を確保するため、大学、短期大学の入学定員増が急務となり、やむを得ない苦渋の決断であった。定員増の条件である校地拡張を果たすには同じ校内にあった高校を移転せねばならず、一時は幼稚園を閉園し、その跡地に高校を移そうとしたが、土地面積が高校設置の条件を満たさないことが判明し、断念せざるを得なかった。まさに紆余曲折を経ての選択であり、同窓生をはじめ強い存続要望の声があったことも事実である。また、技術・芸術コースを新設し、高校教育の多様化を図ろうとする当時の教育界の流れと逆行するものでもあった。しかし、本学としては「大学院、大学、短期大学の充実、発展へ努力することこそが公共的使命である」と結論づけ、全学のエネルギーを大学に集中させることに舵を切ったのである。
閉校の断を下してから3年後の1981年(昭和56年)2月28日、本学ホールにおいて高校最後の演奏会となる卒業演奏会が開催された。そして3月5日、48名の最後の卒業生を送り出し、付属音楽高等学校は閉校した。

昭和30年頃

昭和39年2年1組クラス写真

校外での演奏会
校内演奏会、本校主催の演奏会だけでなく、校外での様々な演奏会にも出演していた

関西交響楽団ベートーヴェン連続演奏会(昭和28年7月3、4日)本学短期大学生とともに出演

芦屋女子高校出張演奏会
(昭和36年6月27日)

学園風景

(左)高校があったD号館、(中)中庭にて、(右)生徒親睦会

レッスン・授業風景

ヴァイオリンレッスン

ピアノレッスン

オーケストラ授業

合唱授業

ソルフェージュ授業

世界史授業

付属音楽高等学校使用の教科書
三代校長による卒業式

(左)永井幸次校長(昭和32年)、(中)水川清一校長(昭和40年)、(右)横井輝男校長(撮影年不詳)

最後の卒業生

北海道への修学旅行

第24回定期演奏会(昭和55年10月27日)最後の定演の幕が下りた

卒業演奏会プログラム

高校最後の卒業式(昭和56年3月5日)第33期生となる48名が巣立っていった

閉校の挨拶状

研究所の再編成
水川記念館(現・K号館)がまだ大阪音楽大学文化センターと呼ばれていた頃、1980年(昭和55年)4月に発足した文化センター研究計画委員会(のち研究委員会と改称)は、民族音楽、音楽音響など5研究室を開設し、可能であれば音楽文化研究所と統合したいとの計画を立てていた。同年10月15日、文化センター改め水川記念館のオープンと同時に5つの研究室が誕生しH号館から移転を終えていた音楽文化研究所とともに始動する。そして翌1981年(昭和56年)4月、新設の5研究室を音楽文化研究所に統合し、資料・実験の2部門各3研究室の「音楽研究所」として発展的改組を行った。所長には研究計画委員会の委員長を務めた浦山弘三が就任する。
当研究所の設立趣旨は、「大学、短期大学、大学院の共同利用研究施設であって、音楽とその周辺領域に関する学術研究・調査・資料収集を行い、本学全般における研究の進展と教育の質的充実に寄与するとともに、『開かれた大学』の理念にのっとり、学内外を問わず音楽研究者や関連する様々な分野の研究者との交流・共同研究を進め、その成果を広く社会に還元する方向をめざすものである」とされていた。
研究方法の上から、資料研究部門と実験研究部門という2部門に区分され、資料研究部門には音楽文化研究室・現代音楽研究室・民族音楽研究室が、実験研究部門には音楽音響研究室・音楽生理研究室・音楽教育研究室が設置された。各研究室の概要は以下に記す通りだが、その研究成果は1983年(昭和58年)10月15日創刊の音楽研究所年報『音楽研究』に報告されることとなる。
【音楽文化史研究室】
1966年(昭和41年)4月の開設以来行ってきた音楽文化研究所の活動を引き継ぎ、「関西洋楽文化史に関する研究」を中心的テーマに研究を行う。研究資料として関西の洋楽文化活動を中心とした情報資料を収集。
【現代音楽研究室】
現代音楽に関する図書・楽譜・テープや音響・聴覚・心理等に関する資料を収集、分析し、現代音楽の諸問題を多角的に研究する。現代音楽を考えるときに不可欠のテーマである人間の情報処理システムとしてのビートの問題、イメージ化や言語の問題など、心理学的、言語学的、社会学的側面からの研究も試みる。
【民族音楽研究室】
関心が高まる民族音楽の情報センターとして機能すべく資料を収集し、映画会等の開催によりその公開にも努める。中心とする研究課題は「大阪の音楽」で、具体的には“天神祭”を取り上げて、フィールドワークを行う。鶴澤清八遺文庫の浄瑠璃本や、山中豊氏旧蔵のSPレコードのコレクションを併置。
【音楽音響研究室】
演奏された音から、それを音楽として聴く際に重要な意味を有する音響学的要素を抽出し、演奏の型あるいは個性を数量的に把握する。音響的指標と聴取評価の相関についても分析する。また、電子的手段による音の合成・変調により電子音楽を制作し、制作上の諸問題を解明する。
【音楽生理研究室】
運動生理から見たピアノ演奏のための手指の巧緻性について研究する。ピアノ演奏に必要な指の運動群に対応した訓練用楽譜を使って被験者に練習させ、その指の巧緻を経時的に測定して、どの訓練運動がどのように指の可動範囲を拡げることができるかを究明する。
【音楽教育研究室】
幼児音楽研究を中心として、学校教育全般の諸問題について研究する。音楽社会の限られた枠内ではなく、広く一般の幼児を対象に正しい音楽教育の在り方を究める。「幼児の身体反応によるリズム感の育成」、「幼児のメロディー感覚の発達」を当面の研究課題とする。

音楽文化史研究室

民族音楽研究室

音楽生理研究室

音楽教育研究室

音楽音響研究室

音楽音響実験室・電子音楽実験室(手前)(現代音楽研究室兼用)

音楽研究所年報『音楽研究』

音楽文化史研究室企画・制作の公演プログラム、ビデオ、DVD

民族音楽研究室の研究による出版
新展開の特別講義
本学は20数年来、国内外の著名な音楽家や音楽学者、教育者などを招いて特別講義を行ってきたが、特に海外からの講師招聘が増加したのは世界的なチェロの大家、ロストロポーヴィチ氏をはじめ10名の外国人講師を招聘した昭和55年度以降のことであった。翌昭和56年度の教授会で田中学長は、可能な限り多くの著名な音楽人を招いて学内に刺激を与えたい、また長期にわたり滞在して講座を行っていただくことも考えていると述べている。その言葉の通り、国内外を問わず、その年には本学の卒業生で、当時シュトゥットガルト放送交響楽団のトロンボーン奏者であった山本雅章氏を皮切りに、2人目の特別名誉教授となったヘンリック・シェリング氏など18名を招聘した。特別講義の数は年々増加し、創立70周年にあたる1985年(昭和60年)には実に36件も開講されている。そのうち外国人講師は毎年約半数を占めていた。
こうした特別講義は各専攻部会の内発的な動きとして開講されるようになり、年間計画を立ててカリキュラムと連動するスケジュールが組まれていった。ピアノ部会では昭和56年度より毎年1~2カ月滞在の講師を招き、特別講義とともに大学院、専攻科生、専門特殊研究の学生たちの個人レッスンをカリキュラムの中に定着させた。その講師第1号がJ.S.バッハの解釈では現代一流といわれたウクライナ出身のピアニスト、ヴィタリ・マルグリスである。同様の形で、声楽部会でも昭和60年度より、4~7月の間に23年ぶりの来学となるロドルフォ・リッチ氏を招聘、学生たちが個人レッスンを受講した。なお、受講対象外の学生の聴講も自由とした。
また、特別講義において本学吹奏楽団が、世界的に名高いギャルド・レピュブリケーヌ軍楽隊の隊長であったロジェ・ブートリー氏の直接指導を受け、同氏を指揮者に迎えた特別演奏会に出演。指導のみならず、著名な演奏家との共演によりその研鑽の成果を披露するという新たな試みも見られるようになる。そして講師として招いた演奏家のコンサートを本学が主催することも昭和56年度より始まった。
これらの招聘事業の活発化は、本学の音楽文化振興財団の本格的始動による助成も大きな契機となっている。他方、特別講義は内外の協力を得て実施できている場合が多く、東京の音楽大学など他学との連携も図られるようになった。多彩な講師陣による特別講義は本学の特色の一つとなっていく。
1981~1985年開催の特別講義
(写真の残るもののみ列挙、年表に掲出済のものは省略もあり)
【1981年】全18件

C.ラルデ(6月18日フルート)

間宮芳生(6月23日作曲)

山崎孝(6月26日ピアノ)

