グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



大阪音楽大学について

ホーム > 大阪音楽大学について > 100周年史 > 1931年~1945年

1931年~1945年



1931年(昭和6年)

大阪音楽大学の歴史

2月26日 第二回大阪音楽学校公開演奏会(朝日会館)
教員、生徒の混成で、シューベルトの交響曲《未完成》の第一楽章を演奏。本学初のオーケストラ演奏となった

教員とラジオ放送
JOBK(大阪中央放送局)の放送が本格化するなか、大阪音楽学校の教員たちもラジオ放送出演の機会が多くなってくる。

1930年代の放送のなかでは、本学の教員はロシア人演奏家やJOBKの大阪フィルハーモニック・オーケストラ(メッテル指揮)、宝塚交響楽団(ラスカ指揮)などと並んで頻繁に登場している。

代表的な演奏家として
  • 田中平三郎(ヴァイオリン)
  • 片山(永井)静子(ピアノ)
  • 伊達三郎(チェロ)
  • 永井八重子(声楽・ソプラノ)
  • 合唱指揮者として
  • 長井斉

関西音楽の歴史

9月18日 満州事変(柳条湖事件)勃発
朝日会館にてハイフェッツ、シゲティら世界的ソリストが公演
10月:ヤーシャ・ハイフェッツ公演プログラム・大阪第一夜(10月3日)※クリックで拡大します。

9月14日、12月19日 貴志康一 提琴独奏会
貴志康一(1909〜1937)が2度目の欧州留学、一年半にわたるベルリンでの研鑽を経てからストラディバリウスを携えて帰朝し、朝日会館でリサイタルを開催したのは1931年9月14日のことである。
阪神間のモダニズム文化の申し子ともいえる彼の華やかな生い立ち(大商家に生まれ、阪神、深江村のロシア人ヴェクスラーに師事、甲南高等学校を中退しジュネーブ音楽院に留学)と容姿は、演奏や作曲活動に独特の彩りを添えていたに違いない。
同年12月19日にもリサイタルを開き、新聞記事には「時価5万円の名器を手にする」と記された演奏写真が掲げられ、音楽界のスターとして脚光をあびた様子がうかがえる。ちなみに当時、高価なグランドピアノが500円ほどであった。12月19日の演奏会では、自作《小さな日本組曲》やファリャの《スパニッシュ・ダンス》などが演奏された。1934年(昭和9年)11月にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したことが新聞で大きく報じられることになる。
主要作品に、交響曲《仏陀》、バレエ曲《天の岩戸》、その他、多くの歌曲がある。

9月14日 貴志康一提琴独奏会 プログラム

※クリックで拡大します。
名演奏家たちのアジアツアー
1920年代から30年代の二つの世界大戦にはさまれた戦間期になると、世界的ソリスト達が次々に来日公演をおこなうようになる。
そして1926年に朝日会館が開館すると、大阪公演は必ず朝日会館で、という時代になる。
大物演奏家の場合、 A.ストローク(Awsay Strok、ユダヤ系ラトビア人)がプロデュースすることが多く、公演主催は「朝日新聞社会事業団」(現・朝日新聞厚生文化事業団)である。ストロークは長く上海に在住していたため当然、これらの演奏家たちは上海でも公演を行っている。そればかりか、これは音楽家、舞踊家たちがアジアの諸都市をまわる「アジアツアー」でもあった。大阪は、東京や場合によっては名古屋、京都、神戸と同様に、アジアツアーのなかの拠点都市に組み込まれていたのである。
当時のプログラムは西洋人演奏家の場合(一部の邦人演奏会も)、欧文、日本語二カ国語表記が主流であった。ハイフェッツの場合、大阪、京都、神戸と関西だけでも3カ所(このほか、東京、名古屋でも公演があった)で4夜の公演をおこない、プログラムは4夜それぞれ異なる内容となっている。料金はA席が5円、邦人演奏家の2〜3倍の価格であった。
ストロークがプロデュース、朝日会館が会場となった主な公演(演奏家たちは大阪以外も数カ所を巡業することが多かった)
  • 1929年10月30日、11月2日 アンドレアス・セゴヴィア(ギター)
  • 1930年10月3、4日 エフレム・ジンバリスト(ヴァイオリン)
  • 1931年2月4、5、7、8日 ザハロフ夫妻舞踊公演(バレエ)
  • 1931年6月5、6、7日 ヨーゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)
  • 1931年10月3、4日 ヤーシャ・ハイフェッツ(ヴァイオリン)
  • 1935年4月26、28日 アルトゥール・ルビンシュタイン(ピアノ)6月5、7日 ガリ・クルチ(ソプラノ)
  • 1936年5月5、7、10日 エマヌエル・フォイヤマン(チェロ)6月4、5、9、10日 ジャック・ティボー(ヴァイオリン)10月15、16、18日
  • グレゴール・ピアティゴルスキー(チェロ)
  • 1936年2月12、14、16、19日にはフェオドール・シャリアピン(オペラ歌手・バス)がストロークのプロデュースにより朝日会館ではなく、大阪市中央公会堂でリサイタルを開催
日本公演と同じようにストロークのマネジメントであることが明記されている

