1956年~1965年
1956年(昭和31年)
大阪音楽大学の歴史
モーツァルト生誕二百年祭記念公演に、本学学生が関西歌劇団合唱部とともに《鎮魂ミサ曲K.626》を歌った
第三期工事となるスタジオ兼講堂が関西交響楽協会との共同出資により完成した
正門を入ってすぐ右手、現在のぱうぜの位置にあった
プログラム表紙
朝比奈隆指揮・関西交響楽団・新日本放送主催
本学学生がグリーン・エコー、関西歌劇団合唱部とともに第九の合唱を行った
大阪音楽短期大学、大阪音楽高等学校と東京芸術大学同声会大阪支部の共催で、永井学長の音楽教育60年を祝う演奏会が行われた。6千人の観客を集め、本学学生・教員はじめ、大阪学芸大学や相愛短期大学の音楽科学生、関西交響楽団など数百名の出演者による大阪音楽界あげての祝賀であった
朝比奈隆指揮、本学学生が関西歌劇団とともに合唱を行った
11月13~17日 演奏旅行(四国地方)
12月7日 短期大学・高等学校合同文化祭(労働会館)
短大の一部・二部、高校が初めて合同で文化祭を行った。演劇や短大一部生による「世界音楽の旅」の演奏、高校生による服部正《手古奈》、短大二部生によるサリヴァン《ミカド》のオペラ上演があった
現在も続く「幸楽会コンサート」の初回。出演者は昭和42年の第6回より大阪フィルハーモニー交響楽団と共演するようになり、のちに日本センチュリー交響楽団、本学ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団などとも共演している
第四期工事として、木造の1号館と2号館の間に鉄筋校舎が建設された。現在のA館中央部付近で、1階が事務室、2階が演出研究室、3階が楽器室となっていた。これで1号館と2号館はつながり、この鉄筋校舎から2号館までは本館と呼ばれるようになった
1号館(左)と2号館(右)の間に増設
完成した鉄筋校舎
スタジオ兼講堂の完成──プロとの共存 本学の講堂であり、関西交響楽団の練習場となるスタジオが完成した。同団を運営する関西交響楽協会との共同出資による建設は、両者の密接な関係があったからに他ならない。本学教員で理事の朝比奈隆は関西交響楽団の生みの親であり、当時水川理事長は同協会の専務理事でもあった。このときの事業部長でのちに事務局長となる野口幸助は本学の卒業生である。 練習場難に頭を抱えていた関西交響楽団にとって、専属の練習場を持つことはまさに悲願であった。そして本学にとっても、学生たちがプロのオーケストラの練習や演奏に間近にふれることができるという、この上ない理想的な教育環境を得ることとなった。さらに、本学学生はこれまでも関西交響楽団、関西歌劇団との共演の機会に恵まれていたが、これを機にますます共演を重ねていくことになる。当時の『音楽之友』や『ミュージック&バレエ』(現・『関西音楽新聞』)などの音楽専門誌に「関西ミュージック・センター」という言葉が見受けられるが、庄内への校地移転には本学とこの関響スタジオ、そしてさらに音楽幼稚園やホールの建設も行い、ここを関西の一大音楽拠点にしようという構想があったようである。 完成したクリーム色の鉄筋コンクリートの建物は、鉄骨アーチ型の屋根を持ち、カマボコのような外観をしていたという。スタジオ内部は吹き抜けで、窓のない完全防音となっており、温度調整及び換気装置が完備されていた。一部2階建てで、その2階部分には事務室のほか、録音室、指揮者室、楽譜室、関西歌劇団の衣裳庫があった。 2月15日、スタジオ落成式が関西交響楽協会専任理事としての水川理事長の挨拶で始まり、宮本政雄指揮のヴァーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》前奏曲、朝比奈隆指揮の大栗裕《管弦楽のための幻想曲》、関西歌劇団一同によるヴェルディ《椿姫》より乾杯の歌が演奏された。 本学は短期大学、高等学校ともに、ここで様々な演奏会や特別講義、オーケストラやコーラスなどの練習、実技試験や入学試験、式典などを行っていた。昭和35年4月に関西交響楽団の解散に伴い(翌月、大阪フィルハーモニー交響楽団として新発足)、本学がこのスタジオを買い取ることとなる。その費用捻出には非常に苦労したようだが、7月22日、本学の占有施設となり、「大阪音楽大学ホール」と改称する。 |
(昭和30年4月23日『ミュージック&バレエ』第13号)
昭和30年7月8日
第三期工事地鎮祭の永井学長
昭和31年2月15日
関響スタジオ落成披露式
指揮者室
楽譜室
関西歌劇団衣裳庫
昭和35年7月22日
大阪音楽大学ホールとなる
永井幸次音楽教育60年 1874年(明治7年)生まれの永井学長が1896年(明治29年)、東京音楽学校を卒業して静岡師範学校に奉職以来、音楽教育60年を数えるのを記念して、その功績を讃える演奏会が盛大に開催された。永井は静岡で4年余り勤めたのち、鳥取師範学校、神戸市立中宮小学校、大阪府立清水谷高等女学校を転任し、1915年(大正4年)に本学を創立した。60年間、永井が音楽教育者として歩んできた道はそのままわが国の洋楽発展の歴史であり、この演奏会当日の毎日新聞には「“生きている大阪の音楽史”といわれる人である」と紹介されている。 主催者である本学関係者、東京芸術大学同声会大阪支部の関係者をはじめ、大阪学芸大学及び相愛短期大学音楽科学生、関西交響楽団による演奏が行われ、会場の大阪府立体育館には6千人の人々がつめかけた。本学学生の永井幸次《菊》独唱で演奏会が始まったが、これは永井が自作の中でも最も愛した曲だといわれている。第二部の式典では「来し方ひとすじ 道芝床しき六拾年…」と、この日のために作られた安西冬衛作詞、野口源次郎作曲の《讃歌》がソリスト永井八重子、木村四郎とともに3大学200名の学生の大合唱によって捧げられた。 この演奏会に永井と親交の深かった山田耕筰は次のような祝辞を寄せている。「60年という長い歳月の間になめられた言語に絶するご苦労を偲び、われわれ後進が一切の私情を捨て、関西の楽壇のよりよい発展のため挺身努力することこそ先生に対する報恩の一途であることを深く信じ、それを今日の祝典に際して誓うものであります」(昭和32年11月20日『関西芸術』第66号) |
昭和3年清水谷高等女学校音楽部の指導
大阪音楽学校での授業
(撮影年不詳)
会場となった大阪府立体育館
第二部の式典
湯前純親より祝辞を受ける永井学長
謝辞を述べる永井学長
3大学200名の学生による《讃歌》
関西交響楽団の演奏
記念撮影
関西音楽の歴史
京都公演における演奏風景
(昭和31年1月11日 毎日新聞)
10、11日:宝塚大劇場
ポピュラークラシックの先駆。大人気を呼び、あわただしく追加公演が行われた
ヴァイオリンの辻久子(本賞)、ピアノの内田朎子(特別賞)、声楽の樋本栄(新人賞)が受賞。関西人による関西での演奏に本賞が授与されるのは辻久子が初めてであった
2月15日 豊中市野田の大阪音楽短期大学内に関響スタジオ新設
関西交響楽団が初めて専属のスタジオを持ち、落成式が行われた
3月13、14日 関西歌劇団創作歌劇第二回公演 芝祐久《マンドリンを弾く男》/石桁真礼生《卒塔婆小町》(産経会館)
朝比奈隆指揮、武智鉄二演出、関西交響楽団、関西歌劇団合唱部
17日:同会場
18日:弥栄会館
世界的に著名な室内オーケストラの来日はこれが初めてであった
3月20日 近鉄あやめ池遊園地に「あやめ池円型大劇場」開場
日本初の円型劇場で、のちにOSKの拠点となる
朝比奈隆指揮 武智鉄二演出 関西交響楽団 関西歌劇団合唱部
演出家武智と松竹との対立により、一昨年秋に《蝶々夫人》公演が中止となって以来の念願の東京進出であった。6千人の観客を集め、大きな人気を呼んだ
第一回定期演奏会には約4500名の聴衆がつめかけた((公財)京都市音楽文化振興財団提供『京都市交響楽団30年史』より)
市民の情操向上に資し、楽団自体を文化財として創造することを目的に、全国初の公共団体によるオーケストラとして誕生(現在は京都市音楽芸術文化振興財団が運営)。初代指揮者はカール・チュリウス。6月19日に円山音楽堂で第一回定期演奏会が開催された
15、21日:宝塚大劇場
このときは51人と約半数のメンバーの来日であったが、つめかけた聴衆は大興奮であったという。作曲家としても名高いパウル・ヒンデミット指揮による関西での最初の演奏曲はメンデルスゾーン序曲《フィンガルの洞窟》
3年前の初の外遊において親交を深めたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の招聘により、渡欧することになった朝比奈隆の壮行会。在阪の音楽団体が結集した
近衛管弦楽団から日本フィルハーモニー交響楽団への発展解消に際して渡辺暁雄が初代常任指揮者となり、近衛秀麿は朝日放送(Asahi Broadcasting Corporation)と契約して新たにABC交響楽団を率いることになった
6月9日 ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団関西初公演(宝塚大劇場)
10日:同劇場 14日:大阪府立体育館
7月 「もはや『戦後』ではない」(『経済白書 昭和31年度』)
戦後復興期の終わりに釘刺した言葉だが、未来志向の解放感に通じて流行語となった
10月23~27日 第1回イタリア歌劇団公演(宝塚大劇場)
《アイーダ》《フィガロの結婚》《ファルスタッフ》
ヴィットリオ・グイ、ニノ・ヴェルキ指揮 ブルーノ・ノフリ演出 NHK交響楽団 東京放送合唱団 二期会合唱団 服部・島田バレエ団
プログラム表紙(見開き)
大阪テレビ放送開始大演奏会(大阪歌舞伎座)
関西交響楽団・東京交響楽団・ABC交響楽団の合同演奏で歌う笹田和子(『音楽文化』昭和32年1月号)
西日本初の民間テレビ局が開局した。昭和33年には関西テレビ、読売テレビが相次いで設立され、昭和34年には朝日放送が大阪テレビを合併。共同出資していた新日本放送(現・毎日放送)も独自にテレビ放送を開始し、現在の在阪民放4局が出揃った
シューマンの没後100年を記念して、前年のモーツァルト生誕200年記念連続演奏会同様、大原総一郎倉敷レイヨン社長の「特定の作曲家の作品を連続して聴くことが理解を深めるための最良の道」という提唱により実現した。ピアノ、交響曲、協奏曲、声楽曲と4夜にわたり開催された
イタリア歌劇団来日公演 NHKが招聘したイタリア歌劇団とは、そのような名前の歌劇団が存在するわけではなく、ミラノのスカラ座、ローマの国立歌劇場、ナポリのサン・カルロ劇場で直近の2シーズンに主役を演じた歌手、そしてこれらの劇場の指揮者で編成され、全体的にローマ歌劇場の色が濃くなったために「イタリア歌劇団」と名付けられたという。1956年(昭和31年)から1976年(昭和51年)の20年間に計8回の公演が行われており、初回は歌手17名、指揮、演出、スタッフ等6名の総勢23名が来日した。 いわゆる引越し公演とは違って、主要キャストと指揮者、演出家、装置・衣裳のデザインはイタリア人、オーケストラ、合唱、バレエ、端役とエキストラ、装置・衣裳の製作は日本人、と日伊合同で上演された。これは当時の外貨持ち出し額が厳密に制限されていたため、すべてをイタリアから招くというわけにはいかなかったからである。しかしこの共同作業を通じて日本のオペラ界は多くを学び、その後の発展の礎となった。 東京、大阪、神戸の3都市で18公演と4回の演奏会が開催されたが、23年ぶりの海外からのオペラ公演ということも手伝って、イタリア歌劇団来日公演は大変な評判を呼んだ。演目は《アイーダ》《フィガロの結婚》《トスカ》《ファルスタッフ》であったが、大阪ではトスカを歌うはずであった歌手の体調不良により、《トスカ》は上演されることなく、《ファルスタッフ》に変更された。ラジオやテレビを通じた生中継、後に再放送も行われたために、全国的な反響を呼び、一気にオペラファンを増大させた。またこの放送の際に、当時まだ珍しかった字幕スーパーを入れたところ、内容がよくわかると大成功し、舞台とはまた違った、テレビでオペラを鑑賞する長所となった。 本国イタリアでも望めないような夢の顔ぶれが日本で一堂に会すとあって、海外から駆けつけるオペラファンもいたという。のちに三大テノールとして名を馳せる、パヴァロッティ、カレーラス、ドミンゴが初来日したのもイタリア歌劇団公演で、それぞれ第6回、第7回、第8回に出演している。大阪公演は舞台装置の運搬が大変などの理由で、残念ながら第4回で打ち切られた。 通称「イタオペ」の名で親しまれたこの公演について、音楽評論家の三善清達は「日本の音楽界に与えたカルチャーショックは、黒船に匹敵する」と述べているが、オペラは総合芸術だけに、日本の音楽界はもちろん、多方面の芸術文化にこの上ない影響を及ぼしたのである。 |
チケット
《トスカ》は《ファルスタッフ》に変更された
勢ぞろいしたイタリア歌劇団(昭和31年9月29日 毎日新聞夕刊)
《ファルスタッフ》終幕(昭和31年10月30日 朝日新聞夕刊)
《フィガロの結婚》第三幕(昭和31年10月30日 朝日新聞夕刊)
合唱ブーム 1950年代後半は、ウィーン少年合唱団、ドン・コサック合唱団、パリ「木の十字架」少年合唱団など海外からの合唱団の来訪が相次いだ。全日本合唱連盟の調査によれば、愛好家数40万人であり、朝日新聞は、職場で熱心に行われる合唱活動を報じる。また、うた声運動の衰微を指摘し、実践に関してもがなり立てる歌唱が姿をひそめ、音楽性を求める傾向が強くなったと伝える。 (以下は画像はその昭和31年12月1日付 朝日新聞の「街村に高まるハーモニー 歌う40万人・合唱ブーム」記事より) |
6千の合唱ファンで埋まった東京都体育館
御堂筋をバックに合唱する大阪の住友金属グループ合唱団
市電の中で歌う大阪市交通局合唱団(霞町車庫)
