1966年~1975年
1966年(昭和41年)
大阪音楽大学の歴史
1階に図書館、4階に体育館を設置
1月22日 短期大学音楽学科第一部音楽専攻増設認可(入学定員100名)
短期大学第二部専攻別課程を改組、音楽専攻設置認可(入学定員40名)
地域の音楽啓発と普及、特に小、中、高校生の指導に力を入れてきた本学は、関西芸能教育協会主催の催しに協賛、本学管弦楽団が出演した。この教室はその後も毎年フェスティバルホールを中心に開催される
本学管弦楽団が台湾へ演奏旅行を行い、台北市立交響楽団と合同演奏会等を開催。戦後、台湾を日本のオーケストラが訪れるのは初めてのことで、大きな反響を呼んだ
短期大学第二部を音楽専攻として開設
4月1日 音楽文化研究所開設 所長水川清一
教育目標の一つ、「進歩的な良識ある音楽家を育成すること」を実践すべく、教員の研究推進、助成の目的で研究所を開設。当初6つのテーマで研究が進められ、機関研究としては図書館事務室に「大阪音楽文化史資料編纂室」が設置された
4月1日 付属児童音楽学園を付属音楽学園と名称変更
「メトロポリタン歌劇場の裏話」というテーマによる特別講義を開催
4月30日 現在のB号館完成(建て替え工事)
4月30日 永井幸次先生を偲ぶ演奏会に出演(大阪府厚生会館)
東京藝術大学音楽学部同声会大阪支部主催、本学後援の演奏会に宮本政雄教員指揮の本学管弦楽団が出演
6月10日 大阪フィルハーモニー交響楽団第52回定期演奏会に出演(フェスティバルホール)
本学学生が外山雄三指揮の演奏会形式によるプッチーニ《ラ・ボエーム》に合唱で出演
鉄筋2階建て三棟、食堂が完成し、2年後に3階建てのD館も増築。計219名の収容が可能となった
豊南寮
全室ピアノ持込可の個室
台湾演奏旅行の労をとり、本学客員教授となった鄧昌国による「二重奏とヴァイオリンのテクニックについて」をテーマにした特別講義を開催
ベルリン音楽大学教授の同氏による特別講義を開催
10月30日 E号館完成(建て替え工事)
ショパン国際ピアノ・コンクール審査委員長の同氏によるショパン作品の特別講義を開催
諸井三郎、朝比奈隆に師事し、韓国楽壇の第一人者である同氏を客員教授として迎え、「最近の韓国音楽事情について」をテーマとした特別講義を開催
11月24日 第9回定期演奏会(サンケイホール)
ウィーン留学を終えたばかりの神沢哲郎教員と本学管弦楽団が「管弦楽とピアノ協奏曲の夕べ」と題して6ヵ所8公演を行った
12月26日 大学入学定員変更(65名→100名)
大阪音楽大学音楽専攻科設置認可(作曲専攻2名、声楽専攻3名、器楽専攻5名)
変革の第一歩 日本の高度経済成長期といわれる時期に国民所得は急上昇し、大学への進学率は格段に上がった。それは第一次ベビーブームで生まれた子供たちが高校を卒業する頃でもあった。また、三種の神器といわれるテレビ、冷蔵庫、洗濯機はもとより、一種のステータス・シンボルとしてピアノが急速に普及した。1969年(昭和44年)、わが国は世界最大のピアノ生産国に躍り出る。そんな中、本学への入学志願者も激増し、昭和41年度入試の受験者数は「学部で7倍近くになる見込み、短大は締め切り1週間前にしてすでに定員を460名オーバーしている」と当時の関西音楽新聞が伝えている。 しかしこのような変化は量的なものだけではなく、音楽大学をめざす学生の中には、質的な変化も見られるようになっていた。戦前、音楽学校といえば音楽家、もしくは音楽教育家を養成する目的で教育が行われていた。しかし時代とともに、専門家ではなく、音楽を通じてより高い教養人となることを目標として音楽大学を志望する人達が増えたのである。 本学はより専門的に音楽を学ぼうとする学生のために専攻科や大学院の開設を準備するとともに、新たな社会的ニーズに応える必要もあると考え、短期大学に新専攻を設置することとした。これは故永井学長の跡を継いで学長となった水川の、学長2年目にして打ち出した、「本学を現状より更に発展、向上せしめる」ための具体策の一つであった。 「音楽専攻」と名づけたその新専攻は特定の一部門ではなく、声楽、ピアノ、音楽理論などを総合的に教育し、調和のとれた豊かな音楽教養を身につけることで、教育などの実践に役立てたり、自らに適した道を見出させたりすることを目的としたコースで、声楽も器楽も正科扱いとした。電子オルガン、音楽鑑賞、作曲法などもカリキュラムに入れ、実技はグループレッスンとした。 第一部に定員100名の音楽専攻を増設し、第二部は専攻別を廃止、40名すべてを音楽専攻と改組した。これにより短期大学の昭和41年度の募集は第一部:作曲・声楽・器楽専攻80名、音楽専攻100名の計180名、第二部:音楽専攻40名となった。それでも前述のような受験倍率であった。大学も昭和42年度の入学定員を65名から100名へと増員した。 戦後20年、本学は社会が音楽大学に求める量・質の変化に対応すべく、変革の第一歩を行ったのである。 |
初の海外演奏旅行 「音楽を通じて日台親善を──」と本学管弦楽団が初めて演奏旅行で海外へ渡ったのは、1966年(昭和41年)3月のことであった。これは大阪フィルハーモニー交響楽団が1971年(昭和46年)に韓国へ初の海外公演を行った5年も前のことであり、日本のオーケストラ としては戦後初の訪台となった。 この演奏旅行は本学の短期大学第一期卒業生で、台湾でピアニストとして活躍していた藤田梓の尽力によるものである。彼女の夫でヴァイオリニストの鄧昌国は台北市立交響楽団を創設、その指揮者を務めており、台湾音楽界のリーダーの一人であった。日本と台湾を音楽で結びたいというのは、結婚当初から夫妻にとっての夢でもあったが、前年に創立50周年を迎えた本学の要望もあり、彼女が東奔西走のうえ母校の交響楽団を招き、台北市立交響楽団との初の両国合同演奏会を実現したのである。夫妻の働きかけにより、中国文化経済協会からの正式な招待状が届いた。 3月25日、水川学長以下、小橋潔学部長、管弦楽団指揮者・演奏主任・事務長・代表としてそれぞれ宮本政雄、土橋康宏、安松稔寿、辻井清幸の6名、学生28名の総勢34名がともに台湾へ渡った。現地では想像以上の歓待を受け、1週間の滞在中に8回のパーティーが催された。大阪音楽大学・台北市立交響楽団連合演奏会と銘打たれた演奏会は2千名収容の台北国際学舎で3回開催されたが(うち一般公開は2回)、入場券は前日までに完売状態。チケットが買えなかったので練習でいいから聞かせて欲しいと、いつもホテルには数十名の現地の学生や子供たちが待ち受けていたという。ホテルでオーケストラというわけにもいかず、学生たちは少人数の室内楽団に分かれてリクエストに応じた。「ぜひ家に来て、親にも聴かせて欲しい」との申し出も多く、男子学生などは一晩にいくつもかけもちで個人宅を回った。 27、28日、演奏会は宮本の指揮で両国国歌に始まり、ヴァーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》前奏曲やベートーヴェン《交響曲第5番「運命」》、ブルッフ《ヴァイオリン協奏曲》、ウェーバー《ピアノ小協奏曲》などを演奏した。「運命」が終わった途端、どよめきとすさまじい拍手が起こり、総立ちの聴衆がアンコールを叫んだと、同年5月1日付の毎日新聞が伝えている。29日には一部の学生が現地のテレビに出演、モーツァルト《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》などの演奏が生放送された。30日には中国文化学院講堂で本学管弦楽団単独の演奏会を開催。メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲》など3曲を披露し、翌31日に故宮博物館を見学して帰路に着いた。 この演奏旅行をきっかけに中国文化学院との姉妹校協定が結ばれ、教授の交換や学生の交流などの話もされたという。そして水川は団長として蒋介石と単独会見の栄に浴することもでき、総統から「貴交響楽団の来演はまさに建設的な企画であり、感謝にたえない」と一行の労をねぎらわれたという。大阪の一音楽大学の管弦楽団訪問ではあったが、現地での反響は予想以上に大きく、日台親善の成果はあったといえる。若き文化大使の一翼を担った学生たちがこの経験で得られたものは計り知れず、この先本学は「国際人の養成」をめざすべく、ますます国際交流を図っていくこととなる。 |
台北国際学舎での連合演奏会
団員の一人、島津公子が
ソリストを務めた
国立放送局テレビに出演
生演奏が放送された
中国文化学院での演奏会ポスター
中国文化学院前にて
研究所の開設 水川学長は1966年(昭和41年)9月、『本学のゆくべき道』と題した文章の中で次のように記している。 「大学は先人の業績を伝承するだけの機関ではない。『うた』を上手に歌い、ピアノを巧みにひくだけが──それだけが大学教育の目的ではない。芸術としての音楽文化を現状よりさらに発展、前進、向上させるところに、大学の使命がある。本学は音楽を通じて教養ある社会人を育成するとともに進歩的な良識ある音楽家を育成することを目的としている。そのためにはすべてにおいて『修練・研究・創造』が重視されねばならぬ。 まず、教授指導に当る教師の方々の『研究』は奨励されるべく、またこれには充分な援助が必要である。本学では41年4月から『音楽文化研究所』を開設した。研究を推進し、援助する機関として誕生したのである」 こうして設立された研究所は8名の教員による5年~7年はかかるという大がかりな研究から単独の研究を含め、6つのテーマからスタートした。その中の一つ、機関研究として図書館事務室の一隅に設けられた「大阪音楽文化史資料編纂室」は1968、1970年(昭和43、45年)に『大阪音楽文化史資料 明治・大正編』『同 昭和編』を刊行して、大阪を中心とする関西の洋楽受容の歴史を貴重な記録資料にまとめ上げた。 またピアノの武田邦夫教員は研究所ができたばかりの4月5日、九州大学医学部で開かれた「第1回日本リハビリテーション医学総会」で、大阪大学医学部「手の外科グループ」の江川常一と共同開発した「手指の機能回復のためのオルガン」を発表した。これはピアノ演奏における指のより効果的な訓練を研究するうちに、障がい者の治療・訓練との接点を見出し、異分野の専門家と連携するようになったものであった。 本学7名の教員と大阪科学教育センターの心理学の専門家からなる音楽教育研究のグループも、より実践的な実技教育のあり方を探ろうと「音楽教育における創造性の開発」という共同研究を行い、各種学会で3度にわたり成果を発表。教育学と音楽という両面からの実証的研究として反響を呼んだ。 これらの研究はその成果が「創造」に帰結することを期待され、機関、グループ、個人の単位でそれぞれ続けられた。この音楽文化研究所はF号館、H号館へと移転を繰り返し、のちの音楽研究所へと発展していくのである。 |
関西音楽の歴史
毎日新聞社主催、関西の主要な演奏団体、音楽科を持つ大学が協賛し、本学も名を連ねている。前年末に死去した山田耕筰の功績を讃え、関西の声楽家や大阪フィルハーモニー交響楽団などが山田作品を演奏
プログラムより
プログラム表紙
28日:毎日ホール
NHKがドイツから招いた電子音楽の創始者シュトックハウゼンが講演し、作品を披露
プログラム表紙
(公財)朝日新聞文化財団提供
フェスティバル初の試みとして前夜祭を開催し、フルトヴェングラー指揮の1954年ザルツブルク音楽祭記録映画『ドン・ジョバンニ』を関西初公開。亡くなる直前に振った、フルトヴェングラー唯一のモーツァルトのオペラ作品の記録で、世界に数本しかプリントがない貴重なフィルムの上映に1,500円という高額ながら、チケットは早くに完売したという
岩城宏之指揮のNHK交響楽団で開幕。一番の話題はカラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で、チケット発売4日前から徹夜の列ができたという。日本を含む4カ国の演奏者がR.シュトラウス《ばらの騎士》を原語により本邦初演。この年は従来の能に加え、開幕のN響をはじめ牧阿佐美バレエ団、重要無形文化財保持者(人間国宝)による宮内庁雅楽と邦楽邦舞など日本のアーティストが多く取り上げられた。シモン・ゴールドベルク指揮・独奏によるオランダ室内オーケストラ、アントニオ・ヤニグロ(Vc)も来演
《ばらの騎士》(左)とカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(右)プログラム表紙/(公財)朝日新聞文化財団提供
中川牧三が京都に創設。朝比奈隆が副会長を務める。平成元年に「日本イタリア協会」と改称
2年前の本学演奏旅行のために田中喜一、近藤圭両教員が創作した喜歌劇《賤のおだまき》を関西歌劇団が朝比奈隆指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏により上演。演奏会形式の《コジ・ファン・トゥッテ》(抜粋)を併演
関西歌劇団提供『関西歌劇団50年のあゆみ』より
5月19、20日 ヴァン・クライバーン 関西初公演(フェスティバルホール)
第1回チャイコフスキー国際コンクールを制したクライバーンが初来日。19日は朝比奈隆指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団と共演、20日はリサイタルを行った
大阪フィルハーモニー交響楽団と共演のルビンシュタイン
23、25日:フェスティバルホール
31年ぶり、80歳での再来日。21、23日はリサイタル、25日は朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団との<協奏曲の夕>
6月30日 第7回ショパン国際ピアノコンクール受賞披露 中村紘子ピアノ演奏会(毎日ホール)
7月1日:京都会館第二ホール
前年のショパン国際ピアノコンクールで第4位に入賞し、最年少者賞も受賞した中村紘子が全曲ショパンというプログラムでリサイタルを行った
プログラムより
コンクール受賞時の中村紘子(プログラムより)
西日本の楽器業界の先賢を顕彰するために四天王寺に供養塔を建立
10月7、9日 国立ロシア民族大合唱団 関西初公演(フェスティバルホール)
8日:神戸国際会館
10日:姫路市厚生会館
17日:京都会館第一ホール
10月9日 国立ブルガリア男声合唱団 関西初公演(フェスティバルホール)
11日:神戸国際会館
12日:京都会館第一ホール
プログラム表紙
バレンボイムが初来日し、関西ではベートーヴェンのピアノソナタ第23、26、29番を演奏
16日:京都会館第一ホール
大阪国際フェスティバル秋の特別公演。初来日で、指揮者としてシャルル・ミュンシュ、ジョルジュ・セバスチャン、モーリス・ル・ルーが同行