H.ゼーガ(6月26日声楽)

柴田南雄(7月9日楽理)

R. ブートリー(7月17、18日吹奏楽)

P. バルビゼ(9月29日ピアノ)

遠藤郁子(10月30日ピアノ)

H.ピュイグ=ロジェ(11月6日ピアノ)

R.フィッシャー(12月8日声楽)

【1982年】全28件
渡辺護氏による音楽学連続特別講義(全3回)のように、1人の講師があるテーマについて複数回連続して行う形の講義も開催されるようになる。

A.ジョルダーオ(4月3~10日ピアノ)

A.マリオン(4月20日フルート)

G.スゼー(4月27日声楽)

H.ヴォルフ(4月28日トランペット)

A.エヴァーディンク(5月7日声楽)

R.ボボ(5月22日テューバ)

前橋汀子(6月19日ヴァイオリン)

中田喜直(7月5日声楽)

新田英開(9月16日声楽演技)

佐野英二(9月24日箏)

D.デュファイエ(10月14日サクソフォーン)

A.レスラー(10月27日作曲)

武満徹(11月16日作曲)

小島葉子(12月10日オーボエ)

千葉馨(12月15日ホルン)

【1983年】全16件
特別名誉教授のロストロポーヴィチ氏が3年ぶりに再来学。ヴィタリ・マルグリス氏も2年ぶりに来学し、1カ月間滞在して特別講義に加え個人レッスンを行った。

M.ロストロポーヴィチ(4月28日チェロ)

E.カルコシュカ(5月11日作曲)

J.d.O.ロペス(5月13、14日声楽)

C.ナイディッヒ(6月24日クラリネット)

H.ユンク(9月19日木管五重奏)

A.マリオン(10月14日フルート)

B.スローカー(11月14日トロンボーン)

【1984年】全28件
ジェラール・スゼー、ダルトン・ボールドウィンの両氏が2年ぶりに再来学。それぞれ声楽とピアノ伴奏法の特別講義を行った。パウル・パドゥラ=スコダ氏も2年ぶりに来学。

H.カン(4月26日ピアノ)

D.ボールドウィン(5月17日ピアノ伴奏法)

D.ウィック(5月18日トロンボーン)

W.マルム(5月25日楽理)

G.d.プリュ(6月25日クラリネット)

畑中良輔(7月4日声楽)

A.ゴーティエ(9月10日~11月12日ピアノ)

井上頼豊(9月20日チェロ)

寺崎裕則(10月9日オペラ演習)

市田儀一郎(10月11日ピアノ)

J.モルナール(10月16日ハープ)

P.パドゥラ=スコダ(10月17~19日ピアノ)

平井康三郎(11月19日作曲)

T.ザンデルリンク(12月11、15日オーケストラ)

吉永孝雄(12月14日箏)

【1985年】全36件(件数はフェスタ70のものも含む。写真は「OCMフェスタ70」の記事内に列挙)
畑中良輔氏による「オペラのはじまりとその展開について」と題した連続特別講義が、フェスタ70期間中も含めて、全4回(5、7、9、11月)にわたって開催された。

W.モーア(4月23日声楽)

畑中良輔(5月23日~声楽)

田村宏(5月24日ピアノ)

G.ナードル(7月8日ピアノ)

M.フェルドマン(11月13日作曲)

W.v.ハウエ(11月27日楽理)

M.ベッケ(11月30日トロンボーン)

招聘講師陣によるサイン色紙

関西音楽の歴史

2月3日 オペラ団体協議会 発足
関西歌劇団、東京オペラ・プロデュース、東京室内歌劇場、二期会オペラ振興会、日本オペラ協会、藤原歌劇団など、プロ・オペラグループ9団体により、国内のオペラ振興を目的に結成。新国立劇場建設(1997)に向け連携を密にした。翌年朝比奈隆が同協議会会長に就任し、関西二期会も加盟

プログラム表紙

3月17日 大阪シンフォニカー(現・大阪交響楽団)第1回定期演奏会(森ノ宮ピロティホール)
一般主婦の敷島博子を主宰者として前年9月に発足。12月に会津若松市でベートーヴェン《第9》を演奏し旗揚げ公演を行った。常任指揮者として小泉ひろしが就任

定演前のデビューコンサート

3月20日~9月15日 神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア’81)開催

4月10~28日 第23回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団によるベルリオーズの劇的物語《ファウストの劫罰》の関西初演で開幕(演奏会形式)。スライド映写を伴った斬新な舞台であった。ピエール・フルニエ(Vc)が当フェスティバルに初登場。マーク・ゼルツァー(Pf)、テレサ・ベルガンサ(Mez)が2度目の参加となった

ベルリオーズ《ファウストの劫罰》(公財)朝日新聞文化財団提供・(株)朝日ビルディング提供『永遠の響き~フェスティバルホールの半世紀』より

ピエール・フルニエ

5月24日 神戸市室内合奏団 デビュー・コンサート(神戸文化中ホール)
神戸ポートアイランド博覧会記念事業の一環として同年4月に神戸市が設立。音楽監督・常任指揮者に岩渕竜太郎が就任
6月27、28日 ドレスデン国立歌劇場 関西初公演(フェスティバルホール)
総勢320名での引越し公演(同管弦楽団は1973年に単独で初来日)。前月に開幕したDDR(ドイツ民主共和国)音楽祭の一環として、ジークフリート・クルツの指揮でウェーバー《魔弾の射手》、R.シュトラウス《ばらの騎士》を上演

チラシ

プログラム表紙

7月15日 ダン・タイ・ソン 関西初公演(大阪厚生年金会館大ホール)

27日:姫路市文化センター
31日:フェスティバルホール
前年の第10回ショパン国際ピアノ・コンクールでアジア人(ヴェトナム出身)として初優勝
9月5日 大阪市音楽団 天王寺音楽堂における最後の「たそがれコンサート」 (天王寺音楽堂)
天王寺音楽堂が老朽化のため取り壊され大阪城公園内に新設(大阪城音楽堂)されることとなり、1950年から続く大阪市音楽団恒例の「たそがれコンサート」が同音楽堂最後の催しとして行われた。市民5000人超がつめかけ、《蛍の光》を最後に全員で合唱し音楽堂との別れを惜しんだ

(一社)大阪市音楽団提供『大阪市音楽団60年誌』より

パンフレット

9月23、25~27日 ミラノ・スカラ座 関西初公演(フェスティバルホール)
総勢490名での引越し公演(同合唱団は1977年に単独で初来日)。25、27日はカルロス・クライバー指揮、フランコ・ゼッフィレッリ演出によるプッチーニ《ラ・ボエーム》を上演。23、26日は特別公演としてロマーノ・ガンドルフィの指揮でロッシーニ《小荘厳ミサ曲》を演奏
10月5、6日 日本テレマン協会 テレマン生誕300年記念公演(大阪毎日国際サロン、大阪カテドラル聖マリア大聖堂) 
8、9日:石橋メモリアルホール
文化庁芸術祭主催公演として大阪、東京で各2回を挙行。「今よみがえるテレマンの世界」と銘打ち、5、8日は管弦楽曲と協奏曲のプログラム、6、9日は《ヨハネ受難曲》(1737)の本邦初演を行った

チラシ

12月2日 イーヴォ・ポゴレリッチ 関西初公演(毎日ホール)
5日:ルナ・ホール
第10回ショパン国際ピアノ・コンクールの第3次予選で落選。これに異を唱えた審査員のマルタ・アルゲリッチが本選の審査を棄権した
DDR音楽祭
1981年(昭和56年)の5月から7月にかけて、DDR(ドイツ民主共和国)音楽祭が全国的に開催された。これは当時の東ドイツのベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンという3つの音楽都市から、ベルリン国立歌劇場バレエと同歌劇場管弦楽団、ゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラ、ドレスデン国立歌劇場など、総勢670人が来日し、計68回のコンサートを開催するという大掛りな内容であった。
関西ではフェスティバルホールを会場として5演目6公演が行われた。ベルリン国立歌劇場バレエを皮切りに(5月8日)、オトマール・スウィトナー指揮の同歌劇場管弦楽団(5月25日)、翌月にはゲルハルト・ボッセ率いるゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラの公演(6月19日)、そして初来日となったドレスデン国立歌劇場が記念すべき引越し公演を行った(6月27、28日)。同歌劇場管弦楽団はヘルベルト・ブロムシュテットの指揮で演奏会を開催している(7月2日)。
国内ではかつて、ベルリン音楽祭(1974)、ロシア=ソビエト音楽祭(1975、1978)、チェロスロヴァキア音楽祭(1976)など外来演奏家による華やかな興行が催されてきたが、このDDR音楽祭はそれらを上回る内容、規模を誇るものとして聴衆の大きな期待を集めるものとなった。