朝比奈隆の海外演奏旅行 朝比奈隆が第2回海外演奏旅行を行い、ベルリン・ウィーン・スウェーデンで公演した。今回はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の招聘によるもので、同オーケストラを指揮するとともに、ウィーン国際音楽学術会議に出席して日本の楽団の現状を報告し、併せて邦人作品を紹介することにもなっていた。このとき演奏されたのが、大栗裕《大阪俗謡による幻想曲》と芥川也寸志《弦楽合奏のための三楽章》である。 西洋音楽の本場でどのように評価されたのかということは誰しも興味を持つところであるが、当時もそうだったようで、帰国後8月の朝比奈隆帰朝特別演奏会のプログラムにベルリンの新聞に掲載された演奏会評がまとめて特集されている。興味深い批評の言葉をいくつか拾ってみたい。(以下、原文ママ) アーベント紙 しかしこの点でもっとも強烈なのは芥川の「弦楽合奏の為の三楽章」である。これもまた新しい日本音楽を興味深くうかゞわせるに足るものである。 まだ50歳に満たぬ朝比奈は、能力、意志、実行力に満ちた極めて卓越した指揮者である。ベートーヴェンの第4交響曲の演奏は、きわだつたものであり、あますところのないものであつた。(ローター・バンド) デル・クリーエ紙 痩身端正の紳士がベルリン音楽院ホールの檀上に立つている。詩人松尾芭蕉の国、もつて正確に云えば陽昇る国は遠く大阪から来訪の指揮者朝比奈隆である。聞くところによれば日本の音楽界では中心的な地位をしめているであらうところの朝比奈はドイツにおけるありし日のフルトヴェングラーにも比すべきものらしいが音楽院のホールでのベルリン・フィルハーモニーの試演の際の朝比奈の指揮をみればうなずけないことではない ――中略―― これよりも強い印象を残したものはベルリン・フィルハーモニー・オーケストラに捧げられた大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」である導入部のレントオは風の息吹を感じさせ嘆きに満ちた声が湧き起つては形なきものへと消えてゆく。ドラは陰うつな魔術の響きを持つて迫り、多彩なメロディー・フロスケルが奏でられる。要するにこれは異国風な描写力にみちた音楽であり、ヨーロッパ人もその暗示的な迫力から免れる事は出来ないし、又それは西洋的な音楽と日本的な音楽との綜合を目指すだけでなく、それを実現する事も可能であるとの明白な証拠にも似るものである。(I・コンチエンロイター) テレグラフ紙 日本人が欧州の音楽をかくも巾広く解釈し演奏したことは、心理的に実に興味深くかつ意味深いことである。 ベルリン・フィルハーモニーの音楽院講堂の演奏会は種々の点でこの事実を立証した。客演指揮者、朝比奈はベートーヴェンの第4交響曲で演奏を終えたが、彼の指揮者としての優れた技術を輝かく認めさせたのみならず、実に明白な指揮でもあった。特にベートーヴェンの解釈はそれに刻印を押した如きものであつた。 彼は運動的な快い弾力、強い情熱そして、堂々たる人格が示す精力とで、オーケストラを巧みに導いて行つた。(カ―ル・レーベク) なお、大栗裕は《大阪俗謡による幻想曲について》の初演にことよせて、「私は新しい人々から保守反動と呼ばれることも敢えて辞さない古臭い陳腐な祭囃子を使ったことに私は私のささやかなレジスタンスと、日本の伝統音楽に対する深い尊敬と愛情をも含めているのだ」と語る(『関西芸術』第48号)。また、外遊は大成功し、朝比奈隆は来秋から毎年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮を行うことになった。 |
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とリハーサルをする朝比奈(昭和31年8月20日 朝比奈隆帰朝特別演奏会プログラムより)
演奏会の後、ベルリン高等音楽院院長ボリス・ブラッハーに1953年に日本で死去したレオニード・クロイツァーのデスマスクを贈呈する朝比奈(昭和31年8月20日 朝比奈隆帰朝特別演奏会プログラムより)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する朝比奈(昭和32年10月8日 ベルリン高等音楽院ホール)
スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団演奏会(昭和35年3月3、4日 会場不明)
大阪音楽大学の歴史
『音楽文化』1957年1月号(音楽文化協会発行)
前年の文化祭で短大二部生が上演したサリヴァン《ミカド》をそのままのキャスト・スタッフで再演した。のちに本学教員となる横田浩和も出演している
第五期工事にあたる高等学校校舎が校庭西側に完成する。6教室あり、これを機に総定員を240名に倍増。Aコース(専攻別)、Bコース(初心者向け)に分け、昭和32年度は各50名を募集。世間一般の音楽レベル向上により、5年後にBコースは廃止する
手前が高等学校校舎
高等学校の合格発表
(昭和32年頃)
3月22日に設置認可がおりた。翌年の四年制大学設立までのわずか1年の設置であった
5月4日 児童音楽学園開設 園長小橋潔
幼児からの早期音感教育は永井学長の念願であった。幼稚科・小学科・中学科を設け、毎週土曜日の午後に開講、ソルフェージュ、楽典、合唱、作曲理論、器楽などを教えた。当初よりグレード制をとっており、中学科には付属音楽高校への受験コースも設置していた。昭和41年に付属音楽学園と改称し、平成15年に現在の付属音楽院が開設される
13、14日:甲子園球場 15日:大阪球場
朝比奈隆指揮 関西歌劇団 関西交響楽団 関西歌劇団合唱部 大阪・神戸労音有志
本学学生が大阪音楽短期大学合唱団として参加した
3号館(中央)体育館(左)図書館(右)
第六期工事の3号館は、現在のC 館付近に完成。1階に練習室、2階に研究室が作られ、両隣には体育館、図書館も建設された
「多年音楽教育に貢献し、その功績顕著なため」として、永井学長に藍綬褒章が授与された。このとき永井は83歳であったが、受章の喜びよりも本学を四年制大学に昇格させることに余生のエネルギーのすべてを捧げたいと語っていたという
永井学長受賞の藍綬褒章
村山義温主審(東京薬科大学学長)ら6名を永井学長、水川理事長、朝比奈理事、久保田理事ら9名が出迎えた。スタジオ、楽器庫、レコード室、音響研究室、音声研究室などの音楽大学として特色ある施設は一行の関心を大いに集めたという
12月17日 野外演奏堂完成
3号館前に水川理事長考案のビニール製のドーム型野外演奏堂が完成した。これを記念して、学生たち100名がヘンデルの《ハレルヤコーラス》を演奏した。その時の模様を『The Japan Times』が「日本初のビニール製音楽堂が大阪音楽短期大学に作られた」と報じている
2週間ほどで組み立てられたという
1957年12月17日 The Japan Timesより
本学学生、教員が大津労音の例会に招かれ、合唱やピアノ独奏などを行った
前代未聞のオペラ体験 野球場でオペラという、わが国初の試みに本学の学生たちが参加した。この奇想天外なアイデアを実現したのは、オペラに歌舞伎や能を取り入れた斬新な演出で知られる武智鉄二である。武智鉄二後援会と大阪・神戸労音の共催で、甲子園球場と大阪球場を舞台に、空前のスペクタクルオペラという謳い文句で行われた。演目はヴェルデイ《アイーダ》。ちょうど前年にイタリア歌劇団の《アイーダ》公演があり、宝塚大劇場に300人もの出演者が登場したことで、関西でも広く知られるようになっていた。これを野外で上演したらどうなるか、やるからには本場ローマの野外劇場を再現したいという武智の演出意図があったようである。 5千坪のグラウンド全体を使って、長く横たえたビニールの布をナイル河に見立てたり、勅使河原蒼風によるオブジェを置いてエジプトを演出した。有名な凱旋シーンでは阪神パークやみさき公園、阪神競馬場の協力を得て、本物の象やラクダ、馬車などを登場させ、話題になった。演奏は朝比奈隆指揮の関西交響楽団、関西歌劇団で、合唱の一員として本学の学生が出演した。音が拡散するということで、演奏はあらかじめ録音しておいたものを30数台のスピーカーで場内に流し、出演者たちはそれに合わせて演技を行った。 数多くのバレエ、ダンスの団体、エキストラを含め、出演者数のべ700とも800人ともいわれ、800万円もの総経費をかけて行われた、かつてない大がかりなオペラ公演であった。大阪・神戸の労音の例会ということもあり、3日間で7万人の観客を集めたという。しかし、舞台が広すぎ、客席との距離もありすぎて、武智が意図したような迫力ある公演とはならなかったようである。ただ、学生たちはもちろん、指揮者の朝比奈隆をはじめ、関西歌劇団団員として出演していたソリストの桂斗伎子、竹内光男、横井輝男、演出助手としてメガホンを片手に奮闘した桂直久ら本学教員たちにとっても、貴重な体験となったはずである。 |
甲子園球場での公演(『関西歌劇団第23回定期公演プログラム』より)
翌日からまた雨が降ったそうである
再生音での公演であった*
武智鉄二(右)と勅使川原蒼風(左)*
スコアボードに15mのスフィンクス像*
多くの観客がつめかけた*
関西音楽の歴史
朝日新聞社の主催による音楽教室で、活発な支部活動が行われた
3月26、27日 関西歌劇団第三回創作歌劇公演 大栗裕《夫婦善哉》(産経会館)
28日:弥栄会館
29日:神戸新聞会館
4月12、13日:宝塚大劇場
朝比奈隆指揮、武智鉄二演出、関西交響楽団
織田作之助原作の大阪方言によるオペラという斬新な試みは大評判となった
記念すべき第100回目の演奏曲はヴァーグナー《リエンツィ》序曲とベートーヴェン《交響曲第9番》であった
諸井誠と黛敏郎。ともに20代後半であった
電子音楽とミュージック・コンクレートの会。関西における最初の前衛音楽のレクチャーコンサート
29日:弥栄会館
30日:大阪府立体育館
アメリカから指揮者のジョン・バーネットが来日し、ABC交響楽団が弦セクション、米極東軍選抜メンバーが管打セクションを担当した混成オーケストラを指揮して、関西で演奏会が開催された
7月13~15日 武智鉄二後援会第2回公演、野外オペラ、ヴェルディ《アイーダ》
13、14日:甲子園球場
15日:大阪球場
朝比奈隆指揮 武智鉄二演出 関西歌劇団 関西交響楽団 関西歌劇団合唱部 大阪音楽短期大学合唱団 大阪・神戸労音有志
野球場でオペラを上演するという前代未聞の試みが演出家の武智鉄二後援会と大阪・神戸労音の主催で行われた。ローマの野外劇場を再現するという武智の意図で、グラウンド全体を舞台に見立て、本物の象、ラクダ、馬車なども登場。演奏は音が拡散するため、全て事前に録音したものを流し、それに合わせて出演者が演技を行った。労音の例会ということもあり、3日間で7万人の観客が集まったという
甲子園球場での公演(『毎日グラフ』昭和32年7月28日号)
レぺシンスカヤをはじめとする一行50名という大所帯のバレエ団が来日するのは初めてのことであった
関西企業のコーラス部やオーケストラなど35の団体が出演。山田耕筰、長井斉などが講評にあたった
《羽》の一場面(出典不明)
朝比奈隆・宮本政雄指揮 武智鉄二演出 関西交響楽団 関西歌劇団合唱部
《杜子春》は交響詩として作曲され、芥川龍之介の原作を朗読しながら演奏するというその構成に対して、関西歌劇団が大阪市民文化賞を受賞した
16日:同会場 17日:神戸国際会館
日独文化協定記念として110名のフルメンバーが来日した。指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。記念すべき関西第一夜はシューベルト《未完成》とベートーヴェン《英雄》というプログラムであった
宝塚公演のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(昭和32年11月16日 毎日新聞夕刊)
指揮をするカラヤン(昭和32年11月16日 読売新聞)
広告は世相を映す(1) コンサートのプログラムやチラシにはたいてい広告が掲載されているが、少し昔のプログラムを開くと、現在とかなり違った世界が展開されている。以下の画像2点は1957年のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団来日時に作られたプログラムに掲載されていたもので、画像右はナショナルのオーディオ装置の広告。立派なレコードプレーヤーを前に居間にくつろぐ若い家族の日常が切り取られている。当時の理想の生活である。画像左は当時のレコード広告。往年の名指揮者がずらりと並んでいる。アルトゥール・ニキシュやエーリヒ・クライバーもある。 |
大阪音楽大学の歴史
大阪音楽大学設置認可(音楽学部入学定員65名=作曲学科5名、声楽学科30名、器楽学科30名)
1月28日 中学校・高等学校招待音楽会(本学スタジオ)
第二部では特別出演の関西歌劇団が武智鉄二演出、朝比奈隆指揮の関西交響楽団の演奏で、大栗裕《赤い陣羽織》を上演した
野外音楽堂での実況風景
4月1日 大阪音楽大学開学 学長永井幸次(短期大学学長併任、付属音楽高等学校校長兼任
1・2・3年次を開設。短期大学第二部は併置
大阪音楽高等学校を大阪音楽大学付属音楽高等学校と名称変更
関西で唯一の男女共学の四年制音楽単科大学が誕生した
大阪国際芸術祭出演のため来日中のメトロポリタン歌劇場専属歌手のジャン・ピアースによる特別講義を行った
5月2日 中国歌舞団来校
同上芸術祭参加の中国歌舞団一行31名が来校し、学内を見学。本学学生の歓迎演奏会ののち、歌舞団の演奏もあり、芸術交歓を行った
J.ピアース声楽特別講義
中国歌舞団の演奏
9月18日 大学の教職課程認定(高等学校教諭二級普通免許状=音楽、中学校教諭一級普通免許状=音楽)
10月 庄内学舎4号館(木造2階建)完成
第七期工事によって現在の中庭付近に4号館が完成。特別講義室、ソルフェージュ教室、レッスン室などが作られた。これをもって4年にわたる事業計画はひとまず完了した
工事中の4号館
『心の糧』(大阪音楽大学楽友会出版部)
永井学長が学生たちに建学の精神や自身の希望を伝えるために書き与えたもので、人として、また音楽家になるための心構え、健康法などを綴っている
永井学長の長年の音楽教育における功績を讃えて胸像が建立され、その除幕式が行われた。寄贈発起人は代表の山田耕筰以下99名。東京芸術大学同声会大阪支部有志87名、大阪府知事、大阪市長ほか16団体が協賛した。胸像は大西徹山(二科会)の彫刻、榊莫山(奎星会)の揮毫。校庭で除幕ののち、スタジオ内で式典を行い、体育館で祝賀パーティーが行われた
胸像を制作中の大西徹山
本館前に設置された胸像と永井学長
前ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席チェリストで、このときベルリン高等音楽学院教授であったドルナーは楽しい解説も交え、なごやかな演奏会であったという
10月21日 大学昇格記念式典・演奏会(フェスティバルホール)★
この式典は従来の堅苦しい形式のものではなく、映画を使った斬新かつ短時間で内容のあるものだったと当時話題になった。この時の演奏会が本学の第1回定期演奏会となる
※こちらから式典の際に放映した映画全3本をご覧になれます
一般の観客に加え、大阪市内23中学校の団体鑑賞があり、超満員になったという
11月13~18日 演奏旅行(広島、山口、福岡、熊本県)
大学昇格後初の演奏旅行は5泊6日と長旅であったが、各地で計12回も公演を行った。このとき初めて管弦楽団(宮本政雄指揮)が参加
昇格記念祭の最後に、高校・大学の文化祭が開催された。5日が高校の部、6日が大学の部で、それぞれオペラやオーケストラ、ジャズなどの演奏、日本舞踊や洋舞、演劇など盛りだくさんの内容であったが、高校の部で吹奏楽が演奏された。これが本学吹奏楽の始まりだったとされる
整えられた庄内校地 1954年(昭和29年)7月、永井学長が鍬を入れた地鎮祭から4年の歳月をかけて、七期に分けて行われた工事が1958年(昭和33年)10月に完了した。庄内の地に本館をはじめ、スタジオを含む1~4号館、高等学校校舎、野外音楽堂、体育館、図書館、食堂が整備された。前年秋にはまだ4号館が完成していなかったが、特色ある充実の施設は、訪れた文部省の大学設置委員たちも目を見張るものであった。 このあと1960年(昭和35年)末には唱歌教室、レッスン室などを含む5号館(木造2階建)もグラウンド北側に増設される。 |