10月17日 ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団 関西初公演(フェスティバルホール)
18日:同会場
20日:京都会館第一ホール
21日:神戸国際会館
音楽映画の流行 昭和40年代の音楽文化の傾向に音楽ドキュメンタリー映画への関心の高まりがある。関西での皮切りは1966年(昭和41年)第9回大阪国際フェスティバル前夜祭で上映された『ドン・ジョバンニ』であり、予想を超えた人気となって流行を作り出していった。 同年秋の京都における『ドン・ジョバンニ』の上映を経て、翌年行われたのはサンケイホール開館15周年記念における『ばらの騎士』の上映であった。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮による1960年(昭和35年)のザルツブルク音楽祭の記録で、この映画もまた話題になり、フェスティバルホールで再上映された。1968年(昭和43年)には大阪国際フェスティバル協会の夏の特別行事として『椿姫』も上映されている。 こういったオペラの記録映画だけでなく、一人の作曲家の生涯をその作品の演奏でたどるというような映画も上映される。『モーツァルトの生涯』や『ベートーベンの生涯』などである。また著名な演奏家の演奏記録となる映画『フルトヴェングラーと巨匠たち』『巨匠リヒテルのすべて』『ギレリスの芸術』『世紀のアンドレス・セゴビア』などもあった。 当時、カラヤンは映画をより広く音楽を提供できるメディアととらえ、革新的な音楽ドキュメンタリー映画を自ら制作し、次々に発表していた。『カール・ベーム』に始まる指揮者の巨匠シリーズや自らが演奏し、インタビューに答えるシーンなどを収録したドヴォルジャーク『交響曲第9番・新世界』やチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』は『巨匠カラヤンの芸術』として2本立てて上映されていた。ベートーヴェン生誕200年記念にあたってはベートーヴェン・チクルスシリーズも制作、各地で上映された。エキスポ・クラシックスのカラヤンの演奏会はチケット入手が困難であったが、「万博、カラヤンを逃した方のために」などという宣伝文句をつけて上映されることもあった。実際、これら音楽映画の人気は、演奏会に行くよりも安価で超一流の音楽家の演奏を見聞きできるといったところにあったようだ。 映像表現について、カラヤンは次のように語っている。「映画にはナマ・コンサートとちがって機動性があり、大衆との接点がふくらむ。また二十世紀なかばをすぎた今日、いつまでも十九世紀のコンサート様式(ナマ)だけにしがみつく必要はなく、新しい音楽形式が開拓されてもよいのではないか。そして音楽鑑賞の仕方としてナマ・コンサート、レコード、映画の三つがあり、レコードも映画もあくまで独自のメディアであって、“ナマ”の代用として考えるべきではない」(昭和45年2月1日『音楽旬報』No.591)。映像が音楽文化の隆盛に大きな役割を果たした、続く時代を予見したかのような言葉である。 |
映画『ばらの騎士』パンフレット表紙。エリーザベト・シュワルツコップの元帥夫人などが人気を誇り、各地で再上映された
大阪パレストリーナ・インスティテュートの開設 1966年(昭和41年)に、大阪北浜に大阪パレストリーナ・インスティテュートが設立された。宗教音楽とルネサンス・バロック音楽の研究推進機関であり、ローマ教皇パウロ六世が1963年(昭和48年)11月23日に発布した教皇自発令『Nobilis Subsidium Liturgia』を受けて発足するもので、国際宗教音楽協会の一翼を担う組織でもある。 事業は、ライブラリー、研究、演奏、教育と多彩に構成されていて、ライブラリーに関しては楽器及び、ルネサンス・バロック音楽を中心に楽譜、レコード、音楽書の所蔵、研究活動に関しては合唱音楽の歴史と指揮法の講座が開設され、専門的な知識の普及が試みられた。また、演奏活動も活発で、声楽曲を中心に、教会儀礼やコンサートホールでの演奏会が頻繁に行われ、パイプオルガン教室や夏期講習会も実施された。 |
大阪音楽大学の歴史
1月18日 大阪音楽大学短期大学部音楽専攻科設置認可(音楽専攻15名)
2月1日 豊中市庄内町野田から豊中市庄内幸町に表示変更
3月14日 チュービンゲン大学弦楽合奏団交歓演奏会(本学ホール)
東南アジア演奏旅行中の西ドイツのチュービンゲン大学弦楽合奏団と本学管弦楽団の交歓演奏会を開催
昭和42年4月1日適用(高校教諭1級普通免許状=音楽)
3月30日 現在のD号館(旧付属音楽高等学校校舎・建て替え工事)完成
4月1日 大学作曲学科に楽理専攻開設
短期大学音楽専攻に箏コース開設
東京藝術大学に次ぐわが国2番目、西日本では初の邦楽部門の誕生であった
4月1日 留学生受入制度導入
点字入試実施
4月1日 付属音楽幼稚園開設 園長水川清一
幼児期からの音感教育の重要性を説いていた故永井学長の遺志を継ぎ、関西初の音楽幼稚園を設立。大学と連携しつつ、特色ある保育を行うこととなった
伊丹の邦楽器研究家であり収集家、製作者である水野佐平氏から邦楽器150点の寄贈を受けたのを機会に、楽器資料室を設けた。翌年、新築のF号館に移転し、楽器博物館と改称
4月7、10、13、16日 第10回大阪国際フェスティバル「バイロイト・ワーグナー・フェスティバル」《トリスタンとイゾルデ》に出演(フェスティバルホール)
バイロイト音楽祭の初の海外公演となる第10回大阪国際フェスティバルでの《トリスタンとイゾルデ》に本学声楽専攻の学生がバックコーラスで出演した
(公財)朝日新聞文化財団提供
27日:毎日ホール
28日:神戸国際会館
日韓両国の音楽芸術および音楽教育界の親善発展のために、本学が韓国国立ソウル大学校音楽大学管弦楽団と国楽専攻生の一行34名を招聘し、本学管弦楽団との合同演奏会を開催
ソウル大学校教授の同氏による「韓国の音楽について」というテーマで特別講義を開催
10月13~15日 大学祭(本学・大阪府厚生会館)
全学生が受けている合唱授業の成果を発表する場として、合唱だけの演奏会を開催することとなった。以後、全学的な催しとして今日まで続いている
関西音楽大学協会主催で協会員対象の同氏による公開講座が行われ、7大学より400余名の会員が集まった。足立勝教員指導の本学混声合唱が演奏
10月25日 K.エステルライヒャー オーケストラ特別講義
ウィーン国立音楽大学教授の同氏による特別講義を開催し、オーケストラ専攻生が指導を受けた
F.グロスマン合唱公開講座
F.グロスマン合唱公開講座
ロンドン交響楽団のホルン首席奏者の同氏による特別講義を開催
韓国国立ソウル大学校音楽大学から本学が招かれ、水川学長以下34名が訪韓。ソウル市民会館にて両校合同のオーケストラによる演奏会を行った
新設の学部専攻科生と4回生との合同公演となった。朝比奈教員が初めて指揮も行った
和洋音楽の学府となる 昭和42年度は教学面で実に多くの変革がなされた年である。大学・短期大学ともに専攻科が開設され、作曲学科には新たに楽理専攻が設けられた。関西初の音楽幼稚園が新設されたのもこの年である。加えて、短期大学の音楽専攻に箏コースを併設することとなった。 「行く行くは日本音楽をも一まとめにして一大音楽堂を建て、日曜日に行けばピアノが、月曜日に行けば長唄が聞かれると云う迄に仕上げたいのが私の最後の抱負である」というのは本学が創立された1915年(大正4年)10月9日付の大阪朝日新聞に報じられた永井幸次の言葉である。この言葉を実現すべく、過去にも何度か試みられたがかなわず、ようやく宿願成就したのである。 指導者には、関西が誇る邦楽家の一人で、のちに人間国宝に認定された生田流箏・野川流地歌の名人、菊原初子や、宮城道雄の西の後継者とされ、西洋音楽と邦楽の融和をめざした須山知行、門下の中島警子などそうそうたる教授陣を得て、箏専攻が誕生した。 以後、昭和49年度には短期大学専攻科の器楽専攻にも箏を加え、昭和51年度には短期大学の音楽専攻にあった箏を器楽専攻に移し、大学の器楽学科に箏専攻を開設。昭和53年度からは大学専攻科の器楽専攻にも箏を導入し、大学、短期大学、そして各専攻科に邦楽部門がそろうこととなった。 この邦楽部門開設の頃、本学はちょうど将来に向け、国際的視野に立って教育を進めて行こうという指針を打ち出していた。そして国際交流を広げる中で、逆に「日本の音楽」「日本の音楽教育」のあり方に自覚と反省が生まれた。当時の水川学長が掲げた、本学を単なる「洋楽大学」ではなく真の「音楽大学」へ──この思いが邦楽部門の充実へとつながっていったのである。 |
菊原初子
須山知行
本学とバイロイト・ワーグナー・フェスティバル 1967年(昭和42年)の春、記念すべき第10回目の開催となる大阪国際フェスティバルにバイロイト音楽祭が史上初の海外公演をすることとなり、全国のクラシック音楽ファン、そして世界のワグネリアンが大阪につめかけた。バイロイト音楽祭といえば門外不出とされ、世界各地からの要望にもいまだかつて祝祭劇場を出ることはなかった。それが大阪へやって来たのは、大阪国際フェスティバル協会の長年にわたるねばり強い交渉の結果であったという。 ヴィーラント・ヴァーグナー演出の巨大な舞台装置、照明装置などをすべて持ち込み、そっくりそのまま祝祭劇場の舞台を再現しての上演であった。2カ月前には舞台製作者が来阪し、2千坪の見本市展示場で製作を開始、フェスティバルホールも開幕までの1カ月を休館にして改修するなど、日本の音楽史上においても異例のスケールでの公演となった。 その異例づくめの公演に、本学の学生が合唱で出演するという機会に恵まれた。演目は《トリスタンとイゾルデ》、指揮は前年にバイロイト音楽祭に招かれ成功を収めていた、作曲家としても著名なピエール・ブーレーズ。歌手たちはビルギット・ニルソン、ハンス・ホッターなど名だたる面々で、オーケストラはNHK交響楽団が演奏した。 この上演にあたっては、第1幕の水夫たちとマルケ王の家来たちを演じる合唱団員としてテノール38名、バス32名が一般に募集されていた。資格はステージに出演する者は身長165cm以上、バックステージに出演する者は制限なし、年齢制限なしというのが条件であった。全国から150余名の応募があり、書類審査の上、課題曲を歌ってステージに出演する31名が厳選された。その中には本学の学生、教員の名前も多く見受けられる。そしてバックステージでのコーラス部分は音程をとるのが難しく、専門技術を要するということで、本学の声楽専攻の学生が出演することになったのである。 練習は1月から始められ、指導にはバイロイト音楽祭に詳しく、ドイツ語に明るいとして本学教員の林達次があたり、クラウス・スプリングハイムが監修、音楽助手のアルフレッド・ヴァルターが仕上げを行った。彼らは大阪国際フェスティバル合唱団として出演し、大阪の地でバイロイト音楽祭に参加するという、得がたい経験を積むことができたのである。 そして「バイロイトへ行かないとみられないバイロイト・ワーグナー・フェスティバルなら、渡航費を考えれば安いもの。是非、教職員のために!」と本学は水川学長の提唱により、《トリスタンとイゾルデ》《ワルキューレ》両日のBボックス席を買い切ったという。チケットの入手は困難だっただけに、出演した学生たちのみならず、教職員にとっても貴重な体験となったといえるだろう。 |
深めゆく国際交流 前年の台湾演奏旅行で成果を得た本学は、1967年(昭和42年)、今度は韓国国立ソウル大学校音楽大学と姉妹校の協定を結び、合同演奏会を開催することとなった。これは両大学並びに学生相互の親善を図るとともに、音楽芸術、特に両国の「国楽」の振興に資し、更に両国間の文化交流に役立てたいとの趣旨からであった。 6月25日、金聖泰学長以下34名が大阪空港に到着し、本学より水川学長はじめ関係教職員、学生100名余が出迎えた。本学ホールで歓迎の吹奏楽演奏会を開催した後、初めての合同練習が行われた。翌26日は練習後に本学体育館で歓迎パーティーを開き、参加者一同、和やかな時間を楽しんだ。また同日、本学が会場校となった東洋音楽学会関西支部の例会で、同行の李恵求教授による「朝鮮の国楽(雅楽)」についての講演があった。李は30日にも本学で同様のテーマの特別講義を行い、作曲、楽理、箏専攻生たちが聴講した。 合同演奏会は27日に毎日ホールで昼夜2回、28日に神戸国際会館で1回の計3回開催された。いずれも満員の盛況ぶりであったが、毎日ホールの夜の公演には韓国総領事夫妻をはじめ来賓が多数来場し、ロビーでも日韓親善ムードが繰り広げられたという。また、ロビーには合同演奏会開催の記念として、ソウル大学校より本学に寄贈された韓国国楽の楽器が展示され、聴衆の目を引いた。開演直後、両国国歌が演奏され、宮本政雄と林元植指揮によるベートーヴェン《序曲レオノーレ第3番》、サン・サーンス《ピアノ協奏曲第2番》が続いた。林はソウル大学校音楽大学の教授で、朝比奈の薫陶を受けた指揮者である。ピアノはソウル大学校の尹美郷。韓国の国楽をはさみ、ドヴォルジャーク《交響曲第9番「新世界より」》の演奏が終わると、会場は割れるような拍手に包まれた。 2日間の公演を無事に終え、ソウル大学校一行は京都、大津の観光などを楽しんだ後、最終日の7月1日には毎日放送のテレビ番組にも出演して、大阪をあとにした。 そして11月、今度は本学が韓国へ招待される。11月5日、水川学長以下5名の教職員と学生29名がソウルへ向かった。本学2度目の海外演奏旅行である。金浦空港では金学長らの盛大な出迎えを受け、大学のホールで歓迎の合唱演奏会が開かれた。第1曲目に明快な日本語で歌われる本学の校歌を聴いたとき、水川は作詞作曲をした故永井幸次を思い浮かべ、胸が熱くなったという。 7日の午後2回、3千名収容のソウル市民会館を超満員にして、両校学生90名による合同演奏会が行われた。日本大使やソウル大学校の総長、ソウルにある7つの音楽大学の学長、教授らも来場していた。演奏曲は日本公演とほぼ同じ。両国国歌のあと、日本公演とは逆に、林が《レオノーレ》を宮本が《新世界》を振り、本学助手の佐藤价子がグリーグ《ピアノ協奏曲》を弾いた。このときの反響も熱烈なものであったと水川は記している。一行を代表して水川ら教員4名が金玄玉ソウル市長よりソウル名誉市民章を、楽団員全員が徽章を受けた。 こうして本学は韓国とも親善を深め、文化交流の成果を上げることができた。言葉が通じず、最初は緊張の面持ちであった両国の学生たちも、練習の過程ですぐに打ち解け、仲間意識が芽生えていったという。隣国の学生とお互いの国で一つの演奏会を成し遂げたことは、両国学生にとって大きな実りある経験となったのである。 |
大阪空港に降り立つソウル大学校一行
マスコミも詰めかける中、盛大に出迎えた
練習には林の師、朝比奈も駆けつけた