DDR音楽祭チラシ・プログラム


1982年(昭和57年)

大阪音楽大学の歴史

1月25日 上海民族音楽訪日演奏団視察

楽器博物館を視察する一行

録音スタジオでの録音を体験

2月20日 付属音楽幼稚園第1回こどものミュージカル「むかしむかし」(本学ホール)
音楽幼稚園としての教育成果を世に問うため、大学の協力を得て、歌と踊りとお話を盛り込んだミュージカルを企画、在園児116名全員が出演した。西岡信雄台本・演出、鹿島正昭作曲、藤本幸男指揮、学生有志による管弦楽伴奏、卒園児、レッスン講師のほか保護者会コーラス「若杉会」も共演。内外幼稚園関係者の注目を集めた

3月20日 宮本政雄教員送別演奏会
本学ホールでの卒業式終了後、宮本政雄教員の退職にあたり、管弦打専攻の学生たちが同教員を送る演奏会を開催した

3月31日 市野文庫目録発行
図書館・博物館館長を歴任の楽理専攻教員、故市野正義氏より寄贈の資料約1,200点が「市野文庫」として整理され、図書館で公開されることとなった

4月1日 付属音楽幼稚園園長に永井譲就任

4月7日 水川記念館で初の合同入学式
従来、入学・卒業式は本学ホールにおいて大学と短期大学を分けて実施していたが、当年度より水川記念館若人広場において、全新入生を一斉に迎えて合同式典を挙行することとなった。式典後、本学吹奏楽団の演奏、楽器博物館でのデモンストレーション、本学ホールにおけるアドリアーノ・ジョルダーオ氏ピアノ・リサイタルなどで新入生を歓迎した
新入生、保護者、教職員合わせて約1,400名による挙式であった

5月11日 ニコレ・ヴィッキーホールダー ピアノ・リサイタル(本学ホール)

6月7日 大阪音楽大学ウインド・オーケストラTUTTI第2回演奏会(大阪厚生年金会館大ホール)
辻井清幸教員に加え、第2部の指揮に朝比奈隆名誉教授を迎え、ヴェルディ《歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲》、ムソルグスキー《組曲「展覧会の絵」》などを演奏

朝比奈は前年のTUTTIデビュー・コンサートの際、「シンフォニーの技術、ブラスのスタミナ、鬼に金棒、日本一」とのメッセージを贈っている
7月14、15日 演奏旅行(大分県)

9月21日 アントン・ディコフ ピアノ・リサイタル(大阪厚生年金会館中ホール)
9月3日~10月6日に特別講義と個人レッスンのため来学中のブルガリアのピアニスト、A.ディコフ氏のリサイタルを開催

10月21日 第5回邦楽演奏会(大阪厚生年金会館中ホール)
植野正敏教員の新作がフィナーレを飾った

チラシ

植野正敏《邦楽器と弦楽器の為の<しい>─共時的認識において─》

11月3~6日 大学祭「Get up」

11月3日 パウル・パドゥラ=スコダ ピアノ・リサイタル(本学ホール)
大学祭期間中、本学音楽文化振興財団と学生自治会共催により、11月1、2日に特別講義を行ったP.パドゥラ=スコダ氏のリサイタルを開催

11月12日 第15回吹奏楽演奏会(尼崎アルカイックホール)
7月に開館したばかりの尼崎アルカイックホールで開催。水谷一郎教員の新作《吹奏楽のための「ゆらぎ」》、リムスキー・コルサコフ《スペイン奇想曲》などを演奏した

チラシ

ウェーバー《クラリネット協奏曲第2番》クラリネット独奏:小川哲生教員

11月15日 第二次施設整備
学生食堂改装、H館2階に研究室増設
11月19日 第25回定期演奏会(フェスティバルホール)
新任のデイヴィッド・ハウエル教員の指揮で、サン=サーンス《ピアノ協奏曲第5番「エジプト」》などを演奏

チラシ

サン=サーンス《ピアノ協奏曲第5番「エジプト」》ピアノ独奏:安川加壽子教員

11月26~30日 演奏旅行(和歌山、明石、相生、姫路市)
第15回和歌山県民文化祭参加、明石コンサート協会ならびにオペラ協会よりの招聘、相生市市制40周年記念事業、幸楽会西播支部結成と、各地でそれぞれ意義深いコンサート出演となった

12月8日 第16回合唱演奏会(豊中市民会館)

12月19日 付属音楽幼稚園第2回こどもミュージカル「ありときりぎりす」(豊中市民会館)

チラシ

公演写真

大音オケの生みの親、勇退
本人の希望により、定年を前に昭和56年度末をもって、宮本政雄教員が退職することとなった。突然の申し出に学生、教職員一同、衝撃を受けたという。田中学長は何度も慰留に努めたが、本人の意思は固く、宮本教員の退職願は静かに受理された。
宮本は小学校6年生でヴァイオリンを始め、早くから外国人の手ほどきを受け、若い頃は天才少年といわれた。同志社大学に学び、卒業後は京都市役所に勤めながら京都交響楽団(京都トーキー楽団が改組したもの)などで演奏を続け、何度も召集を受けて戦地に赴くも無事復員。戦後は朝比奈隆らに勧められて市役所をやめ、朝比奈とともに大阪放送交響楽団や、関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)の初代コンサート・マスターとして活躍する。その後指揮者へ転身、1954年(昭和29年)5月、本学教員となった。
本学のオーケストラ授業が本格的に始まったのは四年制大学に昇格した1958年(昭和33年)のことで、その年から本学管弦楽団が組織されて、演奏旅行に参加することとなる。その授業を担当し、管弦楽団とともに全ての演奏旅行に赴き、定期演奏会をはじめ各種の演奏会でタクトを振ったのが宮本である。学外でのオペラ研究公演も朝比奈が振った数回を除いて、そのほとんどを指揮している。まさに大音オーケストラの生みの親、育ての親であった。
小柄で色白、縁なし眼鏡がトレードマークの宮本であったが、その指導は完全無欠、カミナリを落とすことで有名な大変怖い存在であったという。授業や練習で学生が泣かされることもしばしばで、時間厳守、マナーを大変重んじていた。聴衆に向かうときは、どのような場所で、どのような状況であっても、必ず燕尾服に着替えて演奏を行った。それが宮本の聴衆に対する礼儀であり、音楽に対する姿勢であったようである。
大音オケを率いて24年、本学で指導を受けた管弦打専攻生は500数十名にのぼり、その中から優秀な人材を数多く育て上げた。一方、大学のオーケストラは毎年確実にメンバーが替わるもので、演奏の質を保つには困難がつきまとう。宮本は生前、このように述べている。「オーケストラが音大の看板だなどと言う人があるが、それは実態を知らない者の言うことだ。看板となるように技術的なレベルを上げることだけを目的とするならば、学生の中から学年を問わず最も優れた者だけをピックアップして編成すればいい。しかし、このオーケストラは演奏機関ではなく教育機関なのだ。それを考えたとき、技術の高下ではなく、最終学年の学生を中心として編成せざるを得ないではないか」と。演奏者ではなく、教育者としての姿勢を優先させる言葉である。
宮本と最後の1年を過ごした学生たちは演奏会のたびに、特別の思いで演奏を行ったという。師の退任にあたり、送別の演奏会を企画するが、その1年に宮本と演奏した曲はそのとき以上の演奏はできないと、全く新しいチャイコフスキー《交響曲第6番「悲愴」》を選び、惜別と感謝の意をこめ、宮本に捧げた。
指揮者、宮本政雄
宮本政雄は1950年(昭和25年)4月、関西交響楽団に入団。翌年9月に同団の常任指揮者に転身。1959年(昭和34年)9月、関西交響楽団が2楽団に分かれた際、新たに創設された大阪交響楽団(現同名楽団とは無関係)の指揮者を任されることとなる。

宮本政雄教員の指揮者デビュー(関西交響楽団第51回定期演奏会 昭和27年5月12日)

大阪交響楽団(中央が宮本政雄)(公社)大阪フィルハーモニー協会提供『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』より

本学と宮本政雄教員

短期大学第一回卒業演奏会プログラム(昭和28年3月22日)
宮本教員が初めて指揮した本学演奏会
翌昭和29年5月より本学教員となる

オペラ研究公演を指揮第4回オペラ研究公演《コジ・ファン・トゥッテ》(昭和38年10月29)

宮本教員が指揮した最後の定期演奏会(第24回定期演奏会 昭和56年11月20日)レスピーギ《ローマの松》

宮本教員と本学管弦楽団(昭和44年頃 演奏会不明)

オペラ研究公演練習風景(昭和46年頃)

オーケストラ授業風景(昭和45~47年頃)