講義室
学生控室(場所は不明)
声楽レッスン室
ピアノレッスン室
売店
食堂
レコード室
2号館(のち本館)2階
コーラス練習風景
オーケストラ練習風景
演出研究室
オペラ専攻の学生は仕舞の基礎も勉強
楽器室
音響研究室
体育館
図書館閲覧室(右奥が書庫)
図書館書庫
(昭和32年12月17日完成)
グラウンド
北東の堤から見た庄内校舎
(左が4号館)
念願の大学昇格 1954年(昭和29年)に着工した庄内校舎の整備も、第六期工事の3号館完成を目前にした1957年(昭和32年)9月、いよいよ機は熟したとして、四年制の大学設置申請書を文部省に提出することとなった。水川理事長ら幹部と職員が東京大阪間を何度も往復して書類の不備を訂正しつつ「大阪音楽大学」設立許可申請書を仕上げたという。印刷が出来上がったのが9月29日の夜半。提出締め切りの前夜であった。水川はそれを永井学長の机に積んで、「今夜一晩先生の机の上に置いて、先生の魂を入れて貰うんだよ」と指示したという。一夜明け、永井の魂が込められたその申請書は職員によって文部省へ提出された。 10月の書類審査、11月の実地審査を経て、翌年1958年(昭和33年)1月10日、ついに大学設置の認可が下りた。関西唯一の男女共学四年制の音楽単科大学がここに誕生した。全国では武蔵野音楽大学(1949年)、国立音楽大学(1950年)に次ぐ3校目であった。3月末をもって短期大学第一部と専攻科を廃止、一年修了生を大学二年次に、卒業生の一部を三年次に編入させたので、4月1日より一、二、三年が同時に開講することとなった。短期大学は第二部を基に併置し、高等学校は付属音楽高等学校と改称した。 学長永井が私財を投げ打って始めた寺子屋のような音楽学校から、味原に校舎を新設。音楽高等学校、短期大学と一歩ずつ前進し、さらなる発展を求めて庄内の地に充実した教育環境を作り上げ、ようやく念願の四年制大学へと昇格を果たした。創立から実に43年が経過しており、永井は84歳になっていた。しかし、まだ永井にとってこれで終わりではなかった。「これで何時死んでもいいかと思ったが、今では一日でも長生きをして、大学院を作りたいと思っている」と次なる目標を見据えていたのである。 |
専門教育の主な開講科目 | ||
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発起人代表の山田耕筰をはじめ多数来賓が参加して行われた。この胸像は当時、本館前に正門の方を向いて設置されていたが、永井は学生に向けて次のような言葉を送っている。
「学生諸子は毎日登校の都度、この胸像の前を通るとき、この胸像を偶像視しないで、各自今日の勉強に対する心構えは出来て居るかを反省して下さることを切望いたします」
制作中の胸像のモデルとなっている永井学長
大学・高校合同で行われていた
プログラム表紙
パン食い競争(撮影年不詳)
仮装行列は恒例の演目だったようである(撮影年不詳)
ダンス(撮影年不詳)
5日の高校の部ではスーザ《美中の美》、カリベール《十字勲章》序曲など、本学初の吹奏楽の演奏や服部正《手古奈》のオペラ上演があり、6日の大学の部ではスメタナ《売られた花嫁》とロンバーグ《ザ・ニュー・ムーン》の上演などがあった。
海外からの刺激 1958年(昭和33年)、「第1回大阪国際芸術祭」が開催され、海外から大勢の優れた演奏家たちが来阪した。このまたとない機会に、本学はこれらの演奏家を招き、積極的に特別講義を開催した。海外へ行って勉強することが現在ほど一般的ではなかったこの時期、来日中の著名な音楽家たちの教えを受けることができるのは大変貴重であり、学生のみならず教員にとっても多くのものを吸収することができたのである。 また、国際フェスティバルなどで来日するような一流音楽家たちの演奏会は入場料も高額であったが、本学は学生たちのために通常の3分の1~10分の1の低料金で聴くことができる「学生たちのための特別演奏会」を主催して、できるだけ多くの若い人たちが素晴らしい演奏にふれることのできる機会を提供した。これは大変好評だったようである。 |
民族歌曲のレコードと楽譜の寄贈を受ける
講義の後には学長室で講師と教員の座談会が持たれることが多かったが、質疑応答に熱が入りすぎて、予定時間をオーバーしてしまうこともあったという
関西音楽の歴史
4月2日 毎日ホールこけら落し
山田耕筰作曲・指揮で、東京交響楽団による《組曲風の祝典曲=寿式三番叟の印象による》が演奏された
山田耕筰による初練習風景(昭和33年2月9日 毎日新聞夕刊)
完成した毎日ホール内部(昭和33年3月28日 毎日新聞夕刊)
四ツ橋筋を挟んで朝日ビルディングの向かいに建てられた新朝日ビルディング内に位置する。補助席も含め3千余人を収容。開館披露には朝比奈隆指揮、関西交響楽団により、ベートーヴェン《献堂式序曲》、エルガー《威風堂々》等が演奏された
昭和33年4月3日 開館披露演奏会((公社)大阪フィルハーモニー協会提供『大阪フィルハーモニー交響楽団50年史』より)
完成したフェスティバルホール内部
関西芸術の活性化と外貨獲得を狙って開かれた東洋初の大規模な国際芸術祭であり、ニューヨーク・シティ・バレエ団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現・サンクトペテルブルク・フィルハーモニー 交響楽団)をはじめとする海外からの豪華な演奏家・演奏団体が公演を繰り広げた。文化交流の目的もあり、能や歌舞伎などの公演を行って、わが国の伝統文化を世界に紹介した。第2回より「大阪国際フェス ティバル」と改称される
プログラム口絵
プログラムより
7月8、9、10日 関西歌劇団特別公演 大栗裕《雉っ子物語》(神戸国際会館)
朝比奈隆指揮、中村信成演出、関西交響楽団、関西歌劇団合唱部
小中学生のための音楽鑑賞教育の一環として、関西歌劇団が2つの創作オペラを制作。神戸市教育委員会他の後援で上演
《さるかに合戦》初演
(関西歌劇団提供『関西歌劇団50年のあゆみ』より)
大阪青年会議所、関西交響楽協会、関西音楽人クラブ主催
在阪の音楽家たちが、自動車の警笛による交通騒音を低減するための市民運動が成功して音環境が改善されたことに感謝し、現場で直接実践にあたった自動車、電車の運転手と交通警察官等約3千名を招待して開催され
9月24日 団伊玖磨《夕鶴》(毎日ホール)
団伊玖磨指揮 岡倉士朗演出 東京フィルハーモニー交響楽団 あいりす児童合唱団
オーケストレーションを改作、演出・装置を一新して上演された
10月11日 関西学生音楽協会が発足
AGOT(朝日会館学生音楽友之会)を引き継いだ学音(関西学生音楽友之会)が組織改編され、「関西学生音楽協会」が誕生した
11月26、27日 二期会公演 モーツァルト《フィガロの結婚》(弥栄会館)
12月3日:神戸国際会館
5日:毎日ホール
カール・チェリウス指揮、木下武久演出、京都市交響楽団、二期会合唱団
京都市交響楽団初のオペラ演奏で、名古屋、東京でも公演を行う。翌年1月、「格調正しいすぐれたオペラの上演」として、第十回毎日音楽賞受賞。以後、二期会と京都市交響楽団は共演を重ねていく
演奏会場の拡充 産経会館(1952年)、神戸国際会館(1956年)、神戸新聞会館(1956年)、フェスティバルホール(1958年)、毎日ホール(1958年)、京都会館(1960年)。1950年代の関西音楽界を特徴づける出来事の一つに、演奏会場の拡充がある。近年リニューアルが続いて徐々に姿を消しつつあるが、これらのホールがなければ、昭和の演奏会の隆盛も、演奏会の思い出の共有も、きっとなかったに違いない。 |
産経会館(第1回大阪国際芸術祭プログラムより)
昭和27年7月18日竣工(大阪市北区梅田町27 1560名収容)
あやめ池円型大劇場(昭和31年3月19日 毎日新聞夕刊)
昭和31年3月20日開場(奈良市あやめ池北 3000名収容)
神戸国際会館(同館パンフレットより)昭和31年10月20日竣工
(神戸市葺合区御幸通8-9-1
大ホール:2202名収容
小ホール:200名収容)
フェスティバルホール(第1回大阪国際芸術祭プログラムより)昭和33年4月3日竣工(大阪市北区中之島2-22新朝日ビル内 3136名収容)
京都会館(ミュージカルキョート第25号より)昭和35年3月31日竣工(京都市左京区岡崎
第1ホール:2500名収容
第2ホール:1200名収容)
国際フェスティバル始まる 20世紀後半の日本の音楽祭を議論する際に「大阪国際フェスティバル」を筆頭においても異論は出ないだろう。実際、過去の50年間に開催された記録を繰れば、世界中の名演奏家や定評のある演奏団体がだいたい網羅されている。 音楽祭の始まったのは1958年(昭和33年)。20世紀前半の外来公演を手掛けてきたアウセイ・ストロークの助言により、朝日新聞創業者の村山ファミリーが事業を決断、ストロークの客死という想定外の出来事もあったが、財を費やし、官民を調整し、開催にこぎつけた。また、前例のない規模の国際芸術祭は、大阪のみならず日本中の音楽ファンを熱狂させた。なお、開始時の名称は「大阪国際芸術祭」であり、大阪中が一致団結して運営にあたったが、第2回以降は「大阪国際フェスティバル」の名称のもとで財団法人大阪国際フェスティバル協会が音楽祭を統括していった。 長らく継続されてきた「大阪国際フェスティバル」だったが、50回を機にフェスティバルホールの改築とも相俟って一時中断。2013年(平成25年)から新生のフェスティバルホールによって新たに音楽祭が継承されている。 |
大阪国際芸術祭の開幕チケット(ニューヨーク・シティー・バレエ団公演)
上製本によるプログラム
4月10~13日 ニューヨーク・シティ・バレエ団公演【アメリカ】フェスティバルホールでの芸術祭開幕公演であり、同ホールのこけら落しでもあった。
4月11~17日 ザルツブルク人形劇団公演(産経会館)【オーストリア】(第1回大阪国際芸術祭プログラムより)
4月12、13日 アマディウス四重奏団公演(朝日会館)【イギリス】(昭和33年4月14日 毎日新聞夕刊)
4月15、16、18日、5月1~3日 レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現・サンクトペテルブルク・フィルハーモニー 交響楽団)公演【ソ連】(昭和33年4月16日 朝日新聞夕刊)
協賛催事が各所で行われた
主会場となったフェスティバルホール内外は国際色に包まれた
開幕には各国大使も招かれた
数多くの外国人客の姿は海外に来たような錯覚を起こさせる
ソ連のヴァイオリニスト、クリモフと伴奏者ヤンポリスキーを訪れたアメリカのアルマ・トリオ。
楽屋においても、国境を越えた文化交流が見られた。
大阪音楽大学の歴史
関西学院・早稲田・同志社・慶應義塾大学マンドリンクラブの合同演奏に合わせて本学合唱団が演奏した
のちに本学教員となる渡辺弓子、西村(永井)和子、安則雄馬ら4名が受講
関西交響楽団の定期演奏会出演のため来日中のライン歌劇場専属メゾソプラノ歌手、ハンナ・ルートヴィヒによる公開レッスン
プログラム表紙(見開き)
F.グロスマン教授を囲んで
ウィーン少年合唱団総裁、ウィーン国立音楽学校声楽科教授F.グロスマンの合唱と声楽の特別講義を行い、7日は聴講料をとって、学外にも公開した
この頃、全国的に音楽大学への志望者が急増。受験生からの高まる要望に応え、受験講座を開講する。初回は兵庫、大阪が多かったが、東は岐阜県から西は大分県まで18府県計108名が受講した。炎天下、連日無欠席という熱心さであったという。この年、同じく6日間の冬期受験講座も開講
ドイツのルイスブルグ市立交響楽団指揮者G.L.ヨッフムによる特別講義を開講した
9月16日 電子オルガン講習会
わが国ではまだ一般に販売される前の試作段階の電子オルガン2台が日本楽器より搬入され、将来の電子オルガン奏者を養成すべく、技師1名と斎藤超が来校して講習会を開催。学生たちは音色の変化と演奏効果の素晴らしさに驚いたという
G.L.ヨッフム合唱特別講義
電子オルガンを演奏する斎藤超
朝比奈隆指揮、白井鉄造演出、関西交響楽団、第13回大阪府芸術祭参加
本学教員を中心に発足した関西歌劇団創立10周年記念の公演に、本学の声楽学科でオペラを学ぶ学生たちが関西歌劇団合唱部、大阪放送児童合唱団とともに合唱で出演した。本学教員も多数、主要キャストを務めている。大晦日に朝日テレビで放送された
大阪日独協会・阪神独文学会主催
朝比奈隆指揮、関西交響楽団の演奏で本学合唱団がベートーヴェン《交響曲第9番》の合唱を行った
11月11日 大阪音楽短期大学第2部を大阪音楽大学短期大学部と名称変更
11月12~15日 演奏旅行(福井、富山県)
11月27日 第2回定期演奏会(フェスティバルホール)
2回目の大学・短期大学合同の定期演奏会。第8回とあるのは短期大学としての定期演奏会の回数を継承したもの。翌年、神戸新聞社の後援により、神戸でも開催している
12月20日 第九とエグモントの夕に出演(フェスティバルホール)
朝比奈隆指揮、関西交響楽団、大阪音楽大学合唱団、朝日学生音楽協会主催
世紀の歌手たちとの共演 1959年(昭和34年)、3年ぶりにイタリア歌劇団の第2回公演が行われ、主催者であるNHKの要請により、本学学生が時代を代表するような世界の名歌手たちと同じ舞台に立つという、大変貴重な機会に恵まれた。この時の公演で話題をさらったのは何と言っても当時“黄金のトランペット”と謳われたテノールのマリオ・デル・モナコであった。そのモナコが出演した《オテロ》に52名、モナコとジュリエッタ・シミオナートが共演した《カルメン》に35名、そして円熟のフェルッチョ・タリアヴィーニが主演の《ボエーム》に22名と、3つの演目でのべ109名の学生が出演を果たした。 出演を果たしたといっても歌ったわけではない。舞台上を素通りしたりする、いわゆるエキストラの一員として参加したのである。しかし、ほんの数分とはいえ、世界一流の歌手たちと同じ舞台に立ち、その芸術に間近にふれることができたことは、学生たちにこの上ない刺激と目標を与えた。それは演奏そのものだけでなく、プロの演奏家としての心構えでもあったようで、のちに本学教員となる窪田譲は、ホテルのロビーで窓際に座ってサインをしていたモナコが、「ここは寒い」と言って反対に向いて座り直したのを見て、些細なことにも敏感に気を遣うその摂生ぶりに、自分の不注意をとがめられたように思えたと語っている。 また他の学生は、楽屋でのイタリア人歌手たちの様子を見て、オペラはイタリア人の心に流れる気質そのものだとし、日本人ももっと日本的な個性のある芸術を深く研究し、国際的なものにまで発展させて、世界の共有物にするべきであり、そんな日が一日でも早く来るように努力したいとこの時の感想を述べている。 |
関西音楽の歴史
オテロに扮したマリオ・デル・モナコ(プログラムより)
《オテロ》《ボエーム》《カルメン》《愛の妙薬》《椿姫》
アルベルト・エレーデ、ニーノ・ヴェルキ指揮、NHK交響楽団、大阪放送合唱団、二期会合唱団、藤原歌劇合唱部、東京少年合唱隊、日本バレエ協会