歓迎パーティーで挨拶する水川学長
箏や男声合唱、室内楽で歓迎
演奏会場ロビーで寄贈楽器の展示に見入る人々
国歌演奏
韓国国楽の演奏
神戸ポートタワーを見学
清水寺など京都・大津も観光
歓迎パーティー
チケットにプレミアがついたという韓国公演
関西音楽の歴史
プログラムより
24日:京都会館第一ホール
スペインのピアニスト、アリシア・デ・ラローチャが初来日。アルベニス、ファリャ、グラナドスといった自国の作曲家などの作品を演奏
日本万国博覧会では毎年3月15日を「万国博デー」として、3年後に控えた日本初の万国博覧会開催に向け、PR活動を兼ねた催しの開催を決定。初回は式典の後、外山雄三指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団などが「音楽は世界を回る」というタイトルで世界各国の名曲を演奏
4月7日~5月7日 第10回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
第10回を記念して、バイロイト音楽祭初の海外引越し公演を招聘し、《トリスタンとイゾルデ》《ヴァルキューレ》を上演。イゾルデを歌ったビルギット・ニルソン、ピアノのサンソン・フランソワがリサイタルを行い、初来日のユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団がフィナーレを飾った
ダヴィッド・オイストラフ、イーゴリ・オイストラフの父子共演でも話題になった
4月23、24日 関西歌劇団沖縄公演
23日:琉球大学体育館(那覇) 24日:まいなみ劇場(宮古島)
関西歌劇団がアメリカ統治下の沖縄で公演を行った。オペラ・アリアの演奏と大栗裕指揮で、電子オルガンの伴奏により《赤い陣羽織》を上演。現地からの出演者も参加。沖縄初のこのような演奏会に大きな反響が寄せられた
5月4、5日 なにわ芸術祭参加 関西歌劇団第22回定期公演 大栗裕《飛鳥》初演(サンケイホール)
朝比奈隆指揮 菅沼潤台本・演出 大阪フィルハーモニー交響楽団 関西歌劇団合唱部
太宰治『走れメロス』を主題に菅沼潤がオペラ台本化し、大栗裕が作曲した創作歌劇を関西歌劇団が上演。9月に民音主催により京阪神3箇所で再演
26日:京都会館第一ホール 27~30日:フェスティバルホール
モーリス・ベジャール率いる20世紀バレエ団が初来日し、アジア初公演を行った
関西交響楽団設立から大阪の交響楽運動を牽引してきた朝比奈隆
前身の関西交響楽団が結成され、大阪で本格的な交響楽運動が始まって20周年を記念して演奏会が開催された
大阪国際フェスティバル第10回記念秋の特別公演。指揮はヴォルフガング・サヴァリッシュ
図録表紙((公財)朝日新聞文化財団提供)
大阪国際フェスティバル秋の特別行事。同フェスティバル第10回と3年後のベートーヴェン生誕200年を記念して、東京・大阪で開催。ヨーロッパ各国のベートーヴェンゆかりの地に残る貴重な自筆楽譜や遺品など約200余点が東洋初公開された
大阪音楽大学の歴史
4月1日 大阪音楽大学大学院開設
四年制大学昇格から10年を経て、大学院の開設が実現した。わが国では東京藝術大学、武蔵野音楽大学に次ぎ、国立音楽大学とともに音楽系で大学院を設置する大学となった
学生会委員会
学生会が新たに新聞を月刊で発行することとなった
5月9日 サンタバーバラ・カリフォルニア大学室内合唱団演奏会(本学ホール)
5月20日 現在のF号館完成(建て替え工事)
大阪音楽大学付属楽器博物館開設(F号館) 館長市野正義
F号館
F号館2階に移転した楽器博物館
ピアノ管理室
本学初の吹奏楽演奏会を開催。現在も継承されている
本学学生が松尾昌美教員指揮、桐絃社社中76名合奏の宮城道雄《日蓮》に合唱で出演
ハンブルク音楽大学教授の同氏による特別講義を開催
初日は4回生、2日目は大学院・専攻科学生を中心にキャストが組まれた
ドイツ現代作曲家の同氏によるヨーロッパの音楽教育と現代音楽事情についての特別講義を開催
宮本政雄教員指揮による本学管弦楽団が祝賀演奏を行った
11月3日 『大阪音楽文化史資料 明治・大正編』刊行
明治百年にあたるこの年を記念して、音楽文化研究所が関西の洋楽活動に関する膨大な資料を収集し、そのうち1,900点を選び出して編纂、出版した。関西洋楽界の変遷を紐解く貴重な資料として、音楽クリティック・クラブ特別賞を受賞。2年後に昭和編も刊行する
記念公演として本学学生が合唱で出演
11月20日 第11回定期演奏会(大阪厚生年金会館大ホール)
朝比奈教員指揮のもと、規模が大きく演奏機会の少なかったヴェルディ《レクイエム》の全曲演奏に挑んだ
第1期生4名と本学教員が出演、合唱はオペラ部が行った
大学院開設 創立から50年を経て、本学は様々な教学関係の改革を行ったが、次なる目標はいよいよ大学院の開設であった。1967年(昭和42年)11月30日、膨大な資料を整え、大学院音楽研究科の開設申請を行う。入学定員は作曲専攻2名、声楽専攻3名、器楽専攻5名の計10名。明けて昭和43年、私立大学審議会、大学設置審議会と2回にわたる厳しい実地視察を経て、3月18日、認可内定の通知を受け、同30日に正式に認可が下りた。 当時、すでに大学院を有する音楽系大学は東京藝術大学と武蔵野音楽大学のみであった。そこに本学と、同時に認可された国立音楽大学とが加わり、全国で4つの音楽系大学に大学院が設置されることとなった。西日本では初めてのことである。 教員は朝比奈隆、平井康三郎ら計34名。声楽専攻は歌劇研究と歌曲研究、器楽専攻はピアノ研究、ヴァイオリン・ヴィオラ研究、チェロ研究に分かれていた。学則には「音楽の理論及び応用を教授研究し、その深奥を究めつつ、文化の進展に寄与することを目的とする」とうたわれていた。 1958年(昭和33年)の四年制大学誕生とともに、あとは大学院を…と切望していた創立者永井幸次の夢が10年の歳月を経て、また一つ実現したのであった。 |
楽器博物館開設 永井幸次は伊丹の邦楽器研究家で収集家、製作者としても著名な水野佐平と親交があった。永井は生前、水野より秘蔵の邦楽器を本学に譲りたいとの意向を聞いていたが、当時は校舎が未完成で収納場所がなかったため、存命中にはかなわなかった。永井逝去の翌年、1966年(昭和41年)11月、水野は本学を訪れ、邦楽科設置のためにもと、改めて自身のコレクション150点の寄贈を申し出た。その頃にはすでにA号館も完成しており、本学はその申し出を受けることとなった。そしてそれを機に、諸外国の楽器をさらに集めて博物館を作る計画を立て、翌年の4月、その前段階としてA号館の2階に楽器資料室を設置した。 F号館が完成した1968年(昭和43年)5月、同館2階に移転し、楽器博物館と改称する。邦楽器は箏の発達史が一目でわかるように、一弦琴から現在の生田・山田流の箏までが並べて展示され、箏の名手だったといわれる「小督局(こごうのつぼね)の間」の実物大模型や雅楽の楽器、石村近江作とされている逸品を含む各種三味線などがあった。前年にはソウル大学校より韓国国楽の楽器18点も贈られていた。 西洋楽器では管楽器を中心とする古典楽器や、1816年ブロードウッド社製のベートーヴェン愛用のものと同型のピアノなどを所蔵。このピアノは1967年(昭和42年)、大阪国際フェスティバル協会主催の「ベートーベン展」に出展されていたものを、本学が頼んで買い入れたものであった。その後、1970年(昭和45年)12月17日に同協会がフェスティバルホールで主催したベートーヴェン生誕200年記念の「生誕の日を祝う会」に、当時の博物館でかたわらに展示していたベートーヴェン像とともに貸し出し、小林道夫が《ピアノソナタ「月光」》を弾いた。 楽器博物館は民族音楽学、音楽史、楽器学などの教育、研究のために活用されていたが、こののち6年足らずで1974年(昭和49年)、F号館から新築されたH号館へ移転。そして1979年(昭和54年)5月2日からは週1回、水曜日の午後1時~4時30分に一般公開されることとなった。現在のK号館へ移転し、リニューアルオープンとなったのはその1年後、1980年(昭和55年)10月15日の水川記念館(現・K号館)開館披露の時であった。 |
H号館時代の楽器博物館(撮影年不詳)
ソウル大学校より寄贈された韓国国楽の楽器
1816年ブロードウッド社製ピアノ
現在も古典ピアノ群の中に展示されている
ドイツ人のユリウス・ツンブシュ彫刻、芸術院会員小金丸幾久復刻によるもので、現在はK号館2階に設置されている
現在、博物館入り口横に設置される水野翁胸像と寄贈の箏
現在、博物館のあるK号館敷地内に移設されている
楽器博物館目録第一版 表紙見開き
関西音楽の歴史
4月11~27日 第11回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
初来日のヨーゼフ・クリップス指揮、サンフランシスコ交響楽団で開幕。ロベール・カサドシュが再び来日し、リサイタルと一家3人による3台のピアノ協奏曲の夕に出演。朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団と共演した。桐朋学園オーケストラ、ウィーン・ブルク劇場、イストヴァン・ケルテス指揮の日本フィルハーモニー交響楽団も出演
3台のピアノ協奏曲の夕(左)とウィーン・ブルク劇場(右)プログラム表紙(第20回記念プログラムより /(公財)朝日新聞文化財団提供)
会場不足だった大阪に新ホールが完成。大阪市西区新町に位置し、収容人員大ホール2,400名、中ホール1,110名
これまで種々の理由で中止になっていたシュヴァルツコップの大阪でのリサイタルが、大阪厚生年金会館の開館記念としてようやく実現した
柴田睦陸総監督、秋山和慶指揮、栗山昌良演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、二期会関西支部・相愛子供音楽教室合唱
二期会関西支部が創立5周年を機に、初のオペラ公演を行った。この公演により、昭和43年度大阪府民劇場奨励賞、音楽クリティック・クラブ奨励賞を受賞
奈良市登大路町に建設。大ホールは1,500名収容
6月15日 文化庁を設置
文部省文化局と文化財保護委員会が統合し文化庁が発足
6月30日 スイス・ロマンド管弦楽団 関西初公演(京都会館第一ホール)
7月2~4日:フェスティバルホール
パンフレット表紙((公財)朝日新聞文化財団提供)
大阪国際フェスティバル協会が夏の特別行事として上映。アンナ・モッフォ、フランコ・ボニゾッリ主演、ローマ歌劇場歌手・管弦楽団・合唱団・バレエ団総出演の映画で、1966年コロンビア映画制作
朝比奈隆の還暦を記念し、京都市交響楽団と大阪フィルハーモニー交響楽団初の合同演奏会が開催された。外山雄三指揮のベートーヴェン《交響曲第5番》と、大編成を要するため演奏機会の少ないR.シュトラウス《アルプス交響曲》を朝比奈隆指揮、総勢約170名の両団員により関西初演
芥川龍之介原作 朝比奈隆指揮 菅沼潤台本・演出 大阪フィルハーモニー交響楽団 桐絃社々中
芥川龍之介の原作に感銘を受けた大栗裕が30年来あたためてきた題材をオペラ化し、関西歌劇団が上演
9日:和歌山県立体育館
10日:奈良県文化会館
三島由紀夫作、戸田邦雄作曲、渡辺暁雄指揮、橘秋子演出、大阪フィルハーモニー交響楽団
この年は明治百年記念として全国各地で様々な催しが行われたが、その一環として文化庁が制作。三島由紀夫書下ろしによる創作バレエで、日本を代表する5つのバレエ団から選ばれたメンバーが出演し、日本バレエ界の総力を結集した公演であった。全国7ヵ所を巡回したが、西日本は大阪フィルハーモニー交響楽団が演奏
2日:京都会館第一ホール
3日:神戸国際会館
若杉弘指揮、山内泰雄台本・演出、二期会、藤原歌劇団、京都市交響楽団、二期会合唱団、藤原歌劇団合唱部
明治百年記念の創作オペラとして文化庁が制作。平家物語を題材に石井歓が作曲し、当時の日本声楽界を代表する歌手たちが出演した
大阪音楽大学の歴史
本学初の試みで、オーケストラだけの演奏会を開催した。その後、定期的には開催されていない
昭和44年4月1日適用(高校教諭1級普通免許状=音楽)
4月1日 初の学長選挙実施 水川清一が再選
3階建て地下1階、750名収容(補助席含)の新しいホールが完成した。オーケストラピットを深く広くとり、オペラ上演に適するように設計されていた。オペラ、各種演奏会、公開レッスン、行事、試験などに使用されたが、平成元年にオペラハウスが竣工したのちに取り壊され、現在のぱうぜに建て替えられた
大栗裕教員が本学吹奏楽団のために作曲した《吹奏楽のためのディベルティメント》を初演。前回の本学定期演奏会を聴いたときに浮かんだ構想にもとづき作られたもので、「若者の苦悩と歓び」が作曲の動機だという
本学にも様々なクラブ、同好会があった
サイクリングクラブ
ゴルフクラブ
日本通運大阪航空支店の主催するヨーロッパ旅行の企画に本学が協賛。教員、在学生、卒業生および関係者30名近くが参加し、各地の音楽祭等を鑑賞した。この旅行は、長年にわたり毎夏続けられることとなる
9月17日 ピアノ披露演奏会(本学ホール)
本学5人のピアノ教員により、新しいピアノの披露演奏会が開催された
ミュンヘン音楽大学のフーゴー・シュトイラー(Pf)、ハインツ・エンドレス(Vn)両教授による演奏会を開催。29、30日は特別講義も開催
10月9~14日 大学祭(本学ほか)
オペラ部《エウゲニ・オネーギン》公演
後夜祭のファイヤーストーム
邦楽コースの学生と各流派の著名人を招き、演奏会を開催した
11月10日 ハンス・ジェットナー/エミーエ・ジェットナー特別講義
11月24日 第12回定期演奏会(フェスティバルホール)
ベートーヴェンのピアノ協奏曲を演奏する記念に、ポスターやプログラムなどには楽器博物館所蔵のベートーヴェンが使用していたものと同型のブロードウッド社製ピアノの写真がデザインされた
11月27~29日 演奏旅行(岡山、鳥取県)
12月3日 第3回合唱演奏会(本学ホール)
12月13日 ホール竣工記念公演 平井丈一朗チェロ独奏会(本学ホール)
関西音楽の歴史
本学教員の武田邦夫、のちに教員となる鎌谷静男も世話人として名を連ねている
1月18、19日 大学紛争・東京大学安田講堂へ機動隊突入
2月1日 鳥井音楽賞(現・サントリー音楽賞)設立
サントリー株式会社が創業70周年記念事業の一環として、創立者の鳥井信治郎の名を冠した賞を設立。わが国の洋楽振興を目的に、その年度における洋楽文化の発展に最も功績のあった個人又は団体を顕彰し、贈呈される。関西では、日本テレマン協会が1985年度に受賞
2月8~11日 マヤ・プリセツカヤ 関西初公演(フェスティバルホール)