演奏旅行
24年間、国内外各地で学生とともに演奏を行った

(左)台湾演奏旅行にて(昭和41年3月)台湾公演を仲介した本学卒業生の藤田梓とともに
(中)ソウル大学校音楽大学との神戸公演(昭和42年6月28日)ソウル大学校音大の林元植教授と握手する宮本教員(左)
(右)ソウル大学校音楽大学との韓国公演(昭和42年11月7日)ソウル市民会館での合同演奏会

学生とともに(撮影日不詳)
旅行先などで関係者から招待を受けても、宿舎で学生たちと過ごすことが多かったという。
最後の演奏旅行
和歌山県民文化会館大ホールにおける最終公演は、アンコールの《赤とんぼ》の頃からステージ上がただならぬ空気に包まれていたという。終演後、学生たちのたっての願いで、再度宮本教員の指揮により、チャイコフスキー《交響曲第5番》の終楽章を演奏した。

終演後、無人のホールで演奏

ステージ袖で胴上げされる宮本教員

昭和56年度卒業式(昭和57年3月20日)
本学での最後の指揮となった
宮本政雄教員送別演奏会(昭和57年3月20日)
指揮を依頼された宮本教員は、演奏旅行でのチャイコフスキー《交響曲第5番》の演奏で大音オケとの別れを済ませたとして、再び指揮台に上がることはなかったという。

指揮は田中弘

宮本政雄教員

宮本教員の労をねぎらう会が催された(開催日不詳)

宮本教員夫妻

花束を受ける宮本教員

宮本政雄教員を偲ぶ会(平成11年7月15日)
前年に亡くなった宮本教員を偲ぶ会が指導を受けた学生、関係者有志により、ぱうぜ2階において催された。

関西音楽の歴史

2月2日 ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団 関西初公演(大津市民会館)
3日:和歌山市民会館
4日:フェスティバルホール
5日:京都会館第一ホール
北欧から来日した初のオーケストラであった。首席指揮者であったオッコ・カムの下、当団に縁あるシベリウスの交響曲などを演奏

チラシ

4月9~26日 第24回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
天才少女と謳われたアンネ=ゾフィー・ムター(Vn)やウィーン室内合奏団が当フェスティバルに初登場。同じく初登場となったジャン・フルネが東京都交響楽団を指揮し精緻な演奏を行った。閉幕を飾ったのは山田耕作の未完のオペラ《香妃》の関西初演。團伊玖磨のオーケストレーション完成及び指揮、栗山昌良演出、京都市交響楽団、関西二期会合唱団、そして中沢桂、丹羽勝海などの日本を代表するオペラ歌手が参加し、豪華な舞台を作り上げた

アンネ=ゾフィー・ムターとアレクシス・ワイセンベルク(公財)朝日新聞文化財団・(株)朝日ビルディング提供『永遠の響き~フェスティバルホールの半世紀』より

オペラ《香妃》
(公財)朝日新聞文化財団提供

4月18日 大栗裕 没

(一社)大阪市音楽団提供『大阪市音楽団60年誌』より

5月15日 大阪城音楽堂 開館
大阪市が大阪城公園内に約3000人収容の野外音楽堂として新設。大阪市音楽団の事務所、練習所が隣接し、同団の新たな本拠地となった
5月25日 喜歌劇楽友協会第1回公演 J.シュトラウスII世《こうもり》(森ノ宮ピロティホール)
小松一彦指揮、菅沼潤演出、関西フィルハーモニー管弦楽団、喜歌劇楽友協会合唱団
オペレッタを専門とする関西初の団体として、向井楫爾が同年1月に設立。2014年5月の公演でその歴史に幕を閉じた

チラシ

プログラム表紙

プログラム表紙

5月29日 民音現代作曲音楽祭 大阪初開催(大阪厚生年金会館大ホール)
1969年の東京開催以来、日本人作曲家へ作品を委嘱し続けてきた当音楽祭が第8回を迎え、聴衆の定着を機に新たに大阪でも開催。山岡重信指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団により石井眞木の作品などが初演された

ゲヴァントハウス・コンサートホールでの演奏(昭和57年8月1日 関西音楽新聞)

6月4~12日 テレマン室内管弦楽団 初の欧州(東独)演奏旅行
ドイツ民主共和国文化省の招聘により、延原武春率いる同団が初の渡欧。東独主要7都市で全9回の公演を行った。参加したドレスデン音楽祭やヘンデル音楽祭などでバッハやテレマンなどの作品を演奏し好評を博した

7月10日 尼崎市総合文化センター アルカイックホール(現・あましんアルカイックホール)開館
10月1日 世界初のCD(コンパクトディスク)プレーヤーとソフト発売
ソニー、日立、日本コロムビアから世界初となる家庭用CDプレーヤーが発売され、CDソフトとしてCBSソニーとEPICソニーから50タイトル、日本コロムビアから10タイトルが発売された。1986年にはLPレコードとCDソフトの国内生産枚数が逆転

10月14日 ザ・シンフォニーホール 開館

11月2日 日本テレマン協会第38回定期演奏会(大阪厚生年金会館中ホール)
延原武春の指揮により、ベートーヴェン《交響曲第9番》を時代考証による奏者編成(総勢100名)で作曲者の指定したテンポに基づき演奏。世界的にも珍しい試みであった。この公演の成果により、同協会は昭和57年度大阪文化祭賞本賞を受賞
アルカイックホールとザ・シンフォニーホールの誕生
1982年(昭和57年)は、関西楽壇における重要な2つの演奏会場が相次いで誕生した記念すべき年となった。まず、7月に尼崎市総合文化センター内に“アルカイックホール” ― 音楽・演劇・バレエなどの公演が可能な多目的大ホール(現・あましんアルカイックホール)とミニホール〈玉翔の間〉(現・アルカイックホール・ミニ) ― を有するホール棟が完成。同センターは1975年に美術ホールなどを持つ文化棟を完工させており、ホール棟の完成によって同センターは大型総合文化施設としてグランド・オープンした。7月10日にアルカイックホール開館記念として、朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団が大ホールで杮落し公演を開催。同月14、15日には同大ホールで関西歌劇団がプッチーニ《お蝶夫人》(朝比奈隆指揮、松山雅彦演出)の公演を行った。‘アルカイック’(ギリシア語のアルケー「太古、始め」に由来)と命名された当ホールは、補助席・立見席を含む2030席を有し、ほぼ3面舞台という関西初の広い舞台構造や充実した設備の面でオペラ上演の理想的な会場であった。これにより、関西二期会が1985年(昭和60年)、関西歌劇団が1987年(昭和62年)にそれぞれの定期公演の会場と定めることになる。同ホールはこれらのオペラ団体との共催という形でオペラ事業を積極的に展開し、関西のオペラの拠点として全国的な注目を集めてゆくこととなった。
アルカイックホール開館3カ月後の10月、国内初のクラシック音楽専用の“ザ・シンフォニーホール”が大阪市大淀区(現・北区)に誕生。朝日放送創立30周年記念事業の一環として建設されたものだが、このホール建設は大阪のみならず日本の文化向上に貢献しようとした当時の朝日放送社長、原清の念願でもあった。座席数は補助席・立見席を含む1845席。満席時の「残響2秒」という美しい響きが徹底追求されたコンサートホールであり、ホール建設当初から深いかかわりのあった朝比奈隆の要望により、客席が舞台を360度取り囲むアリーナ・シアター形式の採用(国内初)や、ステージ後方には国内最大級となるスイス・クーン社製のパイプオルガンを設置するなど実に画期的な試みがなされた。
このホール開館記念「オープニング・セレモニー」として、10月14日に朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団、チェコスロヴァキアのオルガニストであるフェルディナンド・クリンダ(1961年に母国で朝比奈と共演)が出演。ヴァーグナー《「ニュルンベルグのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲》や、スフォーニュ《オルガン、弦楽器、打楽器のためのB-A-C-Hによる交響的幻想曲》などの演奏を行なった。同月16日から11月3日にかけて「オーケストラ・シリーズ」として国内5つの主要オーケストラが登場。朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団(10月16日)、尾高忠明の札幌交響楽団(10月20日)、小泉和裕指揮の京都市交響楽団(10月27日)、岩城宏之指揮のNHK交響楽団(11月1日)、小澤征爾指揮の新日本フィルハーモニー交響楽団(11月3日)らが個性溢れる熱演を繰り広げ、開館を祝った。
1984年(昭和59年)10月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いたヘルベルト・フォン・カラヤンが同ホールに初来演。その素晴らしい音響を賞賛し、ザ・シンフォニーホールは一躍世界的な脚光を浴びることとなった。当ホールの建設された1980年初頭からクラシック専門の音楽ホールが全国的に次々と誕生し、バブル景気を通じて一種の“コンサートホール・ブーム”と呼びうる様相を呈してゆく。正にザ・シンフォニーホールは、その先駆的かつ代表的な存在として歴史的にも大きな意義を有することになる。
【アルカイックホール】