NHKが再びイタリア歌劇団を招聘。不世出のテノールと言われたマリオ・デル・モナコが参加したことで話題になった。4日にフェスティバルホールで特別演奏会が開催された
自身の公演ポスターの前に立つ辻久子(帰国記念「辻久子名曲リサイタル」プログラムより)
辻久子がソビエト文化省より招聘され、モスクワおよびソビエト各地で演奏会を開催。さらにチェコスロヴァキアでも演奏を行った
ロビーで歓談するストラヴィンスキーとセゴビア
(『How has it been? 1959 OSAKA INTERNATIONAL FESTIVAL』より)
ウィーン国立歌劇団のモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》で開幕。イゴール・ストラヴィンスキーが来日し、舞踊組曲《火の鳥》《ペトルーシュカ》など全曲自作の演奏会でNHK交響楽団を指揮した。入場券は完売し、補助席まで出すほど注目を集めた公演であったという。このほかアンドレス・セゴビアら計7か国からアーティストが来日
戦後、昭和26年から再開した講習会で、現在も中学校・高等学校の吹奏楽部の初心者を対象に演奏指導を行っている。大阪市音楽団の歴史ある重要な事業の一つで、戦前は大栗裕や森正なども受講していたという(大阪市音楽団提供)
昭和25年に進駐軍の接収解除後、改装なった天王寺音楽堂で開かれる「たそがれコンサート」は夏の夜の風物詩となっていた
10月19日から11月23日に及ぶ世界旅行に際して行われた日本公演。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮する総員117名のメンバーで、インド、フィリピン、香港、日本、アメリカ、カナダを巡回。コンサートは26回に及んだ(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のホームページ参照)
朝比奈隆指揮、白井鐵造演出、関西交響楽団、関西歌劇団合唱部、大阪音楽大学オペラ専攻科、大阪放送児童合唱団
歌劇団創立10周年記念公演であり、第13回大阪府芸術祭共催行事として上演。この年の大晦日に朝日テレビによって第3幕のみカットして放送された
《ラ・ボエーム》第2幕
関西歌劇団提供 『関西歌劇団50年のあゆみ』より
関西での民間ステレオ放送の開始 1950年代はラジオによるステレオ放送の勃興期である。初期のステレオ放送は2台のラジオで楽しまれた。つまり、2局から放送された同じ番組を左右2台のラジオが同時に受信した場合、立体的に音楽が再現されるという仕組みである。NHKでは第1放送と第2放送が利用され、関西民間放送ではMBS毎日放送とABC朝日放送が共同してステレオ放送を行った。画像は関西における初の民間ステレオ放送「ステレオ・アワー」が掲載された番組表と広告である。夕方7時から同じ番組が毎日放送と朝日放送の欄に並ぶ。 |
大阪における現代音楽 1959年は大阪における現代音楽に関して重要な年である。前年に作曲家グループ「えらん」が演奏活動を開始したのに加え、BK(現・NHK大阪放送局)による電子音楽の試みがなされ、上野晃が現代音楽研究所を立ち上げ、朝日会館において第1回演奏会を開催した。プログラムからわかるように、しっかりと構成された日本とヨーロッパの作品が中心であり、現代音楽研究所の方向が見て取れる。『音楽芸術』で数ページに及ぶ特集が組まれるなど、演奏会は大きな話題を呼んだ。 |
大阪音楽大学の歴史
昭和35年2月20日『関西芸術』第93号
本学への志願者はますます増加する。前年度比大学1.8倍、短期大学2.2倍の志願者が集まり、競争率はそれぞれ2.5倍、3.5倍となった
芸術学士第一号となる75名が卒業した。このうち作曲の景山伸夫、声楽の窪田譲、西村(永井)和子、牧野恭子、安則雄馬、油井昌行、渡辺弓子、ピアノの明松(中村)節、梅本俊和、田村利子、三井(堀)陽、武藤秋、山崎良子、ヴァイオリンの藤本幸男は本学教員となった
山田耕筰(15、17日)、朝比奈隆(16日)指揮、白井鉄造演出、関西交響楽団
山田耕筰《黒船》公演に本学学生が合唱で出演した。相愛女子大学音楽部、新月会、関西歌劇団、宝塚歌劇団、関西学院グリークラブも同じく合唱として参加している
大阪国際フェスティバル出演のため来日中のパガニーニ弦楽四重奏団のヴァイオリニスト、アンリ・テミアンカを招いて特別講義を開講した
オペラ研究部が前年の大学・高校合同文化祭で企画制作し、関西初演した《メリー・ウィドウ》を再演した
オペラ研究部による《メリー・ウィドウ》関西初演
プログラム表紙
音楽学部を持つ関西の7つの大学が連携をはかり、音楽教育の発展に資することを目的として、関西地区大学音楽学部協会(現・関西音楽大学協会)を設立。その初事業として、合同の新人演奏会を開催した。このとき本学からは、のちに教員となる安則雄馬、渡辺弓子、梅本俊和が出演。この演奏会は現在も継続され、本学が事務局を務めている
ニコラ・ルッチ指揮、演出 大阪フィルハーモニー交響楽団 毎日新聞社・毎日放送主催
大阪芸術祭において本邦初演となる《ランメルムーアのルチア》の公演に本学学生が合唱で出演した。本学の卒業生である五十嵐喜芳の帰国後初のオペラ出演作品であった
教育実習を行う本学学生(昭和35~38年頃)
11月3日 第14回大阪府芸術祭記念公演 秋のファンタジーに出演(フェスティバルホール)
本学合唱団と管弦楽団が小橋潔教員の指揮で《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《アイーダ》から合唱曲を2曲演奏した
ゲルト・ケンパーピアノ特別講義
第14回大阪府芸術祭記念公演
11月30~12月4日 演奏旅行(鳥取、岡山県)
完成した5号館
学生数の増加に伴い、校庭北側に追加となる第八期工事を行った。唱歌教室、レッスン室などを増設
本学管弦楽団が中村仁策指揮で演奏を行った
12月24日 大阪フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会に出演(毎日ホール)
朝比奈隆指揮で本学合唱団がベートーヴェン《交響曲第9番》の合唱を行った
関西音楽の歴史
パガニーニ弦楽四重奏団、ピラール・ロペス・スパニッシュバレエ団等が来日。日米修好通商100周年と山田耕筰作曲生活60年を記念し、山田耕筰が大幅に書き改めた歌劇《黒船》を自身の指揮で上演した。関西初演であった。フィナーレを飾ったのはやはりアメリカを意識してか、ボストン交響楽団である
アンドレ・ジラール指揮 関西交響楽団
大阪市音楽団初の有料演奏会であったが、ダフ屋が出るほどの大盛況であったという。ヒンデミット《吹奏楽のための交響曲 変ロ長調》をはじめ、3曲の本邦初演を行うという意欲的なプログラムであった
チケット
ベートーヴェン《交響曲第9番》第4楽章の演奏(昭和35年5月1日 毎日新聞夕刊)
こけら落しは4月29、30日に市民合唱も交えたカール・チェリウス指揮京都市交響楽団演奏のベートーヴェン《交響曲第9番》。このほか開館記念行事として、雅楽・能楽・狂言の古典芸能の夕や、全京都洋舞協議会による舞踊詩劇《ペール・ギュント》、フンパーティングのオペラ《ヘンゼルとグレーテル》など、5月9日のボストン交響楽団演奏会まで連日催し物が行われた
翌5月、大阪フィルハーモニー交響楽団が誕生した
関西交響楽団最後の第125回定期演奏会プログラム表紙(4月2日 毎日ホール)
5月 大阪文化協会設立
大阪および関西の時代に即応した文化振興のための諸事業を行うために大阪文化協会が設立され、5月24~29日にわたって第1回「大阪文化まつり」が開催された
6月17日 関西音楽人懇談会、安保改定反対声明を発表
6月25日 ロン=ティボー国際音楽コンクール優勝記念 松浦豊明ピアノリサイタル(フェスティバルホール)
大阪出身の松浦豊明が日本人として初めてロン=ティボー国際音楽コンクールに優勝し、リサイタルを開催
《石の花》銅山の女王コルパコワ(プログラムより)
《白鳥の湖》《ジゼル》《石の花》《レ・シルフィード》が上演された。ソビエト芸術における古典と現代の有り方に注目が集まった
10月5日 ナルシソ・イエペス関西初公演(京都会館)
6日:同会場 7日:産経会館 8日:神戸国際会館
10月26日 ウィーンコンツェルトハウス弦楽四重奏団関西初公演(毎日ホール)
11月10日:同会場 12日:京都会館
10月27日 ルドルフ・ゼルキン関西初公演(フェスティバルホール)
10月30日:京都会館
イエペス(左)、ゼルキン(右)、ウィーンコンツェルトハウス弦楽四重奏団(下)
世界的な演奏家や演奏団体の来日が相次いだ
朝比奈隆指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団
語り手:茂山千之丞、若者:観世寿夫、仙人:片山慶次郎(杜子春)
茂山千之丞演出 京都女子大学音楽科コーラス他、京都女子大学演劇クラブ、京都女子大学児童合唱団(おに)
能狂言と西洋音楽とのコラボレーションが話題になった
プログラムより
10日:同会場
13日:京都会館
大阪国際フェスティバル協会がこの年から秋にも特別公演を開催することになり、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団がカルロ・マリア・ジュリーニの指揮で、全国主要都市で10回の公演を行った
プログラムより
関西交響楽団から大阪フィルハーモニー交響楽団へ 1960年(昭和35年)4月、機構改正に伴って関西交響楽団が大阪フィルハーモニー交響楽団として再出発することになった。従来、関西の総合的な楽団として一手に仕事を引き受けていたのだが、疲弊激しく、映画関連の仕事を分離して、今後「大阪フィルハーモニー交響楽団」として芸術志向に大きく舵を切ることにしたのである。 「大阪フィル友の会」も発足し、優待制度も整えられていった。また、運営委員会は在阪メディアによって構成されていた。 |
大阪音楽大学の歴史
オペラ履修生による研究公演を学外において開催することとなった。総監督・演出を朝比奈隆、指揮を宮本政雄両教員が行ったが、出演者、オーケストラはすべて学生によるもので、本学にとって定期演奏会と並ぶ大きな催しとなった。昭和48年まで計14回開催された
本学初の京都公演。前年の第3回定期演奏会での演奏曲を中心に、オペラからの合唱などを加えた全6曲を披露した
このほかグルック《アウリスのイフィゲニア》序曲も演奏
当時は本学ホールで卒業式のあと、謝恩会も行っていた
本学教職員の投稿による年刊誌で、分野やテーマは自由とした。大学設立時における永井学長の構想の一つで、自らも創刊号に投稿している
高校を卒業し、音楽の素養を有し、将来音楽研究を志す特に熱意のある者、教員免許取得のため単位を必要とする者、学校長等の命を受け派遣された者を年間20単位以内で受け入れることとした
創立者永井幸次の名にちなんで命名され、母校でのこの日の総会において発表された。永井学長が木村会長に依頼されて、《幸楽会の歌》を贈った
宮本政雄指揮、志摩靖彦・桂直久演出、大阪フィルハーモニー交響楽団
昨春卒業したオペラ研究部の卒業生たちによる公演で、《メリー・ウィドウ》は昭和34、35年の上演に続き3回目となる。両日昼夜2回公演で、昼の部は大谷女子学園の団体鑑賞に当てられ、夜が一般公演であった。大阪府芸術祭および大阪市民文化祭参加
アメリカ国務省の文化使節として来日中であったミルドレッド・ディリングによる「ハープの歴史について」の講義と演奏会が、同氏所蔵の様々なハープを用いて行われた
2年前に引き続き、本学学生が再びマリオ・デル・モナコ、レナータ・テバルディ、ジュリエッタ・シミオナートといった世界一流の豪華な歌手陣と、全5演目においてエキストラとして共演した
2日目には演劇、剣舞、ジャズ同好会の演奏があり、オペラ研究部がヨハン・シュトラウス2世《ジプシー男爵》(全3幕)を自分たちの日本語訳により上演した
24、25(昼夜)日:フェスティバルホール 26日:薫英学園
朝比奈隆指揮、朝比奈隆、菅沼潤演出・構成、大阪フィルハーモニー交響楽団
本学学生が合唱で出演。25日昼は朝日学音例会、26日は薫英学英創立30周年記念公演。関西歌劇団は本公演により大阪市民文化祭芸術賞受賞
11月28日 第4回定期演奏会(産経会館)
大阪に先立ち、神戸国際会館で開催された神戸演奏会は、第2回目となる定期演奏会の神戸公演
12月2~7日 演奏旅行(岡山、広島、山口県)
定期演奏会と広島での本学演奏会ポスター
12月23日 ヘンデル《メサイア》に出演(神戸国際会館)
オペラ研究公演 「大阪音楽大学オペラ専攻科」という言葉が初出したのは、本学所蔵資料によると、年表にも掲出した昭和34年11月3~5日の関西歌劇団第12回公演《ラ・ボエーム》の出演時と思われる。ただそれは便宜上の名称で、当時本学に「オペラ専攻科」という科があったわけではなく、オペラを履修するコースを選択し、それを認められた学生たちと言った方が正確である。その後、同じく年表にある昭和35年の大阪国際フェスティバル《黒船》のプログラムにもその名は記載されている。 このオペラを専門的に履修する学生たちは、3年生の終わりから4年生の初め頃にオーディションによって選考されていた。そしてその学生たちは本学の催しよりも一足先に学外主催の公演に招聘され、出演の機会を得ていたのであるが、かねてからオペラ履修生たちの発表の場を設けることは学内でも検討されていた。それが実現したのが、このオペラ専攻学生による研究公演である。 この公演にあたって、当日のプログラムに総監督であり、演出を務めた朝比奈隆は「これは25才の私が音楽に身を投じこの学校に職を奉じてから27年間ずっと考え続け念じて来たことだった」と記している。朝比奈によれば、海外の優れた演奏家は声楽家もオーケストラも指揮者もオペラを経験して育っている人が多く、本学のオペラ専攻のクラスは教育の場でオペラを取り上げ、将来に備えて技術と人材の積み重ねをしていかねばならないという必要感から生まれたものだったという。 初回は定かではないが、第2回公演からのキャストはオペラ履修生の中から秋にオーディションで決定し、練習を重ねて本番にのぞんでいた。公演回数も昼に学生対象の回を加えるなどして、1回から2回、3回と増えていった。朝比奈は前出のプログラムの言葉を次のように締めくくっている。「オーケストラから衣裳・舞台助手まで全部学生の手で上演されることになり、どうか文字通りの激励の拍手を送ってやって頂きたい。指揮は宮本政雄教授にお願いし、私はこの一年間を指導演出と練習のお世話に当ったが、たくましく育ちゆく若い学生諸君の姿を眺めて胸ふくらむ喜びに満足している」 当時、関西において出演者、オーケストラもすべて学生によるオペラ公演というのは他になく、その成果に期待が寄せられた。この学外におけるオペラ研究公演は、昭和48年の第14回《コジ・ファン・トゥッテ》まで続けられる。 |
本学ホールにおけるオペラ練習風景と思われる(撮影年不詳)
第1回研究公演《フィガロの結婚》
昭和36年1月21日(大阪朝日会館)