ボリショイバレエ団のプリマバレリーナ、マヤ・プリセツカヤが《白鳥の湖》《カルメン》《瀕死の白鳥》などを上演。大阪フィルハーモニー交響楽団が演奏
関西楽壇においてピアノ音楽の演奏・普及に尽力。国家から遺族追彰として銀杯が贈られ、内閣総理大臣からも表彰された
2月27日 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団公演(京都会館第一ホール)
28日:フェスティバルホール
三度目の来日はゲオルク・ショルティの指揮で、R.シュトラウス《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》、ブルックナー《交響曲第7番》などを演奏
4月1日 神戸山手女子短期大学音楽科設立
4月1日 京都市立芸術大学開学。音楽学部を設置
4月1日 大阪府厚生会館が大阪府青少年会館として新発足
4月14日~5月2日 第12回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
小沢征爾率いるトロント交響楽団が初来日し、武満徹《ノベンバー・ステップス第1番》の関西初演を行った。アレクシス・ワイセンベルク(Pf)、ボーザール・トリオ、ミュンヘン・バッハ合唱団・管弦楽団も初来日。カール・リヒター指揮でJ.S.バッハ《ロ短調ミサ》、《マタイ受難曲》を演奏した。「海野義雄・堤剛協奏曲の夕」では2人と専属契約をしているCBSソニーがフェスティバル初の実況録音盤の収録を行った
プログラム表紙((公財)朝日新聞文化財団提供)
ミュンヘン・バッハ合唱団・管弦楽団(第20回プログラムより)
第一部はフランスオペラのアリアを演奏、第二部でラヴェル《子供と魔法》を演奏会形式により関西初演。宇宿允人指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏
5月24~26日 ミュージック・フェア ’69開催(京都市勧業館)
5月24日 全国ピアノ技術者協会創立40周年記念大会開催(京都会館大会議室)
5月25、26日 第19回全国楽器協会京都大会開催(京都会館第二ホール)
第19回全国楽器協会大会が京都で開催されるのに合わせて、関西楽器振興会が楽器の展示会「ミュージック・フェア’69」を開催。82社が出品し、日本全国および海外からの入場者総数は延べ約15,000人。またこれに合わせて全国ピアノ技術者協会の大会も開催
5月26日 東名高速道路全面開通
大阪駅前第一ビル10階に新設された大阪音楽文化センター内のモーツァルトサロンがオープン。大阪で初めての本格的なサロン・コンサートの形式とされる演奏会が開催された。関西でもサロン音楽の流行が見られるようになる
8月25日 大阪労音 ベートーヴェン弦楽四重奏曲連続演奏会開始(大阪厚生年金中ホール)
大阪労音が創立20周年と翌年のベートーヴェン生誕200年を記念して全6回開催。巌本真理弦楽四重奏団による演奏
大阪労音例会パンフレットより
20日、10月5日:フェスティバルホール
17日:京都会館第一ホール 21日:奈良県文化会館大ホール 27日:西宮市民会館
大阪国際フェスティバル秋の特別行事として、翌年の万国博に来日が実現したスヴャトスラフ・リヒテルの音楽記録映画を全国に先駆け関西で公開。「ギレリスの芸術」同時上映
17~19日:フェスティバルホール
20日:神戸国際開館
13年ぶりの再来日となるロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団を率いて、当時の常任指揮者であったズービン・メータが初来日
大阪フィルハーモニー交響楽団が翌年のベートーヴェン生誕200年を記念して、12月19日まで6回にわたり、ベートーヴェンの作品群を連続演奏した。この企画により関西交響楽協会が昭和44年度大阪府民劇場賞受賞
指揮者はベルナルト・ハイティンク、ジョン・プリッチャード、イェジー・セムコフが同行し初来日。関西ではジョン・プリッチャードがタクトを振った
朝比奈隆指揮、朝比奈隆・茂山千之丞演出、大阪フィルハーモニー交響楽団 関西歌劇団合唱部
関西歌劇団はこの公演により昭和44年度大阪文化祭賞を受賞
大阪音楽大学の歴史
音楽文化研究所が『大阪音楽文化史資料』の昭和編を発刊。昭和20年までの洋楽に関する資料を写真版で編集。新たにラジオ放送史も掲載した
《オルフェオとエウリディーチェ》より第3幕、《ラ・ボエーム》が上演された
3月9~11、18日 卒業演奏会
9~11日:本学ホール
18日:毎日ホール
従来は学外のホールで昼夜2回行っていたが、より多くの学生に出演の機会を与えるため、学外演奏会を1回にして、本学ホールにおける学内演奏会を各学部、専攻別に計3回開催することとなった。9、10日に短大52名、11日に大学30名、18日に大学25名が出演した
3月16日 大学院第1回学位記授与式
本学初の芸術学修士8名が誕生。全員が本学教員となり、後進の指導にあたることとなった
4月1日 大学器楽学科にオルガン専攻開設
5月13日 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団公演に出演(フェスティバルホール)
エキスポ・クラシックスでのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のベートーヴェン・チクルス第5夜に出演。本学合唱団がベートーヴェン生誕200年祝祭合唱団の一員として、カラヤンの指揮で《第九》の合唱を演奏した
プログラム
万国博のために初来日したアルゼンチンを代表する弦楽合奏団の特別演奏会を開催。アルゼンチン大使も来校し、記念品の贈呈や水川学長との挨拶の交換がなされた
万国博開催を機に水川学長の提唱により、音楽教育における相互研究を目的として、合同演奏会をきっかけに姉妹校となった台湾の中国文化学院と韓国のソウル大学校音楽大学の両校の学長、教授らを招いて、本学で教育会議が行われた
楽器博物館
楽理研究室のティーチング・マシン
皇太子夫妻ご臨席のもと、佐藤首相以下各閣僚、石坂万博会長等が参加して行われた式典の後、この日のために作られた交声曲《日本新頌》を作曲者の團伊玖磨自身の指揮により、本学合唱団300名が大阪フィルハーモニー交響楽団と演奏した
ステージは右上方
本学合唱団がエキスポ・クラシックスのフェアウェルコンサートに出演。アサヒコーラス、大阪市民合唱団とともに朝比奈隆指揮のNHK交響楽団とベートーヴェン《交響曲第9番》を演奏した
プログラムより
不足していた管楽器の練習室専用に、冷暖房完備の校舎を建設
10月21日 学4声楽第1回オペラ実習研究発表会《椿姫》(本学ホール)
カリキュラム改正により、声楽専攻生全員がオペラを学ぶようになり、その成果を発表する場が欲しいとの希望から、大学4年生による自主的な発表会が開催された。キャスト、スタッフ全てを希望する4年生全員のアンケートで決定し、指導教員までもが学生によって選ばれた
本管弦楽団と箏およびフルート専攻生が演奏を行った
プログラム表紙
11月9日 第1回混声合唱部演奏会(大阪厚生年金会館中ホール)
創部4年目にして初の学外演奏会を開催
ベートーヴェン生誕200年を記念して、本学定期演奏会もベートーヴェンの作品を演奏。合唱団はエキスポ・クラシックスでのベルリン・フィル、N響との共演に続き、この年3回目の《第九》演奏となった
大阪国際フェスティバル協会主催の催しに協賛、楽器博物館所蔵のベートーヴェン愛用のものと同型のブロードウッド社製ピアノとベートーヴェン像を貸し出した
ロビーを飾ったベートーヴェン像
小林道夫がピアノソナタ《月光》を演奏
本学と大阪万博 1970年(昭和45年)、日本列島はアジア初の万国博覧会開催に沸いた。音楽関連の催しはフェスティバルホールでのエキスポ・クラシックスをはじめ、万博会場の万国博ホール、お祭り広場、水上ステージ、各パビリオンなど様々な会場で多彩な演奏が繰り広げられていた。そんな中、大阪万博は本学の名を歴史に残す忘れられない出来事となる。本学合唱団が地元大阪の音楽界を代表し、何度も大舞台を踏んだのである。 まずは5月13日、最大の呼び物であったカラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のベートーヴェン・チクルスに出演。アサヒコーラス、大阪市民合唱団とともに100名を超える本学合唱団が《第九》を演奏した。カラヤンの指揮で歌えるということに、学生たちの緊張、興奮ぶりは大変なものであったという。準備の指導には朝比奈隆、クラウス・プリングスハイム監督のもと、浦山弘三、宇宿允人、木村四郎があたった。 そして6月29日はお祭り広場で開催された「日本国ナショナルデー」に出演。皇太子ご夫妻、佐藤栄作首相ら各閣僚、石坂泰三万博協会会長らが参列する中、式典が行われた。皇太子殿下のお言葉のあと、本学合唱団300名がこの日のために團伊玖磨が作曲した《日本新頌》を團自らの指揮で、大阪フィルハーモニー交響楽団とともに演奏した。その模様は全国中継され、衛星を通じてカナダにも放送された。 さらにエキスポ・クラシックスの最終日、9月12日のフェアウェルコンサートにも出演。今度は朝比奈隆指揮、NHK交響楽団の演奏でアサヒコーラス、大阪市民合唱団とともに本学合唱団が再び《第九》を歌い、半年にわたる祭典の有終の美を飾った。 1970年は本学にとって創立55周年でもあったが、万国博覧会というオリンピックに次ぐわが国最大のイベントに参加できたことで、まさに記念すべき年となったのである。 |
練習風景(公財)朝日新聞文化財団提供
公演写真(公財)朝日新聞文化財団提供
(公財)朝日新聞文化財団提供
万博の催しに出演を重ねた本学合唱団はその貢献が認められ、日本万国博覧会協会より感謝状を受ける
フェアウェルコンサートで再び《第九》を歌う本学合唱団
関西音楽の歴史
京都市上京区河原町通広小路に位置し、会館内に収容人数426名のホール設置。プログラム構成を外山雄三が担当し、月1回「室内楽の会」を開催
プログラム表紙
2月2日:京都会館第一ホール
アルゼンチンの女流ピアニスト、アルゲリッチが初来日。大阪ではリサイタル、京都では外山雄三指揮の京都市交響楽団の定期演奏会でショパン《ピアノ協奏曲第1番》を演奏
ドイツ・リートを中心とした歌曲の演奏、および研究を目的に設立された
日本シューベルト協会プログラムより
大阪労音が会員の要望により、外山雄三の協力を得て室内楽のシリーズを企画、シリーズ会員を募集した。会場の準備、プログラム作成、宣伝、合評会の計画・実行、専門家との打合せまで、会員自らが行うという画期的なものであった
3月1、2日 大阪労音創立20周年記念例会(フェスティバルホール)
大阪労音の創立20周年に向けて、原爆を題材に土井大助作詞、外山雄三が作曲した《交響曲「炎の歌」》を外山自身の指揮、京都市交響楽団、大阪労音合唱団により初演
3月14日~9月13日 日本万国博覧会開催(大阪府吹田市)
「人類の進歩と調和」をテーマに、アジアで開催された初めての国際博覧会。会期中、エキスポ・クラシックスと呼ばれるクラシック音楽関連の催しがフェスティバルホールを半年間借り切って開催された。各国随一を誇る演奏家たちが博覧会に際して来演。出演者数約3,500人、29種目、104回の公演で、入場者総数は約155,000人であった
岩城宏之指揮のNHK交響楽団が《君が代》に続き、万国博のための委嘱作品である三善晃《祝典序曲》を、そして黛敏郎《BUGAKU》、ドヴォルジャーク《交響曲第9番「新世界より」》を演奏し、エキスポ・クラシックスが開幕した(以後、万国博関連催物はEXPOと表示)
NHK交響楽団による
《君が代》演奏
《ローエングリン》《モーゼとアロン》《ドイツ・レクイエム》
ベルリン・ドイツ・オペラは過去2回来日するも、関西でのオペラ公演は初めて。音楽監督の指揮者ロリン・マゼールをはじめ、歌手、管弦楽団、合唱団、バレエ団、スタッフの総勢370名が来演。シェーンベルク《モーゼとアロン》は大規模な管弦楽、合唱、バレエを要し、上演不能といわれた聖書劇で、ブルーノ・マデルナ指揮、ルドルフ・ゼルナー演出により本邦初演
《モーゼとアロン》リハーサル風景
モーツァルトサロンがベートーヴェンの命日の3月26日から誕生日の12月17日まで、関西在住の10人のピアニストによるピアノ・ソナタ全32曲の連続演奏会を開催
4月2日 日本初パイプ・オルガン・コンクール開催(万国博キリスト教館)
万国博キリスト教館主催で、わが国初のパイプ・オルガンのコンクールが行われ、同館で入賞者によるリサイタルが開催された
4月26日 第1回イタリア声楽コンコルソ開催(毎日新聞京都支局ホール)
わが国の声楽レベルを世界的な水準へ導くことを目標に、留学支援事業として関西日伊音楽協会が主催。初回のシエナ大賞には本学教員であった黒田安紀子が選ばれ、イタリアへ派遣されることとなった
4月28日~5月10日「ショパン展」開催(大丸こども館6階催し場)
日本ショパン協会、毎日新聞社主催で、この年の第8回ショパン国際ピアノ・コンクール開催を記念して企画。ポーランド政府がショパンの芸術を紹介するために収集した音楽遺産の海外初公開展
5月8~11、13、14日 EXPO ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(フェスティバルホール)
ベートーヴェン生誕200年に寄せて、最終日を除く5日間にわたってベートーヴェン・チクルスを演奏。エキスポ・クラシックスの中でも最大の人気を誇り、入場券は前売りと同時に即完売となった。大阪国際フェスティバル協会との共催
日本代表の一人として本学教員であった矢野蓉子が出場
7月20日まで5夜にわたり、日本を代表する5つのオーケストラが出演。若杉弘、小沢征爾、岩城宏之、渡辺暁雄、朝比奈隆という5人の指揮者の競演でもあった
関西歌劇団が、2年前に初演した大栗裕《地獄変》を台本・音楽ともに一部改変し、朝比奈隆指揮、茂山千之丞演出、大阪フィルハーモニー交響楽団・桐絃社社中の演奏、初演時とほぼ同じキャストで上演した
《ボリス・ゴドノフ》《エウゲニ・オネーギン》《スペードの女王》《イーゴリ公》
歌手、オーケストラ、合唱団、バレエ団、スタッフを合わせて総勢400名が100トンを超す衣裳・舞台装置とともに初来日。エキスポ・クラシックス最大規模の公演であった
朝日ジュニア・オーケストラの解散に伴い、朝日新聞社から楽器・楽譜の譲渡を受けた大阪市が全国初、市立の青少年のためのオーケストラを設立。本学も協力要請を受け、宮本政雄、松尾昌美両教員らが指導にあたった
幻のピアニストといわれたリヒテルの初来日。プロコフィエフのソナタやムソルグスキー《展覧会の絵》などを演奏。EXPO以外に27日に京都公演も行った