ホール内部

開館記念プログラム

開館記念プログラム

関西二期会 第24回オペラ公演
レハール《メリー・ウィドウ》

関西歌劇団 第56回定期公演
グノー《ファウスト》

【ザ・シンフォニーホール】

国内初のアリーナ・シアター形式

スイス・クーン社製のパイプオルガン

開館記念コンサート(10月14日)
朝比奈隆指揮

(公社)大阪フィルハーモニー協会提供『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』

オーケストラ・シリーズ
(10月16日~)プログラムより

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団公演(1984年10月18、19日)
プログラム表紙


1983年(昭和58年)

大阪音楽大学の歴史

1月25日 中華全国青年連合会民族音楽代表団視察
親善訪問で来日中の中華全国青年連合会民族音楽代表団を招聘し、水川記念館見学、歓迎昼食会に続き、第6回楽器博物館レクチャー・コンサートを開催。「中国民族音楽と楽器─日本伝統音楽との交流─」と題したコンサートは、東洋音楽学会関西支部特別例会および音楽学会関西支部第160回特別例会も兼ねて行われた

コンサートには中国音楽学院の教員・学生等7名、本学邦楽教員・学生計8名が出演

4月1日 大学院作曲専攻に楽理研究室開設 主任井野辺潔

4月1日 大阪音楽大学奨学事業財団奨学金制度制定・施行
これに先駆け、同財団による学生への貸与は昭和56年度から実施

4月1日 沖田静子に名誉教授の称号

4月1日 大阪音楽大学手帳(昭和58年度)初配布

4月 「テープ・ライブラリー」の制作開始
水川記念館の新事業として、同館の録音スタジオを使用して本学教員の演奏を高度な録音技術で記録した「テープ・ライブラリー」を制作し、学生たちに模範、研修用として役立つ音資料を残すこととなった

大阪音楽大学手帳

テープライブラリーによるLPレコード『茂山千之丞 大蔵流狂言小謡』

5月4日 付属音楽幼稚園「ナースリー・サークル」開始
入園準備の3歳児と母親のための教室「ナースリー・サークル」を開設。豊かな感性を育成し、親子のコミュニケーションを大切に、歌やリズム遊びを通して音楽感覚を身につけることをめざした

5月13日 ジョゼ・デ・オリヴェイラ・ロペス バリトン・リサイタル(本学ホール)
5月13、14日に声楽特別講義を行った同氏によるリサイタルを開催

5月18日 インド総領事訪問
当年度より、本学が正規の講座としては日本の大学で初めて「インド音楽演習」講座を開設したことを記念して、A.L.シリヴァスター総領事が本学を訪問、受講生たちを激励した。同講座は西洋の音楽だけでなく、近隣のアジア諸国の音楽も知ることを目的に開講したもので、講師にはシタール演奏家のS.K.タゴール氏を招聘した

A.L.シリヴァスター総領事

授業風景を見学
(右端はタゴール教員)

6月26日 木村四郎幸楽会会長辞任 後任に野口幸助就任

9月1日 第三次施設整備
水川記念館練習室増設、同201教室・F号館教室改修、D号館教室を視聴覚教室として新装など

9月9日 ヴィタリ・マルグリス ピアノ・リサイタル(大阪郵便貯金会館)
9月1日~10月4日に特別講義と個人レッスンのため再来学中のV.マルグリス氏のピアノ・リサイタルを開催。ブラームス生誕150年にあたり、全曲ブラームスというプログラムであった

10月15日 『音楽研究』(音楽研究所年報)創刊
2年前に開設された音楽研究所の年報を発刊し、6研究室の研究成果を発表することとなった

10月21日 上海民族音楽団視察

楽器博物館

録音スタジオ

10月21日 第6回邦楽演奏会(大阪厚生年金会館中ホール)
鈴木英明教員の新作、宮城道雄《交声曲「松」》などを演奏

チラシ

鈴木英明《箏・十七絃・弦楽器・打楽器のための“弧”》

10月24日 前橋汀子 ヴァイオリン・リサイタル(本学ホール)

10月28日 ポルトガル政府よりレコード受贈
ポルトガルより大阪築城400年を記念して、大阪の大学およびオーケストラ等に記念品の寄贈があった。贈呈式が「’83大阪世界帆船まつり」で大阪港に寄港するポルトガル帆船「ザグレス」において行われ、本学を含め、大阪フィルハーモニー交響楽団、相愛大学など6団体がレコードを受贈した

ポルトガル帆船「ザグレス」

寄贈を受ける永井譲学長補佐

10月31日 第16回吹奏楽演奏会(尼崎アルカイックホール)
乾堯教員の新作《“ドメーヌ”─15の管楽器と打楽器の為の─》やクレストン《マリンバとバンドの為の小協奏曲》などを演奏。マリンバ独奏は大学4年生の相澤睦子が行った

11月3~5日 大学祭「はぶ・あ・ぐっど・たいむ!」

11月8日 第三次中国学前・小学教育考察団視察

幼稚園を見学

水川記念館の音楽教育実験室

11月9日 故大栗裕教員の自筆楽譜、図書館へ寄贈
前年63歳の若さで亡くなった故大栗教員の自筆譜の散逸を防ごうと、朝比奈隆名誉教授を委員長に発足した「大栗裕作品管理委員会」より、収集した自筆楽譜約250点が図書館に寄贈された。これらを「大栗文庫」として公開を開始した(現在は他団体に譲渡)

11月17日 中国音楽家代表団視察

11月24日 第26回定期演奏会(フェスティバルホール)
山口福男教員の新作《オーケストラのための…「暖流」》、音楽学園児の児童合唱を含む総出演者376名によるオルフ《カルミナ・ブラーナ》などを演奏

チラシ

オルフ《カルミナ・ブラーナ》

11月25日 エルザ・コロディーン ピアノ・リサイタル(本学ホール)

11月26~28日 演奏旅行(奈良県)
幸楽会奈良県支部発足を記念して行われた

E.コロディーン リサイタル

奈良演奏旅行

12月3日 付属音楽幼稚園第3回こどもミュージカル「スイミー」(豊中市民会館)

12月10日 第17回合唱演奏会(豊中市民会館)
創立70周年に向けて
1985年(昭和60年)に創立70周年を迎える本学は、その記念すべき節目の年をさらなる飛躍の足がかりとすべく、1983年(昭和58年)より早々にその準備に向けて動き出した。
9月20日、理事会、教授会、幸楽会の三者代表が集まり、久保田藤麿理事長を委員長とする「創立70周年記念事業運営委員会」が発足、3事業を実施することがこのとき決定した。
  • 演奏会・公開特別講義など記念行事の開催
  • 本学七十年史の編纂
  • ホール建設を軸とする環境整備
この決定に従い、全学をあげて取り組むこととなった。
翌1984年(昭和59年)4月9日、「創立70周年記念コンサート実行委員会」が設置され、演奏会の内容、構成、開催期日、広報の方法について協議に入った。1985年(昭和60年)10月1日から創立記念日の15日までに各演奏会、特別講義を集中して行うとの大筋が決まり、あとの具体的な実施作業は企画委員会が引き継ぐこととなった。
70年史の編纂は同じく1984年秋から準備を開始し、関係資料、写真、演奏会プログラム、楽譜などの収集、整理を進めた。1985年9月末に田中学長を委員長に7名の編集委員が決定、スタッフとともに編集方針、構想を練って本学初の年史の編集作業に取りかかった。3年半をかけて1988年(昭和63年)3月、『楽のまなびや』というタイトルで刊行した。
また、施設総合整備計画委員会からの提言を引き継ぐ形で70周年記念事業の一つとなったホール建設については、コンサート・ホールの機能も備えた日本初のオペラハウスの建設を計画。1987年(昭和62年)11月に着工することとなる。

関西音楽の歴史

4月8日~5月8日 第25回記念大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
ワシントン・ナショナル交響楽団の公演で開幕した当記念回では、初来日となった香港フィルハーモニー管弦楽団のほか、NHK交響楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、英国ロイヤル・バレエ団といった内外の著名団体などが来演し、8演目全12公演が華々しく開催された。中でも、ヤマハ音楽教室の子供たちが出演したジュニア・オリジナル・コンサートでは、非凡な才能に多くの聴衆が驚嘆した

プログラム表紙

4月19日 朝比奈隆音楽生活50周年記念 大阪フィル特別演奏会「ブラームスの夕べ」開催(ザ・シンフォニーホール)
当大阪公演を皮切りに、朝比奈は同団を指揮して神戸、名古屋、東京、京都の全国5都市で特別演奏会を行った。関西歌劇団、梶本音楽事務所、民音、大阪フィルハーモニー合唱団なども記念演奏会を企画し、その半世紀にわたる業績を讃えた