第2回研究公演《コジ・ファン・トゥッテ》昭和37年1月12、13日(大阪朝日会館)3回公演
第3回研究公演《カヴァレリア・ルスティカーナ》昭和38年1月19日(サンケイホール)2回公演
第4回研究公演《コジ・ファン・トゥッテ》昭和38年10月29、30日(御堂会館)3回公演
創立50周年記念オペラ公演《魔笛》(第6回研究公演)昭和40年12月17、18日(大阪府厚生会館文化ホール)3回公演
研究者、永井幸次 学長永井幸次は様々な顔を併せ持つ。教育者永井幸次はもとより、数多くの唱歌や校歌、各種団体歌などを作った作曲家永井幸次としての顔も先の年代で紹介した。作品数は約2,000曲にものぼる。加えて元来きわめて真摯であり、一つのことに対して深く掘り下げて研究するその姿勢からは、学究肌の側面がうかがえる。それゆえ、数多くの教科書の編纂をなし得たともいえる。 大学昇格から3年、『研究紀要』が創刊された。永井は早速、学長自らかねてよりの音楽教育への私案を投稿した。「我邦の音楽教育に使用せる音名と階名並に其の改定案」である。音感教育に注力していた永井は、従来わが国で使われてきた“イロハニ…”や“ドレミファ…”、“CDEF…”といった既存の音名・階名には欠点があるとして、新たに歌いやすく、覚えやすい、より合理的なものを求めて昭和12年頃より研究を重ね、独自に永井式音名(階名)なるものを作った。全国での採用を願って、昭和16年の東京藝術大学で開催された全国音楽教育大会で発表するも、この改定案は文部省に受け入れられなかった。それ以来20年ぶりの再発表であった。大阪音楽学校時代に本学でも一時期この音名を使用していたそうである。 |
関西音楽の歴史
設立以来、カール・チェリウスのすぐれた指揮のもとに、モーツァルト作品演奏をはじめ、音楽界に貢献したことによる
4月13日~5月6日 第4回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、モントリオール・バッハ合唱団、ブランシュ・シーボム(Ms)、アイザック・スターン(Vn)、アルテュール・グリュミオー(Vn)、クインテット・キジアーノ、ロイヤル・バレエ団、ジュリアード弦楽四重奏団が来演。当時、国交のなかった旧東ドイツからのゲヴァントハウス管弦楽団の初来日は“芸術に国境なし”を押し通しての特例ずくめものであったという。この年より募集された全公演鑑賞の友の会会員は、発表当日の午前中に1,000名の定員が満了になるほどの人気であった
客演指揮者としてパブロ・カザルスが愛弟子の平井丈一朗と共演
4月20日 アサヒ・コーラス、大阪フィルハーモニー交響楽団、法村・友井バレエ団等が昭和35年度大阪府民劇場奨励賞受賞
2日:大阪府立体育会館
4日:神戸国際会館
レナード・バーンスタイン指揮、関西初の演奏曲はベルリオーズ《ローマの謝肉祭》序曲であった。バーンスタインは2日の公演で、ラヴェル《ピアノ協奏曲》のソリストも務めている
11日:毎日ホール
16、17日:東京産経ホール
ジャン・ポッパー指揮 木下武久演出 京都市交響楽団 二期会合唱団
モーツァルト・シリーズの最終回。大阪芸術祭の日独修好100年記念、初代指揮者カール・チェリウスの帰国記念を兼ねての公演であった
6月6、7日 大阪芸術祭参加 音楽コンクール30周年記念 マスカーニ《友人フリッツ(アルザスの女ぎらい)》本邦初演(毎日ホール)
ニコラ・ルッチ指揮・演出、大阪放送交響楽団、大阪放送合唱団、京都市民合唱団、あいりす児童合唱団
初代指揮者として、創立以来5年余り京都市交響楽団を率いてきたカール・チェリウスが辞任。後任指揮者にハンス・ヨアヒム・カウフマンが就任し、チェリウスには名誉指揮者の称号が与えられた
現代音楽祭が初めて関西で開催された。ジョン・ケージらのアメリカ実験音楽、武満徹、黛敏郎ら同音楽祭を主催する二十世紀音楽研究所のメンバーたちの前衛音楽が初演され、最終夜は没後10年を記念して全曲シェーンベルクの作品が演奏された
放送作曲家の社会生活や職能を擁護し、親睦をはかるとともに、放送文化の発展向上に寄与することを目的として結成
《アンドレア・シェニエ》《リゴレット》《トスカ》《カヴァレリア・ルスティカーナ》《道化師》《アイーダ》
フランコ・カプアーナ、アルトゥーロ・バジーレ指揮 NHK交響楽団 大阪放送合唱団 二期会合唱団 藤原歌劇団合唱部 東京コラリアーズ
NHKによる3度目のイタリア歌劇団招聘。11月1日にはフェスティバルホールで日本赤十字社主催の特別演奏会を開催
創設以来、広く海外から国際的に水準の高い芸能を招いて公演、府民の文化向上につくしたことによる
ルーブル・フランス美術展を記念して、世界最高水準の演奏技術を誇るフランスの名門軍楽隊が初来日した
12月12日 関西歌劇団が昭和36年度大阪市民文化祭芸術賞優賞、アサヒ・コーラスが同奨励賞受賞
各受賞はモーツァルト《フィガロの結婚》公演、およびハイドン《天地創造》演奏による
大阪音楽大学の歴史
2日目は昼夜2回公演で、昼の部は学生対象に開催された。朝比奈隆教員の構成により、本来は3時間ほどかかる作品を2時間以内に省略しての上演であった
本学発展の長期計画の一環として、関西における初の邦楽学科設置を決定。学内外から委員を選出し、設置準備ならびに諸研究を開始する
4月24、26日 第5回大阪国際フェスティバル R.シュトラウス《サロメ》に出演(フェスティバルホール)
マンフレッド・グルリット指揮、青山圭男演出、東京フィルハーモニー交響楽団
主要キャストに世界屈指のサロメ歌手クリステル・ゴルツら海外の著名歌手を招聘して行われた東洋初演の舞台に、本学学生がエキストラで参加
永井学長の米寿と長年にわたる音楽教育の功績を讃えて、全学あげての祝賀演奏会を開催した。永井学長がプログラムにしたためた謝辞には「六十の少年、七十の青年、八十の壮年、九十以上が老年と思うと、まだ老年の域には程遠いことと思って、毎日楽しく働いております」とある
合唱組曲"白秋・耕筰作品集"より
本学学生が大阪府芸術祭のための野口源次郎《讃歌》を演奏
翌年には再び京都公演も開催
山田和男指揮、京都市交響楽団、二期会合唱団、大阪放送合唱団、大阪音楽大学合唱団
本学学生が合唱で参加
12月19、20日 大学文化祭(御堂会館)
12月24日 ヘンデル《メサイア》に出演(神戸国際会館)
中村仁策指揮で本学管弦楽団が演奏。コーロ・ポルテニオ、神戸中央合唱団共催
12月25日 川西市大和東4丁目の土地14,326㎡取得(昭和54年、現K号館の土地・建物取得のため譲渡)
米寿の祝賀 全学あげての祝賀演奏会には大阪府知事、同市長からもお祝いの言葉が寄せられ、3,000人を収容可能なフェスティバルホールも立ち見が出るほどの超満員であったという。冒頭、永井幸次作曲の校歌、《菊》、《平和讃歌》を全学生・生徒約900名の合唱で演奏。広いステージもこの日ばかりは狭く感じられたという。そのあとヴァイオリンソナタ、オーケストラ演奏、20名の声楽教員による合唱、ピアノ四重奏と続き、最後に榊原美文作詞、近藤圭作曲のカンタータ《永井幸次学長米寿讃歌 めでたきいのち》を演奏して、永井学長の米寿を盛大に祝った。 |
オーケストラ演奏
カンタータ《永井幸次学長米寿讃歌》
よく尋ねられる自身の健康法を12項目にわたって書き綴り、これを実践して自分にあやかるようにとしている
中でも「常に希望を持っていること」という言葉が印象的である
関西音楽の歴史
朝比奈隆9回目の渡欧。1月19日、北西ドイツ放送交響楽団と大栗裕《雲水讃》を演奏。3月13日、ドイツ国立歌劇場のプッチーニ《お蝶夫人》を指揮。東洋人による海外歌劇団の指揮はこれが初めてであっ た
メンデルスゾーン序曲《フィンガルの洞窟》、ブラームス《交響曲第4番》、フランク《交響曲 ニ短調》等を演奏
毎日放送の旧第一スタジオを改築。毎日大阪会館北館11、12階に位置し、収容人員250名
4月12日~5月5日 第5回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
オイゲン・ヨッフム、ベルナルト・ハイティンク指揮によるアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団)、アンドレ・ナヴァラ(Vc)、ヴィルトゥオージ・ディ・ローマ、コメディー・フ ランセーズが来演。日本の現代音楽が初めて取り上げられ、3人の会(團伊玖磨、黛敏郎、芥川也寸志)自らが大阪フィルハーモニー交響楽団を指揮して自作を演奏した。R.シュトラウス《サロメ》が東洋初演さ れ、従来協賛公演であった能楽も「フェスティバル能」として正式プログラムに加えられた
関西歌劇団が大阪府民劇場賞、大阪フィルハーモニー交響楽団が同奨励賞を受賞
5月12日 第2回2000人の吹奏楽開催(阪急西宮球場)
前年春、関西テレビが出演者1000人による大規模な吹奏楽の演奏会を開催。第2回は大阪、京都、兵庫の府県音楽隊、自衛隊、関西六大学等、28団体約2000人が出演。年々参加団体が増え、第29回 からは「3000人の吹奏楽」となり、現在も継続されている
16日:講演会(毎日国際サロン) 17日:ピアノ演奏会(毎日ホール)
フランスを代表する現代作曲家で、鳥類の研究者でもあるメシアンがピアニストのイヴォンヌ・ロリオとともに講演会および演奏会を行い、自らの作曲理論と作品を紹介
朝比奈隆指揮、完成披露演奏会。以後29年間にわたり練習場として使用
扇町大阪プールを会場に、水上バレエと歌とオーケストラを楽しむという異色のコンサートが大阪都市協会・大阪フィルハーモニー交響楽団主催で開催された
12日:フェスティバルホール
この年はローマ合奏団、ベルリン室内管弦楽団(旧西ベルリン)、ハンガリー弦楽四重奏団など室内楽の団体が相次いで初来日し、一種の室内楽ブームが見られた。バロック音楽が聴かれる機会も増加
9月16、17日 神戸労音 オルフ《カルミナ・ブラーナ》西日本初演(神戸国際会館)
外山雄三指揮、桜井武雄合唱指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団、神戸合同合唱団
この公演における神戸労音の企画・上演と桜井武雄の合唱指導が第1回音楽クリティック・クラブ奨励賞受賞
NHKの招聘により、ドイツの作曲家で、音楽教育界の権威であるカール・オルフと協力者グニルト・ケートマンが初来日。日本の学校音楽教育の向上に役立てようとするものであった
京都市が京都会館を会場として、京都市交響楽団を中心に内外の一流芸術家を招き、音楽祭を開始した。9月~12月の間に月2、3回のペースで演奏会を開催。初回はソビエト連邦国立アカデミーロシア合 唱団(現・ロシア国立モスクワ・アカデミー合唱団)、ベルリン室内管弦楽団(旧西ベルリン)、ハンガリー弦楽四重奏団などが出演した
関西在住の音楽評論家9名により結成。関西音楽界の活性化を図るため、音楽クリティック・クラブ賞を創設
10月4日 読売日本交響楽団披露演奏会(フェスティバルホール)
この年、読売新聞社・日本テレビ放送網・読売テレビ放送のグループ3社を母体に設立された同交響楽団初の関西公演
10月12日 ジョン・ケージ関西初公演(京都会館第二ホール)
17日:御堂会館
アメリカ現代音楽を代表するケージとピアニストのデイヴィッド・チューダーが初来日。一柳彗、黛敏郎、高橋悠治らとともにアメリカやヨーロッパの現代音楽を演奏
兵庫県が期間中の神戸国際会館協賛の8公演を指定して助成し、県民が安価で芸術にふれられるようにとの目的で開始された
10月28日 第10回全日本吹奏楽コンクールにおいて関西勢が全5部門を制覇
11月13日、フェスティバルホールで全部門優勝記念演奏会が開催され、優勝5団体が出演した
開館以来37年間、関西の文化芸術の中心地であったが、阪神高速道路大阪環状線計画に伴い閉館。ゆかりの深い芸術家や芸能人たちと同館ファンが集い、回顧の夕を開催。長年にわたり市民に親しまれ 、特に戦前は大阪で数少ない文化ホールとして市民文化の育成につくしたとして昭和37年度大阪市民文化賞受賞
24日:フェスティバルホール
12月2日:京都会館第一ホール
3日:姫路市厚生会館
12月 大阪フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団が昭和37年度大阪市民文化祭芸術賞優賞、大阪放送合唱団が第16回大阪府芸術祭賞受賞
メシアンとケージ 1962年(昭和37年)は大阪の現代音楽界にとってビッグイヤーとなった。両雄のオリビエ・メシアン(1908-1992)とジョン・ケージ(1912-1992)が相次いで来日し、演奏会を開催したからである。 両者を対比させてみると面白い。たとえば、メシアンは鳥の声、ケージは環境音と、両者とも自然の音響を深く探求することによって創作活動を展開したのだが、二人のアプローチは全く異なっていた。メシアンが鳥の声を採譜して素材として芸術作品を創造した一方、ケージは、時間枠を区切りその内部に生じる音を作品とする《4'33"》を提案した。メシアンはアカデミックな世界に生き、ケージは専ら在野で活躍した。メシアンは教会オルガニストとしても活躍し、ケージは禅に傾倒した。メシアンはフランス人。ケージはアメリカ人。メシアンは西洋音楽史の最先端に立ち、ケージはアメリカで新しい音楽を発明した。 もっとも、メシアンの複雑な音組織を聴き取り、高度な音楽理論を理解することは極めて難しい。また、児戯と間違うようなケージの音楽が深い思索に基づいたものだということを悟るのも容易いことではない。ケージの京都公演に立ち会った音楽学者の谷村晃は、笑いながら聴いた人々がいたことを伝える。札幌公演では怒り出す人々もいたらしい(前川公美夫『北海道音楽史』)。なお、谷村はケージの音楽を「1962年のいまを象徴するショッキングなできごとであることは、たしかである」(『朝日新聞』)と総括したが、当時世界は冷戦の最中にあり、米ソが激しく対立して一発触発の危機にあった。 |
カール・オルフの来日 ややもすると《カルミナ・ブラーナ》の作曲者として有名なオルフであるが、彼は児童音楽教育にも目覚ましい業績を残している。きっかけは戦後1948年(昭和23年)にドイツで放送した子供のための音楽指導番組だった。これが大評判になり、『子供のための音楽』として活動をまとめて出版するとこれもまた大きな反響があり、長じて世界的名声を獲得することになったのである。 オルフの来日は専ら音楽教育の普及啓蒙活動に費やされた。9月15日東京、18日名古屋、20日大阪、22日福岡、28日札幌、10月1日宮城、4日東京というスケジュールである。公演や実地指導を精力的に実施。東京、名古屋、大阪では公開指導をラジオやテレビで放送した。 『音楽之友』に掲載された座談会集録には彼の思想がわかりやすく記されている。オルフの教育システムと日本の音楽・音楽教育を巡って議論が展開するのだが、オルフはまず日本の子どもの歌について、「日本語のリズムは、私の印象から言うと旋律的な高低が主になっているように思います」と所見を述べる。そして、「それをハーモニーでもってアクセントをつけちゃって…」と、無理やりに和声づけすることに疑問を呈し、「日本の子どもの歌にある詞(ヴォルト)のリズムにもっと注意を向けるべきだと思います」という方針を指し示す。強調されるのは、歌い継がれてきた日本の子どもの歌をしっかりと理解し、その特色を活かして教材に用いる工夫である。 オルフの書物の日本版の出版に携わっている花村大(はなむらまさる)が、「オルフ博士の精神を生かして、私どもの手で日本のものを作る──私どもが編曲するということはいかがでしょうか」と尋ねた時も、同様の考え方を示す。「もちろんその通りでそういったことをやってもらうということが、私の根本の教育の精神で、私はそのために日本に来た。私のやっていることは一つの試みですから、それを参考にして日本のものを作り上げていただきたいと思います」と明確に回答する。 教育の現場を深く理解したうえでオルフの思想を柔軟に当てはめるという見識の高い意見は、多くの教育者を引きつけることになっていった。 |