朝比奈隆指揮、NHK交響楽団の演奏でベートーヴェン《交響曲第9番》を演奏し、万国博閉会の前日にエキスポ・クラシックスが閉幕した。本学学生も合唱で出演
和歌山市小松原通りに建設。大ホール2,000名、小ホール450名収容
11月3日 清水脩《大仏開眼》関西初演(奈良県文化会館)
4日:神戸国際会館 5日:和歌山市公会堂、和歌山県民文化会館 13日:京都会館第一ホール
長田秀雄原作 清水脩・岡本一彦台本 若杉弘指揮 観世栄夫演出 二期会 京都市交響楽団 二期会合唱団
昭和45年度文化庁芸術祭主催公演による創作オペラが関西でも巡演された
11月12日 大阪郵便貯金会館開館
旧郵政省が大阪市天王寺区上本町に建設。昭和50年の郵便貯金創業100年を記念して全国10ヶ所に作られた郵便貯金会館の第1号。内部に設置された郵便貯金ホールは682名収容
11月17日 ベートーヴェン生誕200年記念《フィデリオ》公演(神戸国際会館)
19、20日:フェスティバルホール
外山雄三指揮、中村俊一演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、大阪労音フロイデ合唱団、神戸労音フィデリオ合唱団、京阪神大学連合合唱団、新月会
東京、大阪、神戸、名古屋労音がベートーヴェン生誕200年を記念して共同企画。外山雄三・桜井武雄・前田直純の日本語訳によるもので、関西では戦後初の上演であった
プログラム表紙
12月2、3日 二期会関西支部 室内オペラシリーズ開始(大阪厚生年金中ホール)
林光《あまんじゃくとうりこひめ》、メノッティ《アマールと夜の訪問者》を大森栄一指揮、長沼広光演出、二期会関西支部合唱、ピアノ・エレクトーン等による演奏で上演
《あまんじゃくとうりこひめ》
(関西二期会提供『関西二期会創立30年記念誌』より)
大阪国際フェスティバル協会がベートーヴェンの誕生日に開催。属啓成の講演、ピアノ曲、歌曲と弦楽四重奏曲の演奏に映画「ベートーヴェンOp.1」が上映され、朝比奈隆指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏による《交響曲第5番「運命」》等を演奏、最後に参加者全員による《交響曲第9番》より「歓喜の歌」の合唱が行われた
プログラム表紙
関西におけるベートーヴェン生誕200年 日本万国博覧会の開催された1970(昭和45年)は、日本中がベートーヴェンに沸いた年でもあった。読売新聞社主催による42回にわたって140曲の作品を取り上げる連続演奏会を筆頭に、東芝EMIや日本グラモフォンによるベートーヴェン全集の出版、NHK-FMによるベートーヴェン・チクルスの放送と、大型企画が目白押しであった。 関西楽壇も大いに盛り上がった。前夜祭として大阪国際フェスティバル協会が大阪市立博物館と共同で1967年(昭和42年)にベートーヴェン展を開催。楽譜、手稿、ピアノ、遺品といった縁の品々を海外から集めた大規模な展示は、大きな話題を呼んだ。また、1969(昭和44年)年8月から翌年7月にかけて、大阪労音が巌本真理弦楽四重奏団による弦楽四重奏曲の全曲演奏会を開催。京都十字屋も1970年に岩渕竜太郎弦楽四重奏団によるベートーヴェン生誕200年記念コンサートを企画して、全6回にわたる弦楽四重奏曲全曲連続演奏会を行った。 他方、大阪駅前第1ビル10階のモーツァルトサロンは、3月から12月にかけて、関西在住10人のピアニストによるピアノ・ソナタ全32曲連続演奏会を行った。命日の3月26日に始まり、誕生日の12月17日に終わるという趣向を凝らした企画である。なお、来日したヴィルヘルム・ケンプもピアノ・ソナタ及びピアノ協奏曲の連続演奏会を開催した。また、声楽曲の演奏会やオペラ上演の試みも行われ、アサヒコーラスは《ハ長調ミサ》に挑み、東京・大阪・神戸・名古屋労音の共同企画によるオペラ《フィデリオ》が上演された。 大阪フィルハーモニー交響楽団は万博で忙しくなるのを避けて、前年の1969年に前倒しでベートーヴェン・チクルスと銘打った演奏会を行った。さらには大阪国際フェスティバル協会も12月17日のベートーヴェン200回目の誕生日に「生誕の日を祝う会」を開催し、属啓成による講演や、《ピアノ・ソナタ第14番「月光」》、《弦楽四重奏曲第16番》、《交響曲第5番「運命」》等の演奏、参加者全員による《歓喜の歌》(《交響曲第9番》より)の合唱が行われた。その他、FM大阪では12月をベートーヴェン月間として土曜深夜の時間帯をベートーヴェンの作品で構成し、最後の土曜日である26日には《交響曲第9番》が放送された。 |
《第九》の自筆楽譜や、のちに本学楽器博物館が購入した1816年ブロードウッド社製のピアノも展示されていた
ベートーヴェンが晩年に愛用していたものと同型のピアノで、演奏可能な状態で残る唯一のものとして、会場で生演奏もされていた
この年、大阪フィルハーモニー交響楽団は《第九》の15回を筆頭に、ベートーヴェンの作品を81回演奏したという
(公財)朝日新聞文化財団提供
FM大阪開局 1969年(昭和44年)3月本放送開始のNHK-FMに続き、3番目の地方局として1970年(昭和45年)4月1日、FM大阪が開局した。コールサインはJOBU-FM、周波数は85.1MHz。出力は10kw。開局に際して、ベートーヴェンの全交響曲を連続演奏する「ベートーヴェン・チクルス」が放送された。エフエム放送には音質の良さとステレオ放送という特色があり、重点的に音楽が放送された。ポピュラー音楽中心の編成ではあったが、開局当時から数年にわたって毎週土曜日に6時間にわたるクラシック音楽を放送する番組もあり、地域の西洋音楽の普及にも一定の役割を担った。 なお、初期の頃はまだまだ「エフエム」に関する知名度が低かったようで、10周年記念誌の『音づくりこの10年』には、口コミで「エフエム」という言葉を広く大阪の人々に知らせる工夫や努力を試みたエピソードが綴られている。 |
大阪音楽大学の歴史
音楽文化研究所が関西の音楽文化活動の現状を調査する研究に着手、その成果の一つとして発表した。関西の音楽文化において重要な役割を果たす団体や組織、関係法人を網羅した貴重な資料として注目された。限定出版で販売
中央はトゥリッドゥとローラを演じる林誠、桂斗伎子教員(昭和46年6月1日 関西音楽新聞)
本学混声合唱部が関西歌劇団合唱部とともに合唱を担当
ミュンヘン音楽大学リート科主任教授、ミュンヘン国際音楽コンクール声楽部門の審査委員長であった同氏による公開レッスンを開催
本学教員の研究発表を兼ね、公開録音を中心としたラジオ番組を提供することとなった。第1回の放送は《リゴレット》のハイライトで、樋本栄、桂斗伎子、伊藤富次郎、安則雄馬、浅井康子教員が出演。定期演奏会やオペラ公演など、様々な学生たちの演奏も放送された。番組は中断をはさみ、平成3年6月まで続けられた
7月6日 三笠宮殿下ご来校
オリエント学会でご講演のため来阪された三笠宮崇仁殿下が本学をご訪問になった。殿下のアイススケートのための楽曲を本学管弦楽団が演奏、録音したご縁で実現したものであった。4時間ほどかけて、大学、高校、幼稚園の各所をご視察された
特別演奏会をご鑑賞
幼稚園ご視察
松尾昌美教員の指揮で、本学有志の合唱団が大和田建樹作詞、宮城道雄作曲の交声曲《松》を桐絃社々中と共に演奏した
ドイツのピアニストで、ミュンヘン国立音楽大学の教授である同氏の公開レッスンを開催。大学3、4年生、付属高等学校生、および幸楽会々員が受講。3週間のうちに教員も希望者が個人レッスンを受けた。25日には同氏リサイタルも開催
伴奏法と2台のピアノによるアンサンブルの公開レッスンを開催
10月22~26日 大学祭
テーマは「道」。楽器博物館において、アコースティック蓄音機の世界的コレクター、舟橋透コレクションの展示および同氏の講演があり、ホールでは上方漫才・落語の脚本家として著名な秋田実氏の講演なども行われた。当時の大学祭は、前夜祭に始まり、文化祭公演、展示・バザー、体育祭、後夜祭、球技大会が開催されていた
軟式野球部
バスケットボール部
コンサート伴奏者、またテノール歌手としても活躍、10年来ミュンヘン・バッハ合唱団のボイストレーナーを務める同氏による公開レッスンを開催
11月22日 第14回定期演奏会(フェスティバルホール)
定期演奏会翌日、本学管弦楽団77名、教員4名の合計81名が神戸港を出発。熊本、八代市内の5ヵ所で公演を行った。ピアノ協奏曲では、熊本女子短期大学講師の有馬よう子氏と共演
12月1日 第5回合唱演奏会(豊中市民会館)
12月22、23日 第12回オペラ研究公演《カルメン》(大阪府立青少年会館文化ホール)
本学のラジオ番組開始 現存する記録の限りでは、1930年(昭和5年)4月24日、大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)での《君が代》演奏が、本学学生のラジオ初出演である。それから40年余りを経た1971年(昭和46年)6月、本学がFM大阪で音楽番組を提供することとなった。番組タイトルは「カレッジ・オブ・ミュージック・コンサート」、放送は毎週土曜日午後2時からの30分間であった。 当時、ラジオのクラシック番組といえば国内外の著名な演奏家のレコードを流す放送が多かった中、関西の音楽家に演奏の機会を与え、公開録音による生演奏の良さを伝えようとFM大阪が企画した画期的な番組で、本学にとっては教員の研究発表を兼ねていた。録音は本学ホールで毎月1回、4時間をかけてひと月の放送分がまとめて収録され、初回は5月21日であった。この日は6月5日の第1回放送用の《リゴレット》ハイライトに樋本栄、桂斗伎子、伊藤富次郎、安則雄馬教員(ピアノ=浅井康子教員)、続く第2回用にピアノ教員の梅本俊和、小川侑俊、小林峡介、仙石浩之、永井譲の5人で結成されていた「ピアノグループ5」、第3回と第4回用にはテノールの田原祥一郎教員(ピアノ=田原婦美子教員)、フルートの曽根亮一教員(ピアノ=田原富子教員)がそれぞれ演奏を行った。 本学が直接内容に関わり、毎回一つのテーマにもとづいて選曲し、ナレーションを挿入した親しみやすい番組作りを心がけた。スタートから3カ月後の9月に発行された関西音楽新聞には「回を重ねる毎に多彩なプログラムの登場で、試聴率(原文ママ)も上昇している」とある。この実績を踏まえ、それまで専任教員中心であった出演者の枠を次年度より大学・大学院生、非常勤教員、卒業生にまで拡大。10月からは毎週日曜日の午前7時~7時55分と曜日・時間帯の変更とともに、放送時間も延長された。それまでの定演や吹奏楽演奏会などに加え、卒業演奏会、大学院生のオペラハイライトやコンチェルト演奏など、よりバラエティーに富んだ内容となり、各地の会場録音による放送も増えていった。レコードによる音楽紹介も交えていくようになる。 昭和47年度で一旦中断したが、昭和50年度に放送日を土曜日に戻して再開。昭和60年度からは内容を一新、梅本教員と本学出身のアシスタントが企画、進行役を務める音楽講座というスタイルで継続されたが、1991年(平成3年)6月29日「音楽小箱」の放送をもって終了した。このラジオ番組の提供は本学の大きな広報活動でもあるとともに、創立当初より毎年行ってきた演奏旅行同様、20年間の放送を通じて本学がクラシック音楽の普及に一定の役割を果たしたものだといえるだろう。 |
放送風景─梅本教員と有吉円アシスタント(昭和63年6月撮影)
三笠宮崇仁殿下ご来校 三笠宮崇仁殿下ご訪問との一報は、水川学長の知人で作曲家の武内秀介を介してもたらされた。ご来校になる2週間あまり前の6月20日のことであった。武内は殿下にギターをお教えしており、一昨年前に彼が殿下のアイススケートのために作曲した《雪間の若草》という曲を本学管弦楽団が演奏、録音し、それを使って滑られた殿下がその年のアイススケート・ダンスで第1位になられたというご縁があった。 そして実は水川自身もそれ以前に二度、殿下にお会いして親しくお話しする機会があり、その折にご来校を願い出たところ、殿下が「是非参りましょう」と快諾くださっていた経緯があった。殿下はその時の約束を果たすため、オリエント学会にご出席される前に本学に寄ろうとおっしゃられたのである。 急遽決まったご訪問に、水川はあわてて小橋学部長、深川事務局長らと協議し、限られた時間の中、殿下をお迎えする準備を整えた。警察、豊中市役所にも連絡したが、ご通行になる道路の一部舗装が傷んでいたのを、本学が言うまでもなく、市がいち早く直してくれたというエピソードが残っている。 当日の7月6日、12時半に新幹線でご到着の殿下を水川らが新大阪駅のプラットホームで出迎えた。本学に着かれた殿下はF号館4階の合同演奏室で本学役員、教授ら70名とご会食ののち、楽器博物館、楽理研究室などを見学され、続いて箏合奏室で菊原初子教員指導の箏専攻学生による《六段の調》の合奏をお聴きになった。その後、付属音楽高等学校のML(ミュージック・ラボラトリー)装置による授業を参観されたあと、永井幸次前学長の胸像横に若杉をお手植えになられ、本学ホールでの特別演奏会に臨まれた。ちょうど前期試験の最中であったため大学の学生は出演できなかったが、高校生と教員が演奏を行った。 付属音楽幼稚園にも立ち寄られ、園児たちによる1日早い七夕祭りを楽しまれた。この時の模様はNHKをはじめ、各局テレビのニュースで報じられた。お帰りの際は国旗を手にした園児たちが正門まで万歳をしてお見送りをし、4時間のご視察を終えて学会に向かわれたという。大学と幼稚園にお手植えくださった殿下のお印である若杉は、今も青々とご訪問の跡をとどめている。そして現在ご存命の皇族最年長でいらっしゃる三笠宮崇仁殿下は、本学と同じ大正4年のお生まれで、2015年(平成27年)12月、奇しくもともに100歳をお迎えになるのである。 |
新大阪駅にご到着の三笠宮崇仁殿下
会食後、大学の概況説明をする水川学長
水野佐平顧問の説明をお聞きになる殿下
ピアノの内部構造にも興を示されたという
ティーチング・マシンをご視察
箏専攻学生の合奏《六段の調》をお聴きになる殿下
ML装置による高校の授業をご参観
永井前学長の胸像横に若杉をお手植え
正門前でお見送りをする高校生たち
園児たちにお褒めの言葉も頂戴したという
関西音楽の歴史
1月1日 日仏音楽協会=関西発足
翌年9月に第1回フランス音楽コンクールを開催、現在も継続されている
1月7日 ツトム・ヤマシタ関西初公演(京都会館第一ホール)
21日:毎日ホール
1964年に17歳で渡米したツトム・ヤマシタの日本デビュー・リサイタル。シャツとジーンズというクラシック界では異例のヒッピー風のファッションで、多種打楽器による独創的な演奏を行った
昭和46年2月1日 関西音楽新聞より
1月26日 ヴィエール室内合奏団(現・関西フィルハーモニー管弦楽団)第1回定期演奏会(津村講堂)