チラシ

内田光子との共演(昭和58年5月1日 関西音楽新聞)

6月11、16日 ウラディミール・ホロヴィッツ 初来日公演( NHKホール)
20世紀を代表するピアノの巨匠が80歳にして待望の初の訪日。東京公演のみであったが社会的なニュースとなった

8月30日 オペラ・ガラ・コンサート(フェスティバルホール)
大阪国際フェスティバル協会特別公演として、初来日のフランコ・ボニゾッリ(Ten)をはじめ、グンドゥラ・ヤノヴィッツ(Sop)、ピエロ・カップチルリ(Bar)、ニコライ・ギャウロフ(Bas)が出演(予定されていたミレッラ・フレーニは病欠)。数々の名オペラ・アリアを披露した。世界の一流オペラ歌手たちによるガラ(祝祭)・コンサートの企画はこれが国内初であった

チラシ

プログラム

10月8日 大阪城国際文化スポーツホール(現・大阪城ホール) 開館
大阪城築城400年記念、及び大阪21世紀計画の一環として建設。最大収容人数約16000人を誇り、西日本を代表するアリーナ形式の多目的大型ホールとなった

ユーリ・バシュメット
(プログラムより)

10月11日 ユーリ・バシュメット 関西初公演(ザ・シンフォニーホール)
初来日したモスクワ・ヴィルトゥオーゾ室内管弦楽団のソリストとして同行。1976年ミュンヘン国際コンクールで優勝し、気鋭のヴィオラ奏者として世界的注目を集めていた
10月22、23日 関西二期会第20回オペラ公演 プッチーニ《3部作》関西初演(大阪厚生年金会館大ホール)
24日:京都会館第一ホール
福森湘指揮 栗山昌良演出 京都市交響楽団 関西二期会合唱団
《外套》《修道女アンジェリカ》《ジャンニ・スキッキ》の3部作を一挙上演。関西初の試みであった。24日は京響オペラ公演として開催

外套
(公財)関西二期会提供『関西二期会創立30年記念誌』より

チラシ

修道女アンジェリカ

ジャンニ・スキッキ

11月15日 大阪市音楽団創立60周年記念 第47回定期演奏会(フェスティバルホール)
朝比奈隆が客演指揮者として登場。メイン・プログラムのベルリオーズ《葬送と凱旋の交響曲》には本学合唱団が参加。吹奏楽と合唱による希少な作品の演奏に貢献した

チラシ

プログラム

12月4日 サントリーオールド1万人の「第九」コンサート(現・SUNTORY 10000 Freude サントリー1万人の第九) 初開催(大阪城ホール)
「大阪築城400年まつり」の一環として開催。山本直純指揮の下、大阪フィル、京響、関フィルの合同オーケストラ200人、そして一般参加と大阪フィル合唱団などのコーラス・グループ全26団体の総計6300人からなる「1万人の第九」特別合唱団がベートーヴェン《交響曲第9番》を演奏。終楽章の「歓喜の歌」のフレーズでは観客7000人も演奏に加わり、史上初の10000人を越える大合唱が実現した

チラシ

大阪フィルハーモニー協会提供『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』より

12月8日 ヨーヨー・マ 関西初公演(ザ・シンフォニーホール)
1981年に初来日していたが当リサイタルが関西初公演となった

1984年(昭和59年)

大阪音楽大学の歴史

1月23日 学長選挙 田中喜一を再選

3月23日 楽器博物館『楽器目録』第二集刊行

4月1日 木村絹子に名誉教授の称号

5月18日 ジェラール・スゼー バリトン・リサイタル(本学ホール)

2年ぶりに来学し、6月1日に特別講義を行ったG.スゼー氏のリサイタルを開催。ピアノはスゼー氏とともに再来学し、前日に伴奏法の特別講義を行ったダルトン・ボールドウィン氏
9月1日 事務機構整備
4部局9課2事務室に再編成を行った

9月18日 アンリ・ゴーティエ ピアノ・リサイタル(毎日ホール)
10月5日 同 ピアノ・コンチェルト特別演奏会(本学ホール)
9月10日~11月12日に特別講義・レッスンのため来学中のH.ゴーティエ氏の演奏会を開催。コンチェルト特別演奏会ではデイヴィッド・ハウエル教員指揮の本学管弦楽団と、ショパン《ピアノ協奏曲第1番》が演奏された

リサイタルチラシ

ピアノ・コンチェルト特別演奏会

10月19日 パウル・パドゥラ=スコダ ピアノ・リサイタル
10月17、18日に特別講義を行った同氏のリサイタルを開催

10月29日 第7回邦楽演奏会(大阪厚生年金会館中ホール)
田中邦彦教員の新作、合唱団も共演の宮城道雄《道灌》などを演奏

チラシ

田中邦彦《尺八・箏・十七絃とオーケストラのためのファンタジー》

10月30日 第17回吹奏楽演奏会(毎日ホール)
故大栗裕教員の《吹奏楽のための神話─天岩屋戸の物語による─》、オーディションで選ばれた学生の独奏によるガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》などを演奏

チラシ

ガーシュイン《ラプソディー・イン・ブルー》ピアノ独奏:沢田真智子(大学院1年生)

11月1~3日 大学祭「青春ふぉるてっしも」

11月15日 カールマン・ドボス/和波孝禧ジョイント・リサイタル

和波孝禧

カールマン・ドボス

11月20日 第27回定期演奏会(フェスティバルホール)
榎本利彦、デイヴィッド・ハウエル、松尾昌美の3教員がそれぞれ指揮を受け持った

チラシ

ショパン《ピアノ協奏曲第1番》ピアノ独奏:松浦豊明教員

11月24~27日 演奏旅行(大阪府、三重県)

11月25日 第1回推薦入学試験実施
昭和60年度音楽学部入試に推薦入試を導入。将来性のある専攻科目の優秀な人材を求める一方策とした。適性検査・面接により49名が合格、11月27日に掲示発表を行った
12月1日 付属音楽幼稚園第4回こどもミュージカル「大きなトチノキとハニワん坊」(豊中市民会館)

12月5日 第18回合唱演奏会(豊中市民会館)
事務機構整備
昭和59年度、事務機構が大幅に再編成された。これまでの事務組織は自然発生的に拡大、分化を重ねてきており、それを抜本的に見直すことは初めてのことであった。田中学長は『四季楽報』第27号の中で「私立大学がむずかしい時期にあたる時、それに対応できる“体力づくり”をすることが今回の機構改革の非常に大きな“柱”だと思います」と述べているが、この機構整備の基本構想は、(1)学内の教育・研究活動推進のために事務サービスの向上を図る、(2)対社会的な大学振興活動の活性化に必要な事務体制を整備する、(3)事務スタッフの自発性・企画性を一層啓発する、以上の3点に主眼を置いて策定された。
1983年(昭和58年)5月に11名からなる「事務機構諮問委員会」が設置され、審議の結果、同年10月に中間報告、翌1984年(昭和59年)3月に最終答申が出された。それによれば、事務機構をまず大きな3つのブロックに分けてとらえるというものであった。3つのブロックとは、すなわち教授会等と直接対応する学務事務部門群、理事会等と直接対応する運営管理事務部門群、そして対外的事業に係る事務部門群である。この第3のブロックは組織運営と教育研究の両面にまたがった機能を持つ中間的性格のものと位置づけ、他の2ブロック双方と密接な関連性を維持することが必要とされた。田中学長は前出の『四季楽報』の中でこの事務部門群について「今回の機構改革の目玉であり、大学の命運がかかっていると捉えています」と指摘している。
この答申を受け、同年6月7日に久保田理事長より「事務機構整備の基本構想について」という文書が配布された。機構改革の目玉とされた第3のブロックは、大学が蓄積した学問や芸術成果を広く社会に還元し、社会との強調を図って“開かれた大学”の理念を実現促進するための機構であるとして「企画振興部」と名づけられた。さらに、研究活動の振興と、図書館、楽器博物館、音楽研究所の3付属機関の事務円滑を図るため、事務機構諮問委員会より提案のあった「研究課」も新設された。4部局9課2事務室に再編された新機構は9月1日より発足した。

【新事務機構】
  • 教務部──教務課
  • 学生部──学生課・就職指導課
  • 企画振興部──入試課・企画課・水川記念館事務室
    ・図書館───┐
    ・楽器博物館─┼──研究課
    ・音楽研究所─┘
  • 事務局──総務課・経理課・技術管理課・短期大学第二部事務室