カール・オルフ(右)とグニルト・ケートマン(左)(muse vol.2第18号より)
東京での講演風景
(muse vol.2第18号より)
関西吹奏楽の躍進 1960年代前半の全日本吹奏楽コンクールにおける関西勢の躍進は目覚ましい。特に1962年(昭和37年)は地区の大会かと見紛うばかりの大活躍であった。とりわけ演奏に定評のあったのは阪急百貨店である。講評の賛辞から図抜けた上手さが推し量られる。少年音楽隊の育成システムが上手く機能していたことがうかがえる。以下、当時の関西勢の大活躍を記したい。 |
1961年11月12日 第9回全日本吹奏楽コンクール(東京都台東体育館) | |||
中学校の部 | 1位 | 兵庫県 | 西宮市立今津中学校吹奏楽部 |
高等学校の部 | 2位 | 大阪府 | 天王寺商業高等学校音楽部 |
大学の部 | 2位 | 大阪府 | 関西大学応援団吹奏楽部 |
一般の部 | 2位 | 兵庫県 | 明石高等学校OB吹奏楽団 |
職場の部 | 1位 | 大阪府 | 阪急百貨店吹奏楽団 |
1962年10月28日 第10回全日本吹奏楽コンクール(室蘭市富士製鉄体育館) | |||
中学校の部 | 1位 | 兵庫県 | 西宮市立今津中学校吹奏楽部 |
高等学校の部 | 1位 | 大阪府 | 天王寺商業高等学校音楽部 |
大学の部 | 1位 | 兵庫県 | 関西学院大学応援団総部吹奏楽部 |
一般の部 | 1位 | 大阪府 | 明石高等学校OB吹奏楽団 |
職場の部 | 1位 | 兵庫県 | 阪急百貨店吹奏楽団 |
1963年11月10日 第11回全日本吹奏楽コンクール(岐阜市民センター) | |||
中学校の部 | 2位 | 奈良県 | 天理中学校吹奏楽部 |
高等学校の部 | 2位 | 大阪府 | 天王寺商業高等学校音楽部 |
大学の部 | 1位 | 兵庫県 | 関西学院大学応援団総部吹奏楽部 |
一般の部 | 1位 | 大阪府 | 明石高等学校OB吹奏楽団 |
職場の部 | 1位 | 兵庫県 | 阪急百貨店吹奏楽団 |
1964年11月8日 第12回全日本吹奏楽コンクール(高松市市民会館) | |||
中学校の部 | 1位 | 兵庫県 | 西宮市立今津中学校吹奏楽部 |
高等学校の部 | 1位 | 奈良県 | 天王寺商業高等学校音楽部 |
大学の部 | 1位 | 兵庫県 | 関西学院大学応援団総部吹奏楽部 |
一般の部 | 1位 | 兵庫県 | 明石高等学校OB吹奏楽団 |
1965年11月14日 第13回全日本吹奏楽コンクール(長崎市公会堂) | |||
中学校の部 | 1位 | 兵庫県 | 西宮市立今津中学校吹奏楽部 |
高等学校の部 | 1位 | 奈良県 | 天理高等学校吹奏楽部 |
大学の部 | 1位 | 大阪府 | 関西大学応援団吹奏楽部 |
職場の部 | 1位 | 大阪府 | 阪急百貨店吹奏楽団 |
大阪音楽大学の歴史
昼は学生のためのオペラ鑑賞会、夜は一般向けの計2回公演
本学女声合唱団が参加。箏、オーケストラと共演した
5月6日 第6回大阪国際フェスティバル パリ・オペラ座バレエ団公演に出演(フェスティバルホール)
ロベール・ブロ指揮、東京フィルハーモニー交響楽団演奏のラヴェル《ダフニスとクロエ》に合唱として参加
声楽主任の永井静子、ピアノ主任の沖田静子両教員をヨーロッパに派遣。主要都市の国際フェスティバル出席、各国音楽家ならびに関係者との懇談、ラジオ、テレビ局、学校等の見学を行った。以降、定期的に1年に数名の専任教員を派遣する方針を発表
創立50周年に向けた記念事業として、施設の拡充を計画。その第1期工事にあたる鉄筋コンクリート2階建ての食堂と学生控室の建設がホール横に開始された
計3公演を行っている
11月15日 第4回イタリア歌劇団公演に出演(フェスティバルホール)
本学学生が《イル・トロヴァトーレ》にエキストラとして出演。このときマンリーコを歌うはずであったマリオ・デル・モナコは体調不良で来日できなかった
20日:サンケイホール
21日:神戸国際会館
4年制大学昇格5周年を記念し、ベートーヴェン《交響曲第9番》を取り上げた。昭和26年の短大開学のときも第1回秋季大演奏会で取り上げているが、そのときは終楽章のみを関西交響楽団と本学学生の合唱団が演奏した。本学主催の演奏会では初の全曲演奏で、学生のオーケストラが演奏するのも初めてのことであった。各方面からも注目される公演であったという
学部・短大生合わせて113名と引率の教員6名の総勢119名が参加。当時の演奏旅行の現地ポスターやプログラムには「100余名の合唱と管弦楽」という言葉が添えられており、毎年100名前後が参加していたと思われる。昼は学生、夜は一般対象に4日間で9公演を行う
この年の春、瀬野マリ子教員を中心に結成されたバロック音楽研究会の第1回演奏会が行われた。このときの出演者は同年に「テレマン・アンサンブル」を結成した、当時2年生の延原武春らであった。現在の日本テレマン協会創設メンバーである。これがテレマン・アンサンブルの公的な披露公演となる
創立50周年に向けて 昭和38年、いよいよ2年後に創立50周年を迎えるにあたり、その節目の年を意義あるものにしようと、創立50周年記念事業を企画した。本学は戦後における音楽文化の興隆と相まって、漸次隆盛となり、4年制大学設置の前後より急速に発展するに至った。しかし本学の施設はその発展に伴いかねる、ほとんどが木造の急増施設であった。半世紀を経て、これを機にさらなる本格的な音楽教育をめざし、根本的な施設の拡充改善を図るため、木造校舎を鉄筋コンクリートに建て替えることにしたのである。 10年で全校舎を建て替える長期計画を立て、創立50年となる昭和40年秋までには食堂・学生控室の新設、本館(現在のA号館)と3号館(現在のC号館)の建て替えを行うこととなった。昭和38年6月、父兄、教職員、幸楽会員や関係各位にあてて「大阪音楽大学創立50周年記念事業についてのお願い趣意書」を配布し、協力と支援を仰いだ。協力預金制度というものを設けて本学指定の銀行口座への定期預金を募り、その預金を見合いに銀行から融資を受けようとしたのである。結果、目標額をはるかに上回る預金が集まり、潤沢な資金を得て、第1期工事に着工することとなった。 昭和40年7月に現在のA号館が竣工し、秋までには間に合わなかったが、現在のC号館も翌年1月に完成。以降、B、E、D、F号館と順次完成し、昭和44年6月にはホールも建て替え、当初の10年計画を半分の5年で遂行した。 施設の拡充と同時に、教育内容の充実についても新たな取り組みを行った。前年の昭和37年に関西初の邦楽学科開設に向けて準備委員会を発足させたのもその一つである。また昭和38年からはヨーロッパの音楽事情を視察するために、1年に数名の専任教員を派遣することとした。昭和39年には期限付きではあるが、外国人の専任教員を迎えて教授陣の強化を図った。 この頃の本学にとって、来るべき創立50年という記念すべき年は一つの大きな目標であり、その目標に向けて全学をあげて邁進していた。振り返ると、その後の本学にとって、さらなる飛躍を試みるための大変重要な契機となったのである。 |
関西音楽の歴史
朝比奈隆指揮・演出、大阪フィルハーモニー交響楽団、関西歌劇団合唱部
本公演により昭和37年度大阪府民劇場賞受賞
27日:フェスティバルホール
ロシアの作曲家、ハチャトゥリアンが京都市交響楽団を指揮して自作の演奏会を行った
知事・市長・府市教育委員長連名により、文化賞は学術・体育・生活文化の向上に功績のあった人に、芸術賞は芸術の進歩に顕著な業績を示した人に贈呈。昭和21年に府単独で創設した大阪府文芸賞が大阪府芸術賞を経て、大阪芸術賞となった。文化祭賞は毎年10、11月開催の大阪文化祭に参加した公演のうち、注目すべき成果をあげた個人・団体に知事・市長から贈呈
4月1日 大阪府合唱連盟発足
昭和39年から合唱祭、昭和40年からコンクールを開催
ピエール・モントゥー、アンタル・ドラティ、ゲオルグ・ショルティ指揮によるロンドン交響楽団、キム・ボルイ(Bs)、ロベール・カサドシュ(Pf)、ザグレブ室内合奏団、リカルド・オドノポゾフ(Vn)、フェスティバルのための新作を携えたパリ・オペラ座バレエ団が来演
19日:毎日ホール
20日:姫路厚生会館
22日:京都会館第一ホール
5月8、9日:大阪府立体育館
10日:京都会館第一ホール
大阪フィルハーモニー交響楽団が日本ビクター株式会社と提携し、オーケストラ演奏を聴く機会の少ない地方都市への演奏旅行を開始。初回は九州・東海地方で一般および学生向けに計18公演を行った。また、中学生観賞用教材レコードとしてブリテン《青少年のための管弦楽入門》を録音
日米親善の音楽使節として来日。朝比奈隆指揮による朝日ジュニア・オーケストラとの合同演奏も行った
従来の二十世紀音楽研究所に加え、京都市が共催し、京都市交響楽団が出演
9月24日 関西音楽研究所発足
関西における音楽学研究の先駆。代表は張源祥
9月25日 ウィーン・フィルハーモニック弦楽四重奏団関西初公演(毎日ホール)
27、28日:神戸国際会館
10月1日:京都会館第一ホール
京都市交響楽団による常任指揮者の森正披露演奏会を皮切りに全9公演が行われた
11月25日 左からスコダとデムス ピアノ連弾と独奏の夕(プログラムより)
ロジェ・ワーグナー合唱団(ミュージカル・キョート第79号)
10日:京都会館第一ホール
11、12日:フェスティバルホール
アメリカを代表する合唱団が来演
朝比奈隆指揮・演出 大阪フィルハーモニー交響楽団 関西歌劇団合唱部 アサヒ・コーラス
10月11日 関西の音楽家一行、ヨーロッパ音楽事情視察へ
関西交響楽協会事務局長野口幸助を団長とする関西の音楽家および関係者約10名が渡欧。11月4日まで3週間にわたり、ヨーロッパの主要交響楽団や放送局を視察
10月18 民主音楽協会(民音)創立
音楽などの芸術の交流を推進する音楽文化団体として東京に創立。昭和41年には民音コンクールを創設
日生劇場(東京)開場記念で初来日したベルリン・ドイツ・オペラの特別演奏会としてフィッシャー=ディースカウのリサイタルが開催された
11月15~21日 第4回イタリア歌劇団公演(フェスティバルホール)
《イル・トロヴァトーレ》《蝶々夫人》《西部の娘》《セリビアの理髪師》
オリヴィエロ・デ・ファブリティス、ニーノ・ヴェルキ指揮 ブルーノ・ノフリ演出 NHK交響楽団 二期会合唱団 藤原歌劇団合唱部
16日には京都会館でチャリティ・コンサートも開催。大阪公演は今回が最後となる
21、23日:御堂会館 22日:ナショナル電化センター
松下真一を中心に、ポーランドの現代音楽祭「ワルシャワの秋」にならって、新たに「大阪の秋」国際現代音楽祭が創設された
テレマン・アンサンブルの発足 1963年(昭和38年)、延原武春が現在の日本テレマン協会の前身となる「テレマン・アンサンブル」を北山隆、宮島登美子と共に結成。彼等は当時大阪音楽大学の学生であり、同じく本学の教官であった瀬野(のち牧)マリ子を中心に発足した「バロック音楽研究会」に所属し、西洋音楽の基礎であるバロック音楽を探求していた。延原らは同年12月19日に本学のホールにて「バロック音楽研究会」の第1回演奏による発表会と題して「テレマン・アンサンブル」の記念すべき旗揚げ公演を行った。延原はこの「テレマン・アンサンブル」の規模を翌年に拡大、「テレマン室内管弦楽団」へと発展させる(2009年に現在の「テレマン室内オーケストラ」と改称)。また、1969年(昭和44年)にはテレマン室内合唱団を新設し、この2つの室内楽の演奏団体を傘下とする「大阪テレマン協会」を組織することとなった(1979年に現在の「日本テレマン協会」と改称)。 「テレマン・アンサンブル」が結成された当時の日本といえば、バロック音楽の分野ではJ.S.バッハやヘンデル、あるいはヴィヴァルディ以外ほとんど顧みられていなかった時代である。団名の「テレマン」は、同じくバロック時代の作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681~1767年)に因んでいるが、この名を団名に掲げたのは、延原がテレマンの自叙伝にあった「人が喜ぶために作曲している」という言葉に感銘を受けたからだという。バロックを専門とする室内楽アンサンブルの存在自体が実に希少だった60年代。テレマンのその作曲信条を伝えるべく、「バロック音楽の普及・啓蒙」と「楽しさ」をテーマに、延原は専門のオーボエ演奏、そして指揮活動を通じて自らの楽団と共に様々なコンサートを積極的に展開してゆく。 1965年(昭和40年)に「定期演奏会」を開始。1968年(昭和43年)から、トークを交え聴衆との垣根のないサロンを形成しようとした「マンスリーコンサート」を開催し、1971年(昭和46年)より宗教音楽を教会の聖堂で奏でる「教会音楽シリーズ」を始動。このようにして、延原は関西を拠点にバロック音楽の演奏を主軸とした新しい演奏会の試みを果敢に追求していった。さらに延原と当団は90年代よりピリオド楽器による演奏にも取り組み、日本における古楽演奏団体の草分けとしてその確固たる地位を確立してゆくことになる。 |
第1回「大阪の秋」国際現代音楽祭 20世紀音楽研究所による第4回現代音楽祭が東京現代音楽界主導で行った大阪への現代音楽の普及とすれば、松下真一、諸井誠、一柳彗、高橋悠治達によって1962年(昭和37年)に開催された「大阪の秋」国際現代音楽祭は、東西作曲家による共同開催の色合いが強い。また、改めて第1回と銘打って1963年(昭和38年)から始まった「大阪の秋」国際現代音楽祭は、大阪の文化企業・団体の協賛により大阪に現代音楽をさらに大規模に紹介する営みと位置付けることができる。初回に取り上げられた作品群を検証すれば、この音楽祭の明確なコンセプトが浮かび上がってくる。 たとえば、まず指摘できるのは、実験的な作品というよりもいわゆる保守的な現代音楽作品や20世紀前半に作曲された作品の多さである。また、ドイツ、ハンガリー、ポーランド、イタリア、ベルギー、ブラジル、スウェーデン、日本といった具合に、世界中から作品が集められていることも指摘でき、英、独、仏、米といった枠組みで音楽を考えないまなざしを見て取ることができる。その他、大阪フィルハーモニー交響楽団の活躍も見逃せない。大編成の現代音楽はなかなか演奏の機会に恵まれないものだが、交響楽団の協力で多くの作品を音にすることが可能になった。 「大阪の秋」現代音楽祭は人気の高い音楽祭として運営され、1977年(昭和52年)まで継続した。 |