同団は前年、宇宿允人を指揮者として神戸女学院大学音楽部の卒業生を中心に結成された
大阪ゲーテ・インスティトゥート、大阪楽友協会の主催による、現代音楽(ドイツの作曲家と大阪在住の作曲家たちの作品)及び映画と前衛ジャズによる演奏会。聴衆には若者層が多かったという
教会の聖堂を会場として教会音楽によるコンサート・シリーズを開始
ロンドン交響楽団を弾き振りをするA.プレヴィン(第20回記念プログラムより)
山田耕筰オペラ・バレエ《あやめ》
(第20回記念プログラムより)
毎日放送が放送開始20周年記念として開催。ビデオ・スコープ等の光学機器を用い、受講の模様を場内のテレビ・モニターに映し出すという新方式の公開レッスンだった。高橋美保子、小栗まち絵、高木(のち田島)まり子が受講。翌25日には第2回としてリリー・クラウスの公開レッスンが行われた
19日:京都府立文化芸術会館
24日:大阪厚生年金会館中ホール
7月2日 ウィーン・フィルハーモニー室内合奏団(現・ウィーン室内合奏団)関西初公演(京都会館第一ホール)
4日:神戸国際会館
6日:フェスティバルホール
特別演奏会「テレマンの夕べ」としてオール・テレマン・プログラムを披露。会場を満席にした
10月16日~11月29日 文化庁移動芸術祭・移動芸術祭巡回公演 初開催(関西公演)
地方の芸術文化振興を目的として文化庁が開始した事業。関西ではオーケストラ、オペラ、バレエ各部門の参加団体(日本フィルハーモニー交響楽団、二期会、東京バレエ団、日本バレエ協会)が兵庫、奈良、滋賀、和歌山で公演を行った。翌年には朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団が同芸術祭に初参加。四国・九州地方の計8都市を巡演した
同研究会は当年、日本歌曲の研究と普及を目指して発足。初代会長に木村四郎、副会長には松本寛子、木村絹子が就任。当発表会の第1部では日本歌曲の演奏、第2部では菅野浩和指揮による自作の創作オペラ《イソップ物語 第5の話》が上演された
10月22日 アルフレッド・ブレンデル関西初公演(奈良文化会館)
24日:西宮市民会館
11月4、5日 大阪フィルハーモニー交響楽団 韓国ソウル特別演奏会(ソウル市民会館)
大阪フィルハーモニー交響楽団初の海外公演。4日は朝比奈隆の指揮で文竜姫(Pf)が共演、5日は林元植の指揮で朝比奈千足(Cl)が共演した。国際親善と文化交流を兼ねた公演であった
15、18、19日:フェスティバルホール
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を率いての初来日。マズアは前年に同団のカペルマイスターに就任していた
11月25、26日 関西歌劇団第31回定期公演 ヴェルディ《オテロ》(大阪厚生年金会館大ホール)
朝比奈隆指揮・訳詞 茂山千之丞演出 大阪フィルハーモニー交響楽団 関西歌劇団合唱部 大阪放送児童合唱団
邦人による関西初演であった。当公演により昭和46年度大阪文化祭賞を受賞
世界に先行した日本のデジタル録音 1937年(昭和12年)、イギリスのアレック・ハーリー・リーヴスが音のデジタル化の試みとして、PCM(Pulse Code Modulation=パルス符号化変調)方式を発明。アナログの音声信号をパルス(符号)の形にデジタル化し、信号伝送にこのパルスを用いてノイズ等の影響を受けにくい通信システムを編み出そうとする理論だった。当時の技術水準では実現化は不可能だったが、1948年(昭和23年)にトランジスタが発明されて以降PCM方式の本格的な研究が進み、1962年(昭和37年)に初めて電話の音声伝達方式として応用された。 1965年(昭和40年)、NHK技術研究所はこのPCM方式を用いた録音機の試作に取り組み、1969年(昭和44年)にステレオ仕様の試作機を完成する。このNHKの試作機を用い、1970年(昭和45年)9月14日に日本コロムビアのスタジオで録音され、1971年(昭和46年)1月25日に世界初のデジタル録音によるLPレコードとして発売されたのが、ジャズ・サックス・プレイヤーのスティーヴ・マーカスと稲垣次郎が共演したLPアルバム「サムシング」(日本コロムビア NCB-7003)だった。 クラシックの分野における世界初のデジタル録音盤として発売されたのは、1971年4月25日発売のLPレコード「打―ツトム・ヤマシタの世界」(日本コロムビア NCC-8004-N)である(1990年に初CD化:デンオン COCO-6279)。日本コロムビアが同じくNHKのPCM録音機を用い、同年1月11日に行われたツトム・ヤマシタによる東京文化会館小ホールでの打楽器リサイタルをライヴ収録したもの。楽器の定位感が明瞭で、多彩な音の質感が鮮やかに捉えられている。 欧州でデジタル録音が初めて試みられたのが1976年(昭和51年)。80年代初頭になってデジタル録音が世界に一般的に普及し始めること考えると、70年代初頭の日本におけるデジタル録音の試みは確かに先進的だったと言えるだろう。1982年(昭和57年)10月1日、CBSソニー、EPICソニー及び日本コロムビアは、世界に先駆けてコンパクト・ディスク(CD)を発売。録音・再生メディアは大きな転機を迎えることになる。 |
大阪音楽大学の歴史
音楽文化研究所が前年に引き続き、研究成果を出版した。洋楽関係団体総覧、昭和46年の関西楽界の動向をまとめた年表、膨大なデータを分析した公演統計などを掲載。本書の刊行を機会に関西音楽文化の活動を年鑑としてまとめ、逐次発表していくこととした
昭和47年頃の図書館受付
図書館機能を拡大し、関西楽界に活躍する卒業生の音楽研究の場として広く利用してもらうべく、卒業生にも館内閲覧を認めることとなった
大学院・大学専攻科生が大阪国際フェスティバルに出演のため来日中の同氏による特別講義を受講。2人の学生が演奏し、その後自由なディスカッションを行った。後日、その時の様子を中心に、ピアノ部会が『演奏家生活の為に──ワイセンベルク氏来学を記念して──』という冊子を発行
学長室にて
ホールでの講義風景
付属音楽幼稚園園長に小橋潔就任
6月5、6日 大阪フィルハーモニー交響楽団第100回定期演奏会に出演(フェスティバルホール)
本学合唱団がマーラー《交響曲第8番「千人の交響曲」》の第1混声合唱を担当した。大阪フィルハーモニー交響楽団と本学とは、一時期スタジオ兼講堂を共有するなど非常に密接な関係にあり、何度も共演を重ねてきたが、同団の創立25周年、第100回という記念すべき定期演奏会にも出演を果たした。公演プログラムには同団の創設者であり、当日も総指揮を務めた朝比奈教員が「私の40年の音楽生涯を共に成長して来た大阪音楽大学の若い学生達」と本学学生を称して書き記している。このときのライヴ録音はLPレコードとして全国発売され、のちにCD化もされている
吹奏楽団が初めて演奏旅行を行った。学生41名、教職員6名の計47名が参加。4公演と2回の吹奏楽クリニックを行った
日本のオペラ公演活動を活発にすることを目的に、音楽大学と全国のアマチュアのオペラ・グループが連携して「日本オペラ連絡協議会」を設立、本学も参加した。創立メンバーは本学の他、東京藝術大学、武蔵野、国立などの各音学大学や大分県民オペラ、横浜カントーレなど約20団体。オペラ上演に必要な情報交換や舞台装置、衣裳、楽譜の保存と共同利用を行い、講習会等も開催
10月8日 宮城道雄十七回忌追善演奏会に出演(フェスティバルホール)
指揮、独唱を松尾昌美、林誠教員が務め、本学有志が宮城道雄《日蓮》を合唱。菊原初子教員も特別出演した
10月16日 第5回吹奏楽演奏会(大阪府立青少年会館文化ホール)
テーマは「響」
11月13日 ダリル・デイトン 作曲・楽理特別講義
「電子コンピューター音楽について」というテーマで開催
11月16日 第15回定期演奏会(フェスティバルホール)
この年の5月に日本に返還されたばかりの沖縄へ、本学管弦楽団が演奏旅行を行った。これは水川学長が沖縄の本土復帰を祝って、沖縄出身の3名の在学生に約束したものであった。一行は団長の小橋潔学部長をはじめ教職員5名、学生67名、オーケストラ要員4名の計76名。特別演奏会3回、中学・高校生のための音楽教室を2回開催
沖縄演奏旅行 1972年(昭和47年)5月15日、戦後四半世紀にわたりアメリカの統治下にあった沖縄が、日本に返還された。その当日、水川学長は学長室で沖縄出身の3学生に置時計を贈り、沖縄の本土復帰を祝った。そして本学の管弦楽団を沖縄に派遣して、それぞれの母校で演奏会を開き、ステレオを贈呈して、せめてもの本学の沖縄復帰記念の微意を表したいと彼らに話したという。このことを掲示板に大きく書いて全学生に知らせた時、学生の一人が涙ぐんでいた姿を忘れることができないと、水川は沖縄公演のプログラムに記している。 11月26日、小橋潔学部長ら教職員5名、学生67名、オーケストラ要員4名の計76名が全日空機と日航機の2便に分かれ、一路沖縄へと大阪空港を飛び立った。那覇に到着した一行は西海岸を経由して名護へ向かい、その日のうちに名護中学校で第1回目の演奏会を行った。翌27日は午前中に名護市内の久辺中学校で生徒対象の音楽教室、夜はコザ市(現・沖縄市)の越来中学校で演奏会、終演後夜のうちに那覇に移動して、28日の午前中は那覇市内観光を行い、午後からは首里高等学校にて昼は音楽教室、夜は演奏会を行うというハードスケジュールをこなした。沖縄最終日となる29日は午前中に糸満からひめゆりの塔などの南部戦跡めぐりを行い、2泊3日の船旅による帰路についた。 この時の演奏旅行は沖縄の人々の苦労をねぎらい、祖国への復帰を祝うためのものとして、費用の一切は本学が負担した。そして約束通り、訪れた各学校に1台ずつのステレオを贈った。訪問先の学校からは、本学管弦楽団の生の演奏に接することができたのは傷ついた若者たちの心の浄化にとって大変意義深いものであったという感謝の声が寄せられた。生徒たちを対象とした音楽教室も、戦前戦後を通じてこのような催しは初めてのことだったと大変喜ばれた。 本学は沖縄での演奏会を6年前の1966年(昭和41年)の台湾演奏旅行の際、帰りに立ち寄って行うことができないか計画を試みたことがある。その時はかなわなかったが、本土復帰からわずか半年後にそれを実現した。音楽を通じて悲願成就の祝意を届けることができたことは、本学にとってもより一層価値のある演奏旅行となったのである。 |
守礼門にて
ひめゆりの塔にて
万座毛にて
黎明の塔にて
関西音楽の歴史
21日:神戸国際会館 22日:京都会館第一ホール
同団はショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の大多数を初演。創立50周年を記念しての初来日であった
プログラムより
入野義朗、石井真木の企画・構成による現代音楽に関する全20回の大規模な講演シリーズ。関西ゆかりの作曲家、辻井英世、松下眞一、大栗裕等も講演に参加
2月16日 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団関西初公演(フェスティバルホール)
ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団、東京カルテットが関西初公演。国際的に活躍していた潮田益子の「ヴァイオリン協奏曲の夕」など、海外で活躍する日本人演奏家の出演が特徴的であった。團伊玖磨のオペラ《ひかりごけ》の初演がフェスティバルを締め括った。当オペラの作曲により團は昭和47年度芸術選奨文部大臣賞を受賞
5月10日 国立モスクワ放送交響楽団(現・チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ)関西初公演(フェスティバルホール)
大阪フィルハーモニー交響楽団の創立25周年も兼ねた記念定期演奏会。マーラー《交響曲第8番「千人の交響曲」》を、朝比奈隆の指揮、独唱、合唱、オーケストラを合わせた文字通り1,000人を超える奏者で関西初演。ゲルハルト・ヒュッシュが独唱・合唱の特別指導を行った。またこの公演にはマーラーの権威であったクラウス・プリングスハイムが来席し、終演後のパーティの席上で演奏の労をねぎらう感銘深いスピーチを行ったというエピソードが残されている
東京以外の7つのオーケストラ(札幌交響楽団、群馬交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団、広島交響楽団、九州交響楽団)により設立
8月7~9日:同会場
10日:京都会館第一ホール
ウクライナ国立歌劇場を本拠地とするバレエ団。旧ソ連時代にはボリショイ、マリインスキーと並ぶ三大バレエ団の1つと称された
30、31日:フェスティバルホール
8月5日:京都会館第一ホール
上海舞踏学校の卒業生を中核としたバレエ団。バレエ「白毛女」等を日本各地で公演し日中国交正常化に大きな貢献を果たした
青少年に音楽の場をと大阪市が中之島公園に建設。客席数は約700席。ステージ後方にはギリシャ神殿様式の斬新なモニュメントを備えていた
11月21、22日 関西歌劇団第33回定期公演 ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》(大阪厚生年金会館大ホール)
朝比奈隆指揮・訳詞、三谷礼二演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団合唱部、大阪メンズコーラス
演出家の三谷を東京より招いての公演で、邦人による関西初演であった。当公演により昭和47年度大阪文化祭賞を受賞
前年12月5日に死去したフェルディナント・グロスマンの追悼特別演奏会で、グロスマンに師事した林達次の指揮、バッハ特別演奏会オーケストラ、同志社学生混声合唱団によって行われた。当公演により林達次は昭和47年度大阪府民劇場賞を受賞、同合唱団は第11回音楽クリティック・クラブ賞特別賞を受賞した