関西音楽の歴史

3月15日 関西二期会創立20周年記念 オペラ20年展(毎日ホール)
同会が過去に上演したオペラから名アリアを取り上げ、団員の独唱と重唱で綴った。同じく周年記念として、同会は6月の第21回オペラ公演でブリテンの《真夏の夜の夢》の関西初演を行った

4月13~25日 第26回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
初来日のクラウス・テンシュテットがロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し開幕公演を飾った。同団のほか、リサイタルをもったムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Vc)やクルト・マズア指揮の読売日本交響楽団がベンジャミン・ブリテンの作品を相次いで取り上げたのも話題に。初来日のレオンタイン・プライス(Sop)は超満員の聴衆の期待に違わぬ名唱を披露

K.マズア指揮読売日本交響楽団(公財)朝日新聞文化財団・(株)朝日ビルディング提供『永遠の響き~フェスティバルホールの半世紀』より

L.プライス リサイタル(公財)朝日新聞文化財団提供

4月24日 フルトヴェングラー《交響曲第2番》本邦初演(フェスティバルホール)
フルトヴェングラーを尊んだ朝比奈隆の指揮により、大阪フィルハーモニー交響楽団第200回定期演奏会で初演。フルトヴェングラー没後30年を記念した公演であった

5月22、23日 ハンブルク国立歌劇場 関西初公演(フェスティバルホール)

同歌劇場総監督であったクリストフ・フォン・ドホナーニ率いる総勢350余名の引越し公演。モーツァルト《魔笛》、ヴァーグナー《ローエングリン》を上演
6月6日 豊中市立アクア文化ホール 開館

演奏会収録によるLPレコード

9月13日 貴志康一《交響曲「仏陀」》初演(ザ・シンフォニーホール)
1934年に貴志自身がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し初演した当作品を、関西フィルハーモニー管弦楽団第46回定期演奏会にて小松一彦が指揮

10月12日 アンサンブル・ウィーン=ベルリン 関西初公演(ザ・シンフォニーホール)
10月29日 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 関西初公演(フェスティバルホール)
新進気鋭の指揮者であったリッカルド・シャイーと共に初来日

プログラムより

11月22、23日 関西歌劇団創立35周年記念 第53回定期公演 ヴェルディ《ドン・カルロ》(大阪厚生年金会館大ホール) 
朝比奈隆指揮・訳詞、松山雅彦演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団合唱部、大阪メンズコーラス
朝比奈隆が同歌劇団の定期を指揮した最後の公演であり、1953年にデビューし長年プリマを務めた樋本栄の最後のオペラ舞台ともなった

チラシ

(特非)関西歌劇団提供『関西歌劇団50年のあゆみ』より

12月2日 ベルリン放送交響楽団 関西初公演(ザ・シンフォニーホール)
6日:京都会館第一ホール
首席指揮者のハインツ・レークナーに率いられての初来日

1985年(昭和60年)

大阪音楽大学の歴史

3月11日 大阪音楽大学ウインド・アンサンブル演奏会(ザ・シンフォニーホール)
本学教員と学生によるウインド・アンサンブルによるデビュー・コンサート。2月実施の入学試験合格者を招待した新入生歓迎の意味も持つ演奏会で、創立70周年の幕開けとなる企画であった

チラシ

シャミナーデ《フルートのためのコンチェルティーノ》op.107
フルート独奏:曽根亮一

4月1日 『大阪音楽大学広報』創刊
「開かれた大学」という本学の理念の一環として、大学と社会を結ぶ接点となる広報紙を発刊することとなった。読者にとって有益かつ、本学の生きた情報を発信することで本学に対する社会的認識を高めることをめざした

4月19日 アラン・クレムスキー 公開演奏会(本学ホール)
ローマ作曲コンクール、パリ市音楽コンクール両グランプリ受賞し、ピアノとチベット鉢という独特の組み合わせによる演奏活動を行うA.クレムスキー氏の演奏会を開催
7月20~26日 演奏旅行(大阪府、山口県)
本学吹奏楽団が生駒中央公民館を皮切りに、下関市、防府市、岩国市の各地で演奏会、バンド・クリニックを行った

9月20~22日 大学祭「交響曲第70番<フェスタ>」

9月24日~10月15日 OCMフェスタ70
創立70周年記念事業の一環として、「OCM(Osaka College of Music)フェスタ70」と銘打ち、期間中、学内外において18の演奏会、22の特別講義を行った。学外の公演会場は大阪厚生年金会館(大・中ホール)、森ノ宮ピロティホール、フェスティバルホール、神戸文化ホール(大・中ホール)の6ヵ所に及び、総入場者数22,000人を数える本学過去最高の催しとなった

OCMフェスタ70掲示

フェスタ70記念ロゴ

ホール前コンサート案内板

ポスター

10月1~15日 70年史写真展(水川記念館4階)
本学創立から70年の歩みを写真パネル176枚に集約し、本学演奏会のチラシ、プログラム、出版楽譜、永井幸次自筆楽譜などとともに展示した

10月1日 第19回合唱演奏会(大阪厚生年金会館大ホール)
大学、短期大学1年生11クラスが出演。5日前の合唱特別講義で三善晃氏自ら指導を受けた同氏の合唱曲などを演奏した

10月1日 第5回TUTTI・ウインド・オーケストラ定期演奏会(大阪厚生年金会館大ホール)
4年ぶりに来学するロジェ・ブートリー氏を指揮者に迎え、フェスタ70の特別参加公演として開催された
10月2、3日 オペラ公演 モーツァルト《フィガロの結婚》(森ノ宮ピロティホール)
昭和48年の第14回まで開催されたオペラ研究公演から12年ぶりに学外でオペラ公演を行うこととなった。大学院生、専攻科生、大学4年生と助手によるダブルキャストで、4年生はオーディションで選抜した。指揮、演出を松尾昌美、菅沼潤両教員、声楽・演技指導は桂斗伎子、樋本栄、横田浩和各教員が担当した

第1夜公演

第2夜公演

10月8日 第1回ピアノ室内楽演奏会(神戸文化ホール中ホール)
ピアノを中心とした初の室内楽公演で、ピアノ奏者はオーディションで選ばれた大学院生、大学専攻科生、大学4年生の9名。鈴木英明教員の新作を含む4曲を演奏した

鈴木英明《二台八手のピアノと打楽器の為のレオロジーII》
10月9日 第18回吹奏楽演奏会(神戸文化ホール大ホール)

ロジェ・ブートリー氏を指揮者に迎え、同氏編曲のラロ《歌劇「イスの王」》序曲、景山伸夫教員の新作《吹奏楽のためのエヴォリューション》など10曲を演奏
10月11日 第8回邦楽演奏会(大阪厚生年金会館中ホール)
邦楽器と洋楽器の融合と相克を究めることを意図した乾堯教員の新作など5曲を演奏

乾堯《墨隈─尺八と二面の箏・十七絃と弦のための─》
10月15日 第28回定期演奏会(フェスティバルホール)
山口福男教員が永井幸次の《祝歌》を合唱主題に、四年制大学昇格の喜びを綴った永井の歌詞も織り込み作った《永井幸次の主題による祝典序曲》、ベートーヴェン《交響曲第9番》というプログラム。デイヴィッド・ハウエル教員とハンブルク国立オペラ指揮者ハンス・ワルター・ケンペル氏がそれぞれ指揮を行った。この公演のリハーサル風景、ケンペル氏の談話などを記念番組としてまとめ、11月4日にFM大阪より「フェスタ70デジタルライブ」と題して放送した

《永井幸次の主題による祝典序曲》

ベートーヴェン《交響曲第9番》

10月29日 エリアーヌ・リシュパン ピアノ・リサイタル(森ノ宮ピロティホール)
特別講義とレッスンのために来学中の同氏のリサイタルを開催
11月29日~12月2日 演奏旅行(岐阜県)
本学管弦楽団、合唱団(2日間のみ参加)総勢300名による演奏旅行で、合唱団が参加した3カ所では松尾昌美教員の指揮の下、定期演奏会と同じソリストで、現地の有志合唱団と共にベートーヴェン《交響曲第9番》を演奏した