大阪音楽大学の歴史
4月 外国人教員を迎え教授陣を強化
西ドイツより2年間のピアノ専任教授として、フェルディナンド・ブルックマン、アルント・ドルゲを招聘
日本を巡演中のアメリカ国務省派遣の文化使節、ピーボディ大学(現・ヴァンダービルト大学ピーボディ教育発達科学大学)コーラス部一行15名を迎え、両大学生による演奏会を開催。両国の民謡などが演奏された。終演後、大学生活や国際親善のあり方などについて懇談会も行い、交流を深めた
ブルックマン教授自身のピアノ作品やスクリャービン、リストなどの作品を演奏
6月4日 アルント・ドルゲ教授学内リサイタル(本学ホール)
ベートーヴェンのピアノ作品演奏で知られるドルゲ教授のリサイタルを開催
9月29日 短期大学音楽科第一部設立申請
日本経済の高度成長に伴い、社会全体に高学歴志向が強まり、大学入学志望者数が増加。さらに戦後第一次ベビーブーム、そしてピアノの普及などによる音楽大学受験者の増加に対応するため、短期大学の第一部増設を申請
計6回の公演が行われ、オーケストラ演奏と、この地方公演のために狂言の『釣針』を題材として作った創作オペラ《賤のおだまき》全1幕(田中喜一作、近藤圭作曲)を上演した
昭和40年2月21日 大阪府厚生会館にて
長井斉(後列右から2番目)、水野康孝(後列左から3番目)
永井学長の受章を機に、本学が創立時の大阪市南区塩町で学んだ生徒、教員たちが集まり結成。永井家ゆかりの永井潔・八重子夫妻、長井斉、永井静子らも発起人に名を連ねる
18日は御堂会館において文化祭が、19日は学内にてバザー祭やダンスパーティーが開催された
12月20日 ゲルハルト・プッヘルト ピアノ独奏会(本学ホール)
演奏旅行中の同氏を招聘して開催したもので、ドイツロマン派の作品が演奏された
23日:神戸国際会館 27日:フェスティバルホール
相次いで2つの《メサイア》演奏会に出演。23日はコーロ・ポルテニオ、神戸中央合唱団共催の演奏会で、本学管弦楽団が出演。27日は朝日学音の例会で、ソリスト、オーケストラ、合唱のすべて本学教員・学生によるものであった
喜びのW受章 昭和39年秋、本学は大きな喜びに包まれた。永井学長が戦後第2回目の生存者叙勲により勲三等瑞宝章を、水川理事長が藍綬褒章を受章したのである。永井は音楽教育、私学振興への貢献により、水川は社会教育、とくに働きながら学ぶ勤労青少年の向上のために尽くした功労が認められての受章であった。永井にとっては先の昭和32年の藍綬褒章受章に続く2度目の栄誉、そして水川はこの受章に引き続き、財団法人社会教育協会からも表彰された。 永井は受章の喜びを次のように語っている。「この道に生きて六十八年、大阪音楽学校から現在の大学昇格まで何度かもう投げ出そうと考えたか知れません。しかし人生はダルマのように七転び八起き、ダルマ大師の精神が私を支えてくれました」。(昭和39年11月3日 読売新聞) 一方、水川は自身の受章について「社会教育ひと筋にやってきたので、私が認められたというより、社会教育の意義が認められたのだと思います。これまで社会教育は学校教育に比べて軽く見られていた傾向があるので、今度の受章はその意味でうれしい」と謙遜しながら述べていたという。(昭和39年10月24日 毎日新聞) 12月11日、新大阪ホテルにおいて2人の受章を祝う記念パーティーが盛大に開催された。本学教職員、学校関係者、音楽家、楽壇関係者、著名人、および両人の知人友人など400名あまりが出席。朝比奈隆が開会の辞を述べた。席上、永井は90歳とは思えぬほど元気な力強い声で挨拶をしていたという。亡くなるほんの数カ月前のことであった。 |
"七転び八起き"の達磨大師の精神を好み、自宅には達磨大師の書かれた掛け軸や置物が多く飾られていたという。自分で達磨の絵を描き、言葉を贈ることもあった
新大阪ホテルでの受章祝賀パーティー。力強く挨拶をする永井学長
どこからともなく校歌が流れ、全員の合唱のうちにお開きとなったという
関西音楽の歴史
「関西の地に研究・活動の機関を設け、声楽全般にわたる研究と、新人の育成を主たる目的として」(『二期会関西支部設立趣旨』より)関西に新たなオペラ団体が設立された
2月10日 関西民主音楽協会創立
東京に続き、関西にも労音、音協に次ぐ第三の音楽鑑賞団体として民音が誕生した
2月11、16~18日 京都市交響楽団、オペラ3作品を本邦初演(日生劇場)
第1回日生劇場音楽シリーズにおいて、森正指揮の京都市交響楽団がプーランク《声》、ヒンデミット《ロング・クリスマス・ディナー》、ストラヴィンスキー《放蕩児の遍歴》を本邦初演
産経新聞社、大阪新聞社主催で新たな総合芸術祭が創設された。伝統芸術、現代芸術、海外芸術という3分野に分かれる。音楽・舞踊各部門の新人競演会を行い、優秀者になにわ芸術祭新人賞を授与 している
第16回、17回定期公演のモーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》と《魔笛》(いずれも朝比奈隆訳詩・演出)などの野心的な新様式のオペラ演出による
4月11日~5月4日 第7回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
ソビエト国立交響楽団(現・ロシア国立交響楽団)、パリ音楽院管弦楽団、ケルン古典管弦楽団(現・カペラ・コロニエンシス)という3つのオーケストラの出演が過去にない特徴。ジョルジュ・シフラ(Pf)、ボーザール弦楽四重奏団、ユーゴ国立バレエ団、イーゴリ・ベズロードニー(Vn)も来演
取材活動を円滑かつ現場に直結したものとすることを目的に、在京阪神放送局の音楽プロデューサーにより発足。各局間の交流と各種研究会を通じての演出技術の向上も図られた
唱歌《鳩ぽっぽ》《お正月》等の作詞で知られる東くめ、ピアニスト東貞一親子の祝賀に関西楽壇の著名人が集まった
日本初のオリンピック開催に向け、大阪府・市民運動の一環として開催された。木村四郎指揮の歌唱指導による会場4,000人の東京五輪の歌《海を越えて友よきたれ》大合唱で場内の五輪ムードは最高潮となったという
京都市交響楽団、群馬交響楽団、札幌交響楽団が出演の三市交響楽団特別演奏会など9公演が行われた
10月1日 東海道新幹線開通
5日:毎日文化ホール
初日管弦楽、2日目室内楽、最終日テープ音楽のプログラムが組まれた。ストラヴィンスキー《エディプス王》を演奏会形式で本邦初演
11月9~11日 ロンドン交響楽団公演(フェスティバルホール)
大阪国際フェスティバル協会秋の特別公演として、東京、名古屋でも開催
羽田に到着したロンドン交響楽団一行
(昭和39年11月 フェスティバルニュース)
関西二期会の発足 相愛女子大学(現・相愛大学)や武庫川女子大学で指導にあたっていた二期会の有力会員である柴田睦陸、中山悌一と関西在住の声楽家達との間に交流が深まり、「1963年(昭和38年)二期会設立の趣旨とその活動に共感を持つ関西の声楽家により、二期会関西支部設立の機運が高まり、11月には浦山弘三、水谷堅の二人を中心に木川田誠、足立勝、柳瀬徹が、そして、柴田睦陸、中山悌一が加わり『二期会関西支部設立発起人会』が発足。翌1964年1月11日に、二期会との提携交流を通じて地域の音楽文化の発展に寄与することを願って「二期会関西支部」が正式に創立」された(同会30年誌による)。 |
口語童謡の先駆者──東くめ 「♪もう、いくつ寝ると、お正月~」。 普段何気なく歌われている歌であるが、実はこの歌は日本近代音楽史上において画期的な歌であり、最初期の口語童謡でもある。作曲家は滝廉太郎。作詞家は東(ひがし)くめ。東は『朝日新聞』のインタビューで、簡単な童謡が保育の現場で求められることを知り、試しに創ってみたところ大歓迎されて大いに広まったと、作られた当時の状況を述べている。 東は関西に縁(ゆかり)が深い。和歌山県新宮市に生まれ、ウヰルミナ女学校(現・大阪女学院)で学び、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に進学した。同期卒業生に安藤幸と永井幸次がいる。卒業後程なく教員の東新吉と結婚。めまぐるしい転勤生活を送ったあと、大阪府池田市に落ち着く。家族と暮らし、ピアノの先生として人生を送った。池田市、新宮市等に彼女が作詞した《鳩ぽっぽ》の歌碑がある。(一般に広く知られている、「♪ぽっぽっぽ」から始まる《鳩ぽっぽ》は『文部省唱歌』の《鳩》であり、別曲である。) |
大阪音楽大学の歴史
4月7日 創立者永井幸次 永眠(91歳)
4月16日 故永井幸次大学葬(本学ホール)
水川理事長を葬儀委員長として、本学ホールにおいて大学葬を執り行った。全国から多くの参列者がつめかけた。この日、故永井学長に正五位が追賜された
永井学長の大学葬が営まれた夜、緊急教授会において推挙され、理事会の承認を得て水川学長が誕生した。本学として第二期のスタートであった
4月 付属音楽高等学校、大学にいたる7年間の一貫音楽教育カリキュラムを実施
7月 第三期工事着工(現在のC号館)
永井学長の死去に伴い、記念式典は学内できわめて内輪だけの関係者によって行われた
18日:文化祭・バザー祭(本学内)
19日:体育祭(服部緑地グランド)
イギリスの世界屈指の伴奏者ジェラルド・ムーアの公開講座を開催。レッスン受講者はすべて本学教員で、聴講者は本学学生、教員をはじめ、関西の音楽大学の学生、教員ならびに関係者300人余りが集まった
11月13、14日 第19回学生音楽コンクール大阪(西日本)大会においてピアノ、独唱、ヴァイオリンの3部門で本学付属音楽高等学校生が1位入賞(毎日国際サロン)
11月17、22、24日 創立50周年記念演奏会
17日:大阪公演(フェスティバルホール)22日:神戸公演(神戸国際会館)24日:京都公演(京都大谷ホール)
本学が半世紀を迎えた記念の演奏会を京阪神3都市において開催。神戸は昼の芦屋女子学園の団体鑑賞を含む昼夜2回公演で、少しずつプログラムを組み替えて計4公演が行われた。この演奏会のために作られた田中喜一作詞、近藤圭作曲カンタータ《途上》が開幕を飾った
午後2時より創立50周年記念演奏会を行った後、同じ会場で午後6時半より定期演奏会を行い、ハイドン《天地創造》を全曲演奏した
このとき本学を含め34大学が加盟していた大阪私立短期大学協議会主催の第1回連合音楽会が開催された。各大学の合奏、合唱が発表され、宮本政雄教員指揮による本学管弦楽団がスメタナ《交響詩モルダウ》を演奏して音楽会を締めくくった
12月17、18日 創立50周年記念オペラ公演《魔笛》(大阪府厚生会館文化ホール・のちの大阪府立青少年会館文化ホール、現在廃館)
2日目は昼夜2回公演で、昼は学生対象であった。創立50周年記念事業の一環として、出演者を教員、卒業生からも選び、全学をあげて取り組んだ
関西音楽界の父、逝く いつも口癖のように「130まで生きますよ」と言っていたという永井学長が1965年(昭和40年)4月7日、脳軟化症のため、91歳でついに帰らぬ人となった。 9日に豊中梅花教会で密葬、16日に本学ホールで大学葬が営まれた。当日は、まず遺骨を9分通り竣工していた4階建ての本館(現在のA館)の学長室に安置した。一日でも一度でも永井に新しい学長室に入ってもらいたいと工事を急いだが、生前その願いは成し得なかったので、せめてもの心づかいであったという。 「大きな光が消えました。大きな、大きな光が消えました…」。祭壇に移された御霊に向かい、葬儀委員長の水川理事長が式辞を読み上げた。「先生のご生涯は全く本学の歴史であり、本学は先生のご生涯であります。それはまた関西における、我国における音楽教育の発達史であります…」。会場では本学の学生、生徒たちがフォーレ《レクイエム》より「天国にて」、永井の合唱曲《菊》、《春の海》、《つみ草》、そしてベートーヴェン《英雄》より「葬送行進曲」を演奏し、数多くつめかけた弔問客たちが次々に献花を行った。 高潔、至誠、温厚、律儀、滅私、慈愛、不屈、克己の人…。音楽不毛といわれた関西で半世紀以上も音楽教育に尽くし、関西音楽界の父といわれた永井幸次を表す言葉の数々である。敬虔なクリスチャンであり、終生音楽への情熱に燃えた永井の人生は、「音楽によって人類のために役立つように」という信念を具現化したものであった。繊細且つ強靭な精神を併せ持ち、戦時中、わずかに残った女生徒を学校代表として挺身隊に送る際、「再び平和の訪れと共に必ずこの学校は開く、私はこの学校に運命をかけている、もしこの学校がつぶれるような時は私も生きていない」とその気迫は鬼気迫るものがあったという。 来阪以前から数えると91年の生涯のうち約70年、音楽教育者として永井が残した功績は、現在のその知名度以上に大きいものがある。各地の音楽教師を歴任、教師たちの指導も行った。音楽教科書の乏しい時代にその発行編纂に努め、全国の音楽教育の振興に寄与。所在の分かる学校だけで31都道府県の校歌、および各種団体歌、唱歌、合唱曲などを多数作曲し、情操教育の向上に努めた。そして何より、私財を投じて本学を創設し、昭和40年当時で約3,000名、現在35,099名におよぶ音楽人を世に送り出した功績に勝るものはない。音楽教育は東京だけのものであってはならないとし、関西の地方文化向上に多大な貢献を果たした。 常に自分に厳しく、自己を律して生きていた永井は、自らの教訓とする言葉を多く残している。その一つに、「常に希望に燃え、夢を持ち続けよ」という言葉がある。永井は常に夢を持ち続けていた。「夢を実現し得た時の悦びは到底金では買えないものである」と記している。一つかなえれば、また次の夢、またその次と、尽きせぬ夢の実現が本学を発展へと導いていったのである。 永井が亡くなったこの年、信時潔、山田耕筰という関西ゆかりの2人の作曲家が、奇しくも同じくこの世を去った。 |