大阪フィルハーモニー交響楽団第100回定期演奏会 1972年(昭和47年)6月5日及び6日、フェスティバルホールにおける大阪フィルハーモニー交響楽団第100回定期演奏会で、朝比奈隆の指揮によりマーラーの交響曲第8番《千人の交響曲》が関西初演された(7日には同会場で民音公演として行われた)。マーラー作品の演奏がまだ今日ほど一般的ではなかった当時の関西音楽界において、この大阪フィルの関西初演は破格の一大イヴェントだったと言っても過言ではない。 驚くべきは、まずその演奏規模の巨大さである。山田一雄指揮の日本交響楽団(現・NHK交響楽団)による本邦初演(1949年)が300名規模、小澤征爾指揮の日本フィルハーモニー交響楽団による再演(1970年)では総勢400余名。そして同曲3度目の演奏となった当第100回定期で舞台に上ったのは、指揮、独唱、合唱、オーケストラを合わせた日本史上初の1000人を超える奏者たちであった。これはマーラー自身によるミュンヘン初演(1910年)と比肩する総人員で、オーケストラは京都市交響楽団等からのエキストラを加えた約120人、独唱には関西歌劇団の樋本栄・岡田晴美・永井和子(Sop)、桂斗伎子・羽場喜代子(Alt)、伊藤富次郎(Ten)、三室堯(Bar)、楯了三(Bas)を起用し、約900人の合唱は大阪音楽大学をはじめ、大阪メンズコーラス、アサヒコーラス、グリーンエコー、アイヴィコーラス、コードリベッドコール、関西歌劇団合唱部の計7団体、及び大阪・神戸・奈良放送児童合唱団により構成。正にオール関西勢による記念碑的演奏会であり、関西合唱の層の厚さを如実に示した公演でもあった。 しかし、人間の総重量だけでも約60トン。ホールもこれ程の人員を舞台に乗せるのは開場以来初めてのことであり、特別に床下の補強を行い、反響板を舞台の奥の際まで下げ、10段の雛壇を設置、花道にまで奏者を配置する等、前例のない様々な工夫が凝らされた。当日は、放送録音用とレコード録音用としてNHKやビクターのマイクが約50本舞台に並ぶ中、合唱団員は何と25分をかけて全員着席したという。 このライヴ録音は同年の11月、ビクターから4チャンネル収録の2枚組LP盤(CD4K7513/4)として全国発売され、1993年(平成5年)に初CD化されている。朝比奈にとって最初で最後の演奏となった《千人の交響曲》のこのライヴ録音は、演奏にかける気迫と熱気を生々しく捉えた関西洋楽史における1つの金字塔と呼べ得るもの。そしてまた、大阪音楽大学の若き学生たちがこのエポックメーキングな公演の合唱に参加し演奏の基盤を支えたという点で、本学が関西洋楽史に大きな足跡、影響を残した事例の1つとして数えることができるだろう。 |
大阪フィルハーモニー交響楽団第100回定期演奏会
(『神戸放送児童合唱団20周年記念誌』より)
大阪音楽大学の歴史
『関西音楽文化資料』には明治・大正期からの洋楽の音楽図書、楽譜出版年表、昭和47年洋楽文化活動資料年表、音楽関係団体総覧を掲載。『関西学生音楽活動総覧』は関西の音楽界発展の原動力となる、学生の音楽活動の実態を調査し発表したもの
大阪音楽学校の同窓生が共に学んだ味原町時代を懐かしみ、相互の親睦と、幸楽会の発展に尽力することを目的に結成、第1回会合を開催した。恩師である水川清一、朝比奈隆、粕谷咲子、小橋潔、永井八重子、長井斉、永井静子、水野康孝、山田康子の諸先生を招き、記念品を贈呈。全国から110名の会員が集まった
4月1日 学長選挙 水川清一を再選
4月18日 グレーテ・ベーマイヤー 作曲・楽理特別講義
現代音楽入門の公開講座を開催
5月14日 ヘルマン・ロイター 声楽特別講義
ドイツ歌曲およびオラトリオの歌唱、伴奏についての公開レッスンを開催
美術部
つりクラブ
「律」をテーマに9日の前夜祭に続き、10、11日は文化祭公演と球技大会、展示・バザーが催され、12日は「風変わりな体育祭」と題した体育祭のあと、後夜祭でビアパーティーと阿波踊りが行われた
オペラ部《ドン・ジョヴァンニ》
バザーでの占い
テニス部の中国舞踊
声楽教員による男声合唱《組曲 おかあさんのばか》
体育祭 学年別の入場行進
風変わりな騎馬戦
棒たおし
ピアノアンサンブルの公開レッスンを開催
74名の管弦楽団、4名の教員による一行。幸楽会各県支部主催の演奏会、および中学生のための音楽教室を含め、8ヵ所で公演を行った
初日は大学院生のみ、2日目は大学4年生、大学専攻科生、大学院生が出演。学外でのオペラ公演は今回が最後となる
関西音楽の歴史
30日:大阪厚生年金会館大ホール
NHK交響楽団を指揮しての関西初登場。スウィトナーは一昨年に初来日し、同団の東京公演に客演していた
3月9日 イタリア弦楽四重奏団関西初公演(大阪厚生年金会館中ホール)
3月10日 フランス・ブリュッヘン関西初公演(大阪厚生年金会館中ホール)
11日:御堂会館5階小ホール
小林道夫のチェンバロ伴奏によるリコーダー・リサイタルを開催。11日には公開講座を行った。前年に国内発売されたブリュッヘンのLPレコード「涙のパヴァーヌ」がベスト・セラーを記録するなど、当時はリコーダー・ブームを迎えていた
京都市交響楽団と京都府吹奏楽連盟加入の中・高校生の総勢200名による合同公演。プロ・オケと中・高生吹奏楽による同様のコンサートは前例のないものであった。ショスタコーヴィチ《祝典序曲》等を演奏
4月4日:同会場
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を率いての初来日。ウェーベルン《管弦楽のための5つの小品》、ベートーヴェン《交響曲第3番「英雄」》などを指揮
4月10日~28日 第16回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
ウィリアム・スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団、アンドリュー・デイヴィス(Cond)、モーリス・アンドレ(Tp)等が初来日。イギリス室内管弦楽団を弾き振りしたダニエル・バレンボイムの公演も話題となった。フェスティバルの掉尾を飾ったのは、フラワー・アート、ロック、ミュージック・コンクレート、オペラ、バレエを融合させ、公害告発という社会的なテーマに挑んだフラワー・バレエ《花のいのち》(大栗裕作曲)の初演。当時の関西音楽界が追及した極めて斬新な舞台芸術であった
モーリス・アンドレ
フラワー・バレエ《花のいのち》
((公財)朝日新聞文化財団提供)
関西歌劇団、二期会関西支部、大阪音楽大学作曲科教授・講師等の約20名により、日本の創作オペラを専門に上演する関西発の組織として発足。創設者は本学教員であった足立勝。第1回公演では田島亘《芦刈りの巻》、近藤圭《色好み平中の巻》の2つのオペラを上演した
長崎で行われた第3回マダム・バタフライ世界コンクールの閉会式(同月18日)に初来日のカラスが特別ゲストとして参加。20日に大阪のみで同コンクールの記念演奏会(マリア・カラスとジュゼッペ・ディ・ステファーノによるゼミナールコンサート)が行われ、カラスはコンクール上位入賞者の指導を行った。カラスは1965年の7月にロイヤル・オペラ・ハウスで歌ったプッチーニの《トスカ》を最後に公式の舞台に立っておらず、当公演には全国から大きな注目が集まった
23日、6月7日:フェスティバルホール
レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現・サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)を率いての初来日。過去2度訪日が予定されていたが病気等により実現していなかった
9月26日 大阪市音楽団創立50周年記念演奏会(大阪市立体育館)
辻井市太郎と永野慶作の指揮、客演指揮に朝比奈隆が立った。当演奏会には5,000名が無料招待され、同団創立50周年記念委嘱作品として大栗裕の《吹奏楽のための神話》が永野慶作の指揮で初演された
10月26、27、29日 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団関西初公演(フェスティバルホール)
大阪国際フェスティバル秋の特別公演。クルト・ザンデルリンク、ジークフリート・クルツ、ヘルベルト・ブロムシュテット(ヤン・クレンツの代役)に率いられての初来日(クルツ、ブロムシュテットも初来日)。同年の日本と東ドイツの国交回復を記念しての公演でもあった
11月14、15日 関西歌劇団第35回定期演奏会 ヴェルディ《運命の力》関西初演(大阪厚生年金会館大ホール)
朝比奈隆指揮・訳詞 三谷礼二演出 大阪フィルハーモニー交響楽団 関西歌劇団合唱部 大阪市大グリークラブ 大阪メンズコーラス
文化庁助成に加え大阪府から初の助成を受けての「オペラハウス・オオサカ」と銘打った公演であった。朝比奈は当公演、および同月のマーラー《交響曲第9番》の指揮(大阪フィルハーモニー交響楽団第112回定期演奏会)により昭和48年度大阪府民劇場賞を受賞
作曲家ホキアン・ロドリーゴが初来日し、講演とピアノの自作自演を行った。クリストファー・パークニングが名作《アランフェス協奏曲》等を演奏
25日:神戸文化大ホール
26日:京都会館第一ホール
29日:フェスティバルホール
年末恒例となり需要が増したベートーヴェンの《第9》演奏のため、当時各地で《第9》専門の合唱団を常設する機運が高まっていた。このような中、大阪フィルハーモニー交響楽団が全国初の専属アマチュア合唱団を結成。ハンス・ワルター・ケンペルの指揮でデビューした。29日には朝比奈隆の指揮で演奏。同団は翌年に一旦解散したが、改めて有志を募り、発展的に解散したアサヒ・コーラスなどと共に「大阪フィルハーモニー合唱団」の名で新結成された
森正指揮、第27回定期演奏会(11月26日フェスティバルホール)の成果による
大阪音楽大学の歴史
水川学長が、永年にわたる身体障がい者への寄与と社会福祉事業に貢献したとして、内閣総理大臣より紺綬褒章を授与された
鉄筋コンクリート3階建てで、F号館にあった教員研究室と楽器博物館を収容するため新築。1階は駐車場、2階に楽器博物館および音楽文化研究所、3階は専任教員の研究室24室を配置した
4月1日 大阪音楽大学親睦会設立
会員相互の親睦を目的に、本学在職の教職員全員で組織された
4月25日『関西音楽文化資料1974』刊行
音楽文化研究所調査編集。統計資料にみる洋楽公演活動の実態、関西出版邦楽書目録、音楽関係団体総覧を掲載
4月18日 ロマン・オルトナー 声楽特別講義
デュッセルドルフ音楽大学教授の同氏による公開レッスンを開催
翌25日からの吹奏楽指導者クリニックに出演の講師2名による特別講義を開催
本学吹奏楽団がリハーサル・テクニックのモデルバンドとして演奏、またネム・フェスティバル・コンサート、楽譜紹介コンサートに出演
アルト・サクソフォーンのための小協奏曲
11月7~10日 大学祭
本学の定期演奏会で《第九》を取り上げるのは3回目になるが、教員ではなく初めて大学院の学生たちがソリストを務めた
11月26~29日 演奏旅行(岡山、香川県)
引率教員3名、74名の本学管弦楽団による演奏旅行。4ヵ所で3公演、高校生および小学生向けの音楽教室を3回行った
11月28日、1月9日 大学専攻科オペラ試演会
昭和49年度から、より多くの声楽専攻生にオペラ出演の機会を与えるため、学外でのオペラ公演に代えて、学内ホールで大学、大学専攻科、大学院別に試演会を行うこととなった。オーケストラの負担軽減、オイルショックによる経費節減も考慮してのことであった。オーケストラ・パートはピアノを中心とする小編成のアンサンブルが担当。大学専攻科は2日間の公演で、《アイーダ》《椿姫》《蝶々夫人》(抜粋)に13名が出演
《フィガロの結婚》《蝶々夫人》(抜粋)に合唱15名を含む43名が出演
12月20日 大学院修士演奏会(歌劇専攻)
《オルフェオとエウリディーチェ》《売られた花嫁》《椿姫》《ドン・カルロ》(抜粋)に10名が出演
関西音楽の歴史
朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団の歌手陣により前年の9月23、24日に大阪郵便貯金ホールで収録。東芝EMIよりLPレコード(TA-9330)として発売された。2002年にCD化
(公財)関西二期会提供『関西二期会創立30年誌』より
佐藤功太郎指揮、栗山昌良演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、二期会関西支部合唱団
同支部による第4回目のオペラ公演であった
アンナ・モッフォ(Sop)、ストラスブール・パーカッション・グループ、ヘルムート・リリング指揮シュトゥットガルト・バッハ合唱団・管弦楽団等が初来日。特に当時メトロポリタン歌劇場の花形であったモッフォの2公演(オペラ・コンサートとリサイタル)は大いに話題となった
アンナ・モッフォ
シュトゥットガルト・バッハ合唱団・管弦楽団(第20回記念プログラムより)
1960年の第6回ショパン国際ピアノコンクールに18歳で優勝。数年間表立った演奏活動を休止した後、1968年に楽壇に復帰。これが待望の初来日公演となった
朝比奈隆指揮・訳詞、三谷礼二演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団合唱部、大阪メンズコーラス
プッチーニ没後50年を記念する公演であった。音楽評論家の吉田秀和が三谷の独創的な演出を絶賛
前年、アジア諸国の音楽家の連携を目的に香港で開催されたアジア作曲家会議の第2回が京都で行われた。会長は朝比奈隆、委員長を入野義朗が務め、アジア各国から作曲家が参加した。講演会や邦楽、室内楽、管弦楽作品のコンサートが開催され、松下眞一や、当時西ドイツに帰化していたユン・イサンらの作品が演奏された。大阪テレマン・アンサンブルや山田一雄指揮の京都市交響楽団等が演奏に参加
27日:大阪厚生年金会館大ホール
11日は大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に出演し、朝比奈隆の指揮でベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》を披露。27日は尾高忠明指揮の同団とメンデルスゾーンおよびチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏した
大阪フィルハーモニー交響楽団第118回定期演奏会
(昭和49年10月1日 関西音楽新聞)
11日:京都会館第一ホール
山田一雄指揮、鈴木敬介演出、京都市交響楽団、二期会関西支部合唱団
3月に次ぐ同会の結成10周年記念公演。当公演により昭和49年度大阪文化祭賞を受賞した
(公財)関西二期会提供『関西二期会創立30年誌』より
28日:神戸国際会館大ホール
カラスは10月12日の東京を皮切りに、福岡、大阪等で待望の歌声を披露した。ディ・ステファーノとの当ジョイントリサイタルはハンブルクで開始されたワールド・ツアーの一環であり、11月11日の札幌公演がカラスにとって公式のラスト・ステージとなった
万博後の大阪を国際都市としてより広く内外に発信するため、大阪府の官民支援のもと、喜志邦三と阪田寛夫が作詩、服部良一が作曲を行った。朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団・同合唱団等が初演
ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国25周年記念として東京・大阪・名古屋で大規模なベルリン音楽祭が開催された。ベルリン交響楽団(現・ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団)、ベルリン室内管弦楽団、ペーター・シュライアー等が初来日。大阪では11公演がもたれた。29、30日は特別演奏会としてクルト・ザンデルリンクが《第9》を指揮
辻邦生原作、朝比奈隆指揮、菅沼潤脚本・演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団合唱部
大栗裕は生涯に7作の創作オペラを残したが当作はその最後のもの。様々なオペラからの引用を含むパロディー的な要素を持つ作品となった
大阪音楽大学の歴史
音楽文化研究所年刊。本書では従来の関西のみならず、中国・四国・九州地方のデータも加え、西日本の音楽普及度を府県別に比較するという、全国でも珍しい統計資料を発表
4月5日 FM大阪「カレッジ・オブ・ミュージック・コンサート」放送再開
昭和48年3月で中断していた同番組が再開。毎週土曜日午前7時~7時55分までの放送
4月15日 クラウス・ヘルビッヒ ピアノ特別講義
4月21日 シュヴァルティング夫妻 ピアノ特別講義・コンサート
クラウス・ヘルビッヒ ピアノ特別講義
シュヴァルティング夫妻 ピアノコンサート
5月30日 ギィ・ドゥプリュ クラリネット特別講義
9月 「山の学舎」増築届提出
創立60周年記念の中心事業として箕面市下止々呂美の山林にセミナーハウス風の校舎建設を計画。費用の一部を求めて学校債を発行、9月末の締め切りには目標額を上回る資金を得ることができ、建設計画を進めることとなった
10月15日『大阪音楽界の思い出』刊行
創立60周年記念出版として、創立者永井幸次の遺稿『来し方八十年』よりの抜粋、および学内外の大阪の音楽関係者33名からの寄稿をまとめた随筆集を発行。本学の歴史とともに大阪の音楽史を伝える内容になっており、創立60周年祝賀会の参会者に贈った
大学・幸楽会共催による祝賀会が盛大に催され、来賓、大学・高校教職員、幸楽会員ほか本学関係者、保護者ならびに各界有識者など約500名が参集。朝比奈隆ら永年勤続者22名に表彰状、水川学長ら功労者5名に感謝状を贈った
祝賀会で挨拶する水川学長
祝賀パーティー
管アンサンブルはこれまでもプログラムにあったが、アンサンブルを重視するという意味から、第8回、第9回タイトルに“アンサンブル”が加えられた
創立60周年を祝い、教員の橋口武仁が作詞、水谷一郎が作曲を担当して新たな合唱曲を創作。第二部で谷川勝巳教員指揮、23名の合奏、97名の女声合唱、横井輝男校長のバリトン独唱により演奏した。《わたげ》と名づけられたその曲は、音楽を志して集った生徒たちを綿毛になぞらえ、校史を重ねた四季を経て、やがて逞しく大空を舞う様を表している
この年のテーマは「夢」。フォークダンスなどを含む前夜祭に始まり、1日は体育祭、2日からは様々な公演が行われ、オペラ部はメノッティ《電話》を上演、後夜祭のファイヤーストームで閉幕した
11月5日 ロバート・ノーブル(Hr)/ジョン・ウォーリス(Tp)/エリック・クリース(Tb)金管楽器特別講義
11月11日 豊中市民に贈る特別演奏会(豊中市民会館)
創立60周年記念行事の一つとして、豊中市ならびに豊中市教育委員会の協賛で開催。宮本政雄教員指揮、本学管弦楽団、林誠教員が出演して、チャイコフスキー《交響曲第5番》やオペラアリアなどを演奏。豊中の地に移転して21年、同市民への感謝を込め、入場無料とした
11月27日 第18回定期演奏会(フェスティバルホール)
演奏曲はすべて本学教員の作品によるもので、景山伸夫、近藤圭、大栗裕の新作を披露。水川学長自らも短歌を詠み、プログラムの挨拶文には「60周年を記念として、本学の教育目標の『創造』の結実したものであります」と述べている
創立60周年記念の本学管弦楽団特別演奏会として松山、今治で2公演、中学生のための音楽教室も2回行った
創立60周年記念事業を進める中で、教職員間の意思疎通、親睦を図るために学園報発刊の意見が上がり、職員が中心となって初の学園報を創刊。年4回発行、題字は水川学長の筆による
創立60周年──「創造」の結実 創立50周年に、亡き永井幸次の跡を受けて第二代学長となった水川が打ち出した教育目標は、音楽芸術の「修練・研究・創造」であった。経ること10年、創立60周年を記念した定期演奏会では、高校、大学ともにその「創造」の結実を披露すべく、いずれも本学教員の作品を発表することとなった。 10月30日に毎日ホールで開催された付属音楽高等学校の第19回定期演奏会では、創立60周年の慶事を有意義なものにしようと考え、自分たちで独創性のある合唱曲を演奏しようということになった。橋口武仁、水谷一郎両教員に作詞、作曲を委嘱。そうして完成されたのが女声合唱《わたげ》である。「バリトン・ソロを伴う女声合唱とシンセサイザー、ハープおよび弦楽器のために」という副題がつけられており、校長自らソロを歌い、谷川勝巳教員の指揮で、高校の総力を結集して演奏を行った。この作品はレコード化もされ、形のあるものとして残されることとなった。 一方、11月27日にフェスティバルホールで行われた大学の第18回定期演奏会は全曲が本学教員の新作という大変意欲的なプログラムであった。これは1972年(昭和47年)の日中国交正常化を受けて、次は中華人民共和国への演奏旅行を行い、中国との国際親善、音楽教育機関との交流を図ることを創立60周年記念事業の一つとしようと、その時の演奏曲として準備していたものであった。しかし、時の国際情勢からそれはかなわず、この定期演奏会で発表することにしたのである。日中友好平和条約が批准されるのは、3年後の1978年(昭和53年)のことであった。以後、中国からの視察団は度々受け入れているが、本学から中国への演奏旅行はまだ一度も行われていない。 この時発表された作品を見てみると、景山伸夫は《3台のピアノによる祝典音楽》について「創成の苦しみや困難を克服して今日に至る歴史の推移と、未来への発展を曲全体の流れの中に表現してみようと思った」と本学の過去から未来に想いを馳せた作曲意図を記している。また、近藤圭は《日本の心》と題し、邦楽器と洋楽器の異質な音の組み合わせで実験作を試み、水川学長が二首の短歌を詠んだ。和洋音楽の学府たる本学ならではの作品といえる。そして大栗裕の《春江花月夜》はまさに中国を意識した、1,200年前の張若虚の長詩によるカンタータで、テノールの林誠と300名の大合唱団が歌った。 創立から60年、中国演奏旅行は幻となったが、修練、研究を積み重ねた創造の結実は確かな手応えとして残せたのではないだろうか。 |
関西音楽の歴史
プログラムより
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に同行しての初来日
4月7日~28日 第18回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
外来の団体による公演が皆無であったが、当フェスティバルに5回目の登場となったアレクシス・ワイセンベルク(Pf)、2年振り2度目の出演となったモーリス・アンドレ(Tp)、そして初来日のニコライ・ゲッダ(Ten)とテレサ・ベルガンサ(Mez)、といった外来一流アーティストたちの来演が当回を華やかに彩った
エリック・フリードマン
ワイセンベルクと共演のN.ゲッタ(第20回記念プログラムより)
5月1日:伊丹市立文化会館
10日:京都会館第一ホール
ゾルタン・コチシュ、アンドラーシュ・シフと共に「ハンガリーの若手三羽烏」と呼ばれた。甘いマスクと瑞々しい演奏で女性の間ではアイドル並みの人気に。4月21日、5月1日はリサイタル、10日は山田一雄指揮京都市交響楽団との共演
東京における「ロシア=ソビエト音楽祭」への参加で来日した、ルドルフ・バルシャイ指揮モスクワ室内管弦楽団による初演。同コンビは1969年に当作品の世界初演を行っていた
15、16日:フェスティバルホール
17日:京都会館第一ホール
常任指揮者であったピエール・ブーレーズに率いられての初来日。同じく初来日したサー・チャールズ・グローヴズもタクトをとった
同歌劇場史上初の海外引越し公演。指揮者としてリチャード・ボニング等が同行した。《椿姫》《ラ・ボエーム》《カルメン》を上演。ジョン・サザーランド、フランコ・コレッリ、マリリン・ホーン等の歌唱が舞台を彩った
7月1日:フェスティバルホール
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団に同行しての初来日。第30代トーマスカントルのハンス=ヨアヒム・ロッチュの指揮により、同合唱団縁のJ.S.バッハの作品から6月29日は《ヨハネ受難曲》、7月1日は《マタイ受難曲》を演奏
スイス、オーストリア、イタリア、西ドイツ、オランダで全20公演が行われた。指揮は朝比奈隆(17公演)、秋山和慶(3公演)。独奏者として内田光子(Pf)、朝比奈千足(Cl)、ネルソン・フレイレ(Pf)が共演
団名はラテン語で「黄金の楽団」の意。古楽器による室内オーケストラの先駆的存在であった。来日メンバーとして有田正広(Fl)が名を連ねた
1970年のハンガリー放送主催によるベートーヴェン・ピアノコンクールの覇者。近年は指揮者としても活躍
11月 大阪コレギウム・ムジクム創設
バロック音楽の演奏と研究を目的とする演奏団体として当間修一が設立。大阪を拠点に、オルガン音楽を含めた器楽と合唱の統合された演奏活動を展開
17日:東京カテドラル聖マリア大聖堂
教会音楽シリーズ第17回公演にて初演。17日は教会音楽シリーズ東京特別公演として行われた
プログラムより
9日:フェスティバルホール
ロンドン交響楽団のソリストとして同行。ピアニストとしての初来日であった。チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第1番》を演奏
大阪フィルハーモニー交響楽団 初のヨーロッパ・ツアー 朝比奈隆率いる大阪フィルハーモニー交響楽団は1971年(昭和46年)11月に韓国のソウルを訪れ、初の海外公演を行った。そして同団は1975年(昭和50年)10月、約1カ月にわたる初のヨーロッパ・ツアーを実現する。このツアーはその3年前、スイスのモントルー音楽祭(現・モントルー=ヴヴェイ音楽祭)の第30回記念に招聘されたことが大きなきっかけであったという。しかし当時、第1次オイル・ショックの影響により関西の景気は低迷、スポンサーの関西財界も難色を示し、楽団は公演資金工面に難渋する。公的補助はあったものの、計画そのものが危ぶまれる事態に。こういった状況の中、大阪フィルの永年のファンらが「大阪フィルをヨーロッパへ送る会」を結成し地道な募金運動を展開。マスコミの報道等もありこの運動は一気に高まり、老若男女を問わずあらゆる市民層からの多額の寄付が集まることとなった。朝比奈と大阪フィルが如何に市民に愛されていたかを物語るエピソードである。 またツアーの2カ月前の8月18日には、公演資金を募る事業の一環として「大阪フィルをヨーロッパへ送る演奏会」がフェスティバルホールで行われ、大阪フィルを朝比奈隆と外山雄三が指揮、大阪府音楽団と大阪市音楽団が賛助出演した。さらには桂米朝が特別出演し、大阪フィルを指揮。ビゼーの《カルメン前奏曲》等を披露して会場を大いに盛り上げたのも話題となった。こうして一行は9月29日に大阪を出発。10月2日、スイスのラ・ショー=ド=フォンを皮切りに、オーストリア、イタリア、オランダ、そして当時西ドイツのリューベックにおける27日の公演を最終とした全5カ国20公演という大規模なツアーを行い、10月31日に大阪に帰着した。 このヨーロッパ・ツアーには指揮者として朝比奈隆の他、秋山和慶が参加。独奏者として内田光子、朝比奈千足、そしてネルソン・フレイレが共演している。各奏者が披露した主な演目は下記の通りである。 |
朝比奈隆 | ベートーヴェン シューマン ブルックナー シベリウス 大栗裕 |
《交響曲第3番》 《交響曲第4番》 《交響曲第7番》 《交響曲第2番》 《大阪俗謡による幻想曲》 |
秋山和慶 | フランク チャイコフスキー |
《交響曲》 《交響曲第5番》 |
内田光子 | ショパン シューマン |
《ピアノ協奏曲第1番》 《ピアノ協奏曲》 |
朝比奈千足 | モーツァルト ウェーバー |
《クラリネット協奏曲》 《クラリネット協奏曲第2番》 |
ネルソン・フレイレ | シューマン | 《ピアノ協奏曲》 |
「大阪フィルハーモニー交響楽団のメンバーは、まれに見る充実した、
全く文句のつけようのない豊かな響きで演奏し、しかも細かな音のニュアンスをえがき分け、さらにその演奏は精緻を極めたものであった」(ウィーン:10月15日)
「大阪フィルハーモニーは楽団として羨むべき若さを持ち、その平均年令からは演奏する喜び、感動の可能性が感じられた。信じられぬ程のダイナミズム、ヨーロッパ音楽の深い理解と体得が聞きとられた」
(ヴィルヘルムスハーフェン:10月27日)
また朝比奈の指揮に関しては、
「朝比奈のシューマンはむしろブラームス、或いはブルックナーに近いもの」(バーゼル国民新聞:10月11日)
「ベートーヴェンの交響曲が日本で高い尊敬をうけていることは周知の事実である。
朝比奈の解釈の裡には美神(ミューズ)への献身のような姿勢が感じられた」(ターゲスシュピーゲル紙:10月26日)
「厳格に出来る限りテンポの揺れを避けて驚くベく統制のとれたオーケストラの演奏をいささかも妨げることなく指揮した」
(ベルリン朝報:10月26日)
等、その演奏特質を確実に捉えた評となっている(上記新聞評は『大阪フィルハーモニー交響楽団ヨーロッパ演奏旅行1975』より引用)。
またこのツアーで特筆すべきは、10月12日にオーストリアのリンツで行われた公演であろう。朝比奈の指揮により、ブルックナーの《交響曲第7番》が作曲者自身の眠る聖フロリアン聖堂で奉納演奏され、豊かな残響に伴われた奇跡的なライヴ録音として残されることとなった(日本ビクター収録)。なお当公演にはブルックナー研究家のレオポルト・ノヴァークも来席している。
団名に“大阪”を冠するオーケストラが、官民らの大いなる期待を背負って挙行したこのヨーロッパ・ツアーは、1970年(昭和45年)の万国博で国際的な知名度を高めた大阪の、その文化の一使者たる責務を担った極めて重要な公演であった。この後大阪フィルは、1980年(昭和55年)4月に北米ツアー、1986年(昭和61年)10月には第2回目のヨーロッパ・ツアー、そして1992年(平成4年)10月に第3回目となるヨーロッパ・ツアーを行っている。