12月11日 新作の夕べ(大阪厚生年金会館中ホール)
本学初の試みとして、作曲科の学生にも大きな発表の場が設けられることとなった。開催にあたり在学生より広く作品を募集、その中から選ばれた作曲科の学生の4作品、そして卒業生で活躍中の若手作曲家の5作品が演奏された。当演奏会は昭和62年度より「新作展」として改めて開催していくことになる
初の広報紙発行
1984年(昭和59年)11月、新たに「企画委員会」が発足した。これは本学が新時代へ対応すべく、社会との結びつきを図り、全学的視野に立って企画振興を計画するために設けたものである。具体的には、特別行事、次年度行事の概要作成、演奏会、公開講座の企画などへの参画や理事会、教授会、各委員会の審議対象から漏れた案件の検討、大きな課題の原案作りための予備議論を行うなど、その業務内容はかなり広範囲であり、柔軟かつ機動性を持った委員会だといえる。
1985年(昭和60年)4月1日、この委員会が新しい広報活動として提案した初の広報紙『大阪音楽大学広報』が発行された。本学には10年前より教職員の意思疎通を図る目的で学内報『四季楽報』が発行されていたが、それは学外への広報を意図するものではなかった。しかし、この新たな広報紙は大学と社会をつなぐ接点としての意義をこめて発刊されたものであり、本学の情報を広く社会にアピールする使命を担ったものであった。
見やすく、親しみやすく、をモットーに、教育・研究の紹介、演奏会・公開講座案内、受験情報、卒業生の動向などを掲載、B5版、二色刷り、8~10ページという装丁で、年に6~7回発行し、在学生、教職員、卒業生、高校、音楽教室など学内外へ配布した。1992年(平成4年)1月、広報室が「OCMセンター」(愛称“ミューズ”)と改称することに伴い、1991年(平成3年)12月21日発行の1992年1・2月号No.53より『大阪音楽大学広報Muse』と改題し、現在も発行を続けている。

大阪音楽大学広報
右から創刊号、改題号、最新号(2015年9月号vol.235)
OCMフェスタ70
創立70周年に向けて、2年前から準備を進めてきたが、いよいよ昭和60年度初回の教授会において、田中学長が「創立70周年記念年度開始宣言」を行った。そこで田中は、この節目は創立者の建学の精神を新たにしつつさらに伸展を続けていくのに大事な時で、過去を顧みつつ前進するための一つの契機としたい、とその意義について述べた。そして、単なるお祭り騒ぎに終わるのではなく、広く社会に本学を知らしめるため、10月1日から15日までの記念行事期間には教職員のみならず学生の十分な理解と積極的な参加が得られるよう指導が要請された。
すでに開催の決まっているもの以外に各専攻から5月10日を締め切りに提案、企画を募ったところ、予定した2週間では収まらないほどの企画が集まり、開始を1週間繰り上げて、9月24日からとした。この間は通常の授業をすべて休講し、国内外の著名な音楽家を招いて40を越す演奏会と特別講義を集中して開催した。夏休み返上で練習に励んだ学生たち、TUTTIウィンド・オーケストラの卒業生、そして教職員が一丸となってエネルギーを結集し、本学70年の集大成を社会に問う3週間となった。総出演者数のべ3,280人、総入場者数22,000人。OCMフェスタ70と名付けられたこの華やかな記念行事は、連日多彩な催しを繰り広げ、70回目の創立記念日に定期演奏会で幕を閉じた。
このフェスタ70のエネルギーは、翌年からの「演奏週間」へと引き継がれることとなる。

フェスタ70総合プログラム

【学内演奏会】

ペーター・ツィーテン
ドイツ歌曲リサイタル(9月24日)

小森谷泉ピアノ演奏会(9月30日)

古楽演奏会(10月2日)

ジュニア・ブラス
副科ブラス演奏会(10月3日)

ピアノアンサンブル・
伴奏法演奏会(10月7日)

ティニー・ヴィルツ
ピアノ演奏会(10月7日)

ピアノ演奏法・
特殊研究演奏会(10月11日)

ガムラン演奏(10月13日 水川記念館特別開館)

付属幼稚園鼓笛隊演奏(10月13日 水川記念館特別開館)

レクチャーコンサート
(10月13日)

院オペラ《ポッペアの戴冠》(10月13日)

【特別講義】全16件23回
写真のあるもののみ列挙

P.ツィーテン(9月24~26日声楽)

G.T.ハンティッヒ
(9月25日伴奏法)

X.ダラス(9月25日作曲)

三善晃(9月26日合唱)

畑中良輔(9月26、27日声楽)

山崎旭萃(9月30日琵琶)

G.ベーキ(10月4日声楽)

島岡譲(10月4、5、7、8日作曲)

R.ブートリー
(10月5日フランス音楽)

高野紀子(10月7日音楽学)

千蔵八郎(10月8日音楽学)

C.ハンゼン(10月9日ピアノ)

L.フィンシャー
(10月14日音楽学)

中川牧三(10月14日声楽)

E.リシュパン(10月15日ピアノ)

R.ブートリー氏との練習風景

R.ブートリー氏を囲んで

フェスタ70のフィナーレを飾った第28回定期演奏会
ベートーヴェン《交響曲第9番》

山口福男《永井幸次の主題による祝典序曲》オーケストラ・スコアと合唱譜
故永井学長作曲の《祝歌》を合唱主題に、同じく学長作《二葉の松》の詩に曲を付けて、創立者の“夢と前進”の精神を歌ったという山口福男教員の作品。

OCMフェスタ70の旗

チケット・プログラム・関連グッズ

右写真の左下はフェスタ70の出演者、招聘講師の芳名帳
写真のページには定期演奏会指揮者のハンブルク国立オペラ指揮者ハンス・ワルター・ケンペル氏が「大阪音楽大学のオーケストラ、合唱団とベートーヴェン《交響曲第9番》を演奏することができ、大変嬉しかった」と記している。

関西音楽の歴史

3月12日 サイモン・ラトル 関西初公演(ザ・シンフォニーホール)
フィルハーモニア管弦楽団に同行しての初来日であった。シベリウス《交響曲第2番》などを指揮
3月17~28日 日本テレマン協会 2度目の欧州(東独)演奏旅行
1982年の同協会初の欧州(東独)演奏旅行はテレマン室内管弦楽団単独であったが、当渡欧では同合唱団も同伴。ライプツィヒの「バッハ生誕300年記念音楽祭」に日本の演奏団体として唯一招聘されるなど、東独8都市で公演を行った。J.S.バッハ《ミサ曲ロ短調》などを演奏

チラシ

ライプツィヒ・ニコライ教会での演奏(日本テレマン協会提供)

4月1日 吹田市文化会館 メイシアター 開館
24、25日には開館記念行事として、関西歌劇団と関西二期会の混成キャストによりヴェルディ《仮面舞踏会》を大ホールで上演(関西初演)

チラシ

昭和60年6月1日 関西音楽新聞

4月8~24日 第28回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
ウィーン・フォルクスオーパーが開幕を飾った当回には、初来日のチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団やニューヨーク・シンフォニック・アンサンブルが参加。ベラ・ダヴィドヴッチ(Pf)とドミトリー・シトコヴェツキー(Vn)による母子デュオが新鮮な話題を呼んだ。閉幕公演には冨田勲が登場し、シンセサイザーを駆使した斬新な舞台を繰り広げた

ウィーン・フォルクスオーパー《メリー・ウィドウ》公演(公財)朝日新聞文化財団・(株)朝日ビルディング提供『永遠の響き~フェスティバルホールの半世紀』より

「冨田勲の世界」(公財)朝日新聞文化財団提供

6月23日 プラハ国立歌劇場 関西初公演(大津市民会館)
26、27日:フェスティバルホール
同歌劇場総監督であったズデニェク・コシュラー率いる総勢250名の引越し公演であった。モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》、スメタナ《売られた花嫁》を上演
7月30日~8月4日 第1回神戸国際フルート・コンクール開催(神戸文化中ホール)
ユニバーシアード神戸大会開催に合わせた文化イヴェントの一環として開催。国内初のフルート専門の国際コンクールであった

昭和60年9月1日 関西音楽新聞

8月12日 日航機御巣鷹山墜落事故

9月 大阪アーティスト協会 創設

9月3、4日 レナード・バーンスタイン 最後の関西公演(フェスティバルホール)
7日:ザ・シンフォニーホール
大阪国際フェスティバル協会特別公演で、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮。7日は追加公演として開催。マーラー《交響曲第9番》などを演奏し、聴衆に深い感銘を与えた。1990年にロンドン交響楽団と来日ツアーを行うも健康を崩し、関西公演(7月20日:京都、22日:大阪)は叶わなかった。同年10月14日没

9月30日 エマーソン弦楽四重奏団 関西初公演(ザ・シンフォニーホール)
10月4日:京都府立文化芸術会館
11月3~10日 第1回J.S.G.国際歌曲コンクール開催(大阪YMCAホール、ザ・シンフォニーホール)
日本シューベルト協会、朝日放送主催。歌曲専門の希少なコンクールとして話題になった

昭和60年12月1日 関西音楽新聞

11月10日 オリヴィエ・メシアン 第1回京都賞受賞

受賞記念ワークショップチラシ

11月10日 オリヴィエ・メシアン 第1回京都賞受賞

チラシ

11月11日 ジェシー・ノーマン 関西初公演(ザ・シンフォニーホール)