“第二期”スタート──水川新学長誕生 創立者永井幸次の死去に伴い、理事長水川清一が第二代学長に就任した。水川は理事長就任以前より、大阪音楽高等学校の設置申請の際、また短大設置について本学が紛糾した際、解決の労をとってきた。その手腕を買われて1950年(昭和25年)理事長就任以来、厳しい状況下、様々な局面をその非凡な才で牽引してきた実績もあった。永井学長の大学葬を執り行った4月16日の夜、緊急教授会において満場一致で推薦され、理事会もこれを承認、短期大学部学長および付属音楽高等学校校長もすべて水川に引き継がれることとなった。本学は新たな指導者の下、“第二期”のスタートを切った。 理事長に加え学長の重責をも担うことになった水川は、実に数々の経歴の持ち主である。大阪府青年教員養成所教諭をふりだしに、大阪府社会教育主事、京都府社会教育課長、文部省社会視学官を経て、文部省派遣の北京大使館文化班勤務ののち、日本放送協会教養部長、大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)初代局長となる。さらに大阪府教育委員を務め、大阪工業大学理事長を歴任。また大阪福祉事業協会理事長、身体障がい者協会会長などの役職も多く、一時期関西交響楽協会専務理事も務めていた。 「知識人は勇気を持て」が持論。大阪中央放送局長時代にはアイスクリームを作って売ったというエピソードもあり、常識を超えて前進するというのが信条だったようである。本学においてもビニール製の屋根の野外音楽堂を考案し、映画による大学昇格記念式典を演出したのも水川であった。稀代のアイデア・マンといえる。 社会学が専門で本学でも教鞭をとっていたが、音響学なども研究し、東京の電気技術の短期通信教育で指導も行っていた。「音楽に科学性を持たせる必要がある」として文部省にかけあい、音響研究のための機材を購入。「“産業と音楽”の握手を手がけたい」と、当時社会で言われつつあった産学連携をいち早く模索していた。 水川は学長就任当時の抱負を次のように語っている。「音楽教育といっても人間形成を優先すべきで、中央楽壇で活躍できる人はごくわずかでしょうし、音楽的教養が身につく教育を推し進めたい」。働きながら学ぶ人達のために夜間部を拡充して広く門戸を開放するため、翌1961年度(昭和41年度)短期大学部第二部を音楽専攻として開設。偉大な創立者の跡を受け、本学の行く末をゆだねられた水川は、その発展の大きな原動力となって歴史をつないでいくことになる。 |
第二代学長 水川清一
水川理事長考案の緑色鍵盤ピアノ(音楽博物館所蔵)1963年(昭和38年)水川理事長が考案し、日本楽器株式会社(現・ヤマハ株式会社)に試作させた
文部省から科学振興の名目でピアノ5台分の助成を受けたという。もしかすると、他に4色の鍵盤のピアノがあったのかもしれない
校歴半世紀を刻んで 1965年(昭和40年)10月15日、本学はついに創立50周年を迎えた。前日からの雨はやみ、秋空高く晴れ渡る好き日であったという。本来であればその主役であったはずの創立者永井幸次を欠いた記念式典は、学内においてきわめて内輪だけで簡素に執り行われた。 本学ホールの壇上に立った水川学長は、半世紀の長きにわたり校長・学長として在職した故永井学長を世界でも稀有の存在であると讃えて、故人を偲んだ。そして、付属高校・短期大学・音楽学部を合わせて学生・生徒が1,000名を超したこと、さらに進行中の施設の改築、児童学園の拡充、音楽文化研究所の設置、寄宿舎の増設、日本古来の伝統音楽を研究・教育する邦楽科の新置などの計画もあり、5年後には大学院も設置する準備を進めていることを発表した。これらはすべて先代永井が長年求めてきたことであった。 その後の本学の催しはすべて「創立50周年」と銘打って開催された。中でも11月17日から大阪、神戸、京都で行われた創立50周年記念演奏会は対外的には初の記念行事となった。初日のフェスティバルホールはこの日のために田中喜一、近藤圭両教員が作詞、作曲したカンタータ《途上》で幕を開けた。 はるけくも 歩み来し方 五十年── ひたすらに 歩みはこばむ 同日夜には同じ会場で第8回定期演奏会も行い、ハイドン《天地創造》を全曲演奏した。 12月には第6回オペラ研究公演を創立50周年記念公演として2日間、大阪府厚生文化会館文化ホール(のちの大阪府立青少年会館文化ホール、現在廃館)においてモーツァルト《魔笛》を上演した。このときは学生を中心に、教員、卒業生も出演し、全学をあげて創立半世紀の教育成果を世に問う公演となった。この模様は、年末の26日にNHK教育テレビで放映された。 こうして本学は半世紀をもって一時期を画し、さらに次なる半世紀へと前進を続けたのである。 |
楽屋にて
関西音楽の歴史
5日:京都会館第一ホール(リサイタル)
2月4日 V.ヴァンゲンハイム指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団定期演奏会でチャイコフスキー《ピアノ協奏曲第1番》を演奏
年間8回にわたる定期演奏会をはじめ、とくに進境著しい演奏活動が評価された
3月13、14、16、17日 大阪労音 ブリテン《戦争レクイエム》関西初演(フェスティバルホール)
外山雄三第一指揮 桜井武雄第二指揮 伊藤京子(Sop)藤沼昭彦(Ten)栗林義信(Bar)大阪フィルハーモニー交響楽団 大阪労音合唱団 箕面小学校コーラス部
東区森ノ宮に位置する総合文化センターで、1288人収容の文化ホールを設置。のちの大阪府立青少年会館文化ホール(現在廃館)
4月7日 永井幸次 没
4月12日~5月2日 第8回大阪国際フェスティバル(フェスティバルホール)
バイエルン放送交響楽団(ラファエル・クーベリック指揮)、ジュリアン・ブルーム(Gt・Lu)、ミラノ室内歌劇団、クラウディオ・アラウ(Pf)、イーゴリ・マルケヴィッチ(Cond)、ビクトリア・デ・ロス・アンヘレス(Sop)、コメディ・フランセーズが来演。ミラノ室内歌劇団はエンニオ・ジェレッリ指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団の演奏、関西歌劇団の合唱でモンテヴェルディ《オルフェオ》を本邦初演。大阪のみの公演で、オペラに携わる専門家らが全国から集まった
5日:大阪府厚生会館文化ホール
朝比奈隆指揮・演出 大阪フィルハーモニー交響楽団
大栗裕の自作指揮、茂山千之丞演出の《おに》と併演
九州地方を中心に巡演した
5月30、31日 大阪フィルハーモニー交響楽団初の沖縄演奏旅行(琉球大学体育館)
7月12日 日本演奏連盟創立
クラシック音楽の演奏家及び演奏業務に携わる人相互の連携、技能・教養の向上、および利益擁護と福祉厚生を図ることを目的に設立。昭和50年に関西支部も設置される
8月1日 信時潔 没
8月23日 神戸労音 プロコフィエフ《平和の守り》本邦初演(神戸国際会館)
外山雄三指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団、神戸労音合唱団、大阪放送合唱団、神戸中央合唱団、箕面小学校コーラス部
9月13日~18日 大阪フィルハーモニー交響楽団山陰地方巡回演奏会
全国で初めて文部省の芸術振興助成金を得て、6日間計9公演を行い、19,000人の聴衆を集めた。地方文化の向上に大きな役割を果たしたとされる
10月1~6日 スラブ歌劇公演(フェスティバルホール)
《ボリス・ゴドノフ》《売られた花嫁》《イーゴリ公》《エフゲニー・オネーギン》
《ボリス・ゴドノフ》
(プログラムより)
NHKが放送開始40周年を記念して、ユーゴスラビアのザグレブ国立歌劇場を中心に、ベオグラード、ソフィア両国立歌劇場も加えた歌手・指揮者45名、合唱団95名、バレエ団40名、演出はじめ舞台関係スタッフ15名の総勢約200名からなるスラブ歌劇団を招聘。全演目がテレビ・ラジオで放送された。7日は特別演奏会開催
室内楽の普及、バロック音楽の演奏を主な目的に、大阪フィルハーモニー交響楽団のメンバーが中心となって合奏団を結成。定期演奏会には毎回、日本人作曲家の委嘱作品も演奏。初回は大栗裕《弦楽のための2章》
アーノルト・シェーンベルク《月に憑かれたピエロ》、フランク・マルタン《弦楽合奏のためのエチュード》(本邦初演)等を演奏
12月29日 山田耕筰 没
大阪からの発信 <内地> 音楽文化が成熟するにつれて徐々に試みられるようになるのが文化の発信である。早くも大阪では大正期から大阪音楽学校による演奏旅行が試みられているが、1963年(昭和38年)に初回、1965年(昭和40年)に第2回が開催された大阪フィルハーモニー交響楽団によるビクター・コンサートホールは、西日本の人々を中心に交響楽に接する機会を与える画期的な試みとなった。日本ビクター株式会社の協賛を得て、大阪フィルハーモニー交響楽団が地方都市で演奏会と中学・高校生のためのオーケストラによる音楽教室を開催するという企画であり、第2回の巡業ルートは次の通りである:5月16日姫路、23日広島三次、24日八幡、25日大分、26日熊本、27日鹿児島、6月1日佐賀、2日佐世保、3日八幡。 連日開催という過密スケジュールが目を惹くが、演奏会は各地で大好評を持って迎えられた。当時の新聞は2,000人以上詰めかけた会場もあったと報じている。学校での講習会も考慮するならば、膨大な数の人々が西洋音楽を楽しんだことだろう。なお、演奏会場が地域文化の状況を示していることも興味深い。「会館」や「ホール」という名称に「体育館」が混じる。体育館で演奏会を開催せざるを得なかった事情が推し量られる。 ところで、同年秋にも大阪フィルハーモニー交響楽団は山陰へ演奏旅行を行った。文部省の芸術振興補助金によるもので、この種の試みが助成されたのはわが国初のことであった。 <外地> 第2回ビクター・コンサートホールの合間を縫って行われた大阪フィルハーモニー交響楽団による沖縄演奏旅行もまた、両日とも琉球大学体育館に2,000人以上の聴衆が詰めかける大盛況となった。沖縄の人々の西洋音楽への強い興味関心がうかがえるが、交響楽団の来沖はシンフォニー・オブ・ジ・エアが1回、NHK交響楽団が2回を数えるのみだったということも関連していたに違いない。演奏曲目は初日が《ニュルンベルクの名歌手》、《運命》、《新世界より》、二日目が《フィンランディア》、《未完成》、《英雄》であった。 団員は渡航に際してビザをとる必要があった。また、到着早々に糸満市字摩文仁(まぶに)の大阪府関係戦没者を追悼する「なにわの塔」において、《国の鎮め》、《大阪市歌》、《君が代行進曲》等が霊前演奏された。加えて初日の演奏会は《アメリカ国歌》と《君が代》の演奏で始まり、二日目はこれが中止された。二日目に際して《君が代》だけにしてくれという希望があり、これに難色が示されて、結局国歌無しになったのである。当地の人々は《新世界より》をどのような思いで聴いたのだろう。沖縄の戦後は1972年(昭和47年)から始まる。(データは『関西音楽新聞』第158号による) |
広告は世相を映す(2) 入場券 コンサートに出かける際にインターネットを通じて入場券を手に入れることは今やまったく当たり前のようになってしまっているが、インターネットの普及は21世紀の出来事であり、チケットぴあが誕生したのは1984年(昭和59年)であった。それ以前の人々はどのようにしてチケットを入手したのだろうか?時代を生きた老音楽愛好家に尋ねるのも一つの方法だが、時代を生き延びた案内チラシもまた当時の状況を昨日のことのように伝えてくれる。 画像は京都会館第1ホールで行われたシュヴァルツコップ関西初公演の入場券販売に関する案内チラシである。手に取り、真っ先に目に飛び込んでくるのが、「世界の至宝=現代最高の名歌手! エリザベート シュワルツコップ 7月24日前売開始 予約受付け致します」という言葉である。前売と予約が行われていたことがわかる。そして、チラシの解説を引くならば「入場券は市内主要プレイガイドにて、7月24日より前売を開始します」という次第であり、京都市内でチケットが直接売られていたことが判明する。 他方予約は、「音楽愛好家の皆様のご便宜をはかるため、予約を承りますので申込書にご記入のうえ、おはやめにお申込みください」という具合であった。郵便で申込書を送付するシステムであり、入手は「早い者勝ち」である。そして予約のお金とチケットの受け渡しはというと「ご送金の場合は、郵便事故防止のため書留にてお願い致します。なお返信料(切手で可)同封頂ければ、券をお送り致します」という具合であった。現金書留でお金を送るとチケットが返送される方式である。 「直接予約お申込みに来ていただいた場合は8月15日までは、A券(2,500円)B券(2,000円)をそれぞれ5%割引致します。なおC券(1,500円)D券(1,000円)は、枚数僅少のため予約受付できませんのでご諒承ください」という記述もあり、割引販売が行われ、安価なチケットは通信販売で入手できないという状況も判明する。その他、分割払いも受け付けていて、良席が一般庶民にも開かれていた。 銀行のオンラインシステムが全国を結び始めたのがちょうどこの頃からであった。郵便によって情報とお金が行き来する世界、町の演奏会が町の人々によって消費される世界が見えてくる。 |
山田耕筰の軌跡 暮れも押し迫った27日、山田耕筰が息を引き取った。享年79歳。平均寿命が60代後半だった当時を考えれば、かなりの長寿である。 《赤とんぼ》の人として広く知られている山田耕筰は、波乱万丈の人生を送った。1886年(明治19年)東京生。父は伝道師・医師。まず、生活にはキリスト教があり、キリスト教を通じて音楽があった。また、10歳の時に父を亡くすが、教会の施設で数年を過ごすことになったために、引き続いて宗教と西洋音楽の中で育つことになった。明治期、キリスト教は日本人が西洋音楽に触れる数少ないチャンネルであった。島崎赤太郎、永井幸次、信時潔、鷲見三郎等々、キリスト教を通じて西洋音楽の世界に親しみ、後に大成した音楽家は数えきれない。 山田はその後、姉の援助を得て関西学院中学部に学び、次いで東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学する。当然のことながら成績優秀であったが、教官のユンケルと言い争ってチェロの弓をひったくり真っ二つに折ったり、悪友と飲み歩いたりと、血気盛んな学生でもあった。1908年(明治41年)卒業。同期卒業に童謡界で活躍した本居長世、新潟の音楽教育界を担った斉藤正直がいる。 岩崎小弥太の援助を得て1910年(明治43年)から1912年(明治45年)にかけてドイツ留学。作曲に演奏にと、海外での活躍ぶりは周知の通りである。また、帰国後も交響楽団を組織したり、オペラ上演に取り組んだり、よりいっそうの活躍を続ける。当時の作品に《かちどきと平和》がある。明治期日本の音楽文化状況を思い描くならば、高度に洗練された驚くべき作品である。 昭和が始まり軍国主義が猛威を振るうようになっても、山田の快進撃は止まらなかった。日本音楽文化協会の副会長・会長を歴任し、軍服を着て飛び回った。戦争が終わって民主主義が布かれても山田は創り続けた。また、大阪国際フェスティバルにおいて贅を尽くしたオペラ《黒船》が上演された時には指揮棒を取った。相愛女子大学(現・相愛大学)では教育活動に取り組んだ。振り返ると大阪での活動が目立つが、風土に居心地の良さを感じたのかもしれない。 1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れ、山田は長い闘病生活を送ることになった。文化勲章授与という名誉を得た山田であったが、運動の自由を奪われた晩年となった。彼にとってはおそらく失意の晩年だったことだろう。 なお、山田耕筰よりも一年遅く生まれ同年に亡くなったのが、《海ゆかば》で有名な信時潔である。大阪生まれで、父は大阪北教会の牧師。市岡中学を経て東京音楽学校に学び、卒業後そのまま助教授になる。官費留学、皇紀二千六百年奉祝芸能祭制定《交声曲「海道東征」》の作曲、1963年(昭和38年)には文化功労者に選出という栄誉の人生を送った。 |