ハイフェッツ上海公演の新聞広告
(上海の仏語新聞Le Journal de Shanghai、1931年11月8日)

1932年(昭和7年)

大阪音楽大学の歴史

2月20日 大阪音楽学校第三回公開演奏会(朝日会館)
ハイドン交響曲《驚愕》ほか、教員の独奏など
プログラム最後は混声合唱曲として、ハイドン《テレジアンミサ》(テレジアミサ)の中からグローリアがオーケストラ伴奏で演奏された。本学合唱団に加えて、大阪コーラルソサエティーが参加

プログラム
※クリックで拡大します。

6月8日 大阪音楽学校演奏会(樟蔭高等女学校 現・大阪樟蔭女子大学)
先の第三回公開演奏会では「大阪音楽学校管絃楽部員」としていたが、ここで初めて「大阪音楽学校管絃楽団」という名称に変わる

プログラム
※クリックで拡大します。

9月27日 合同大演奏会(朝日会館)
田中平三郎(本学ヴァイオリン主任、ソリスト、京大オーケストラ賛助出演など)、詠人(ヴァイオリン)、伸枝(ソプラノ)ほかによる本学主催演奏会 田中平三郎ら三氏はラジオ放送でも活躍していた

関西音楽の歴史

作曲講座の写真 山田自筆サイン入り(三木楽器株式会社提供)

3月17〜19日 陸軍戸山学校軍楽隊が《爆弾三勇士の歌》を市内三カ所で演奏、行進
18日には《肉弾三勇士の歌》発表演奏会(朝日会館)山田耕筰作曲の楽譜10万枚が無料で配布される
4月21日 山田耕筰第1回作曲講座 三木ホールにて開催
邦人演奏家の渡欧、帰朝公演が増える

三浦環独唱会プログラムより

藤原義江<オペラの夕>プログラムより

6月5~7日:三浦環帰朝公演
5、6日:朝日会館 7日:旧関西学院講堂
6月20〜22日 藤原義江帰朝公演 
20日:京都市公会堂 21日:旧関西学院講堂 22、23日:朝日会館
9月20〜22日 藤原義江<オペラの夕> 
20、21日:朝日会館 22日:京都市公会堂
11月4日 日本国民歌発表音楽会(大阪市中央公会堂)
山田耕筰指揮、宝塚交響楽団5000名の聴衆を集めた。
その後「愛国のメロディ」「愛国歌」「国民歌」といった冠をつけた演奏会が増え続ける。
現存するわが国最古の楽器店 三木楽器
1825年(文政8年)に「河内屋佐助」と称し書籍業を始めるが、1888年(明治21年)に楽器部を創設してヤマハのオルガンを販売したことをきっかけに、本格的に楽器の販売、楽譜や音楽書の出版・販売などを手がけるようになる。
1921年(大正10年)にはドイツ・スタンウェイ社の日本総代理店となり、1925年(大正14年)に翻訳出版権を得て刊行した「コールユーブンゲン」は、今なお声楽を学ぶ人たちのソルフェージュ教本として広く利用されている。
同年、創業100周年を記念して「三木ホール」を開館。演奏会場を提供するとともに、山田耕筰や本学校長の永井幸次など著名な音楽家を招いて講習会を開催するなど、洋楽の啓蒙活動も積極的に行い、関西の洋楽界を支える大きな存在の一つとなった。
四代目の三木佐助と永井幸次ら音楽家との親交は深く、それを表す書簡も残っている。

スタインウェイ広告 大正12年4月11日 大阪毎日新聞

1928年(昭和3年)の三木楽器 商品目録


1933年(昭和8年)

大阪音楽大学の歴史

2月 大阪音楽学校学則制定

3月 大阪音楽学校後援会創設

4月 特別専門科をおく(永井校長が財団法人大阪音楽学校設置を念頭に発案)
これは芸術家育成のための特別コースであった(教授陣はすべてロシア人 ピアノ科はマキシム・シャピロ、ヴァイオリン科はアレクサンダー・モギレフスキー、声楽科はオルガ・カラリロワが担当)
4月27日 大阪音楽学校から「第4回オール日本新人演奏会」(日比谷公会堂)に初参加
関西からは本学と神戸女学院音楽部から初参加とある

第四回オール日本新人演奏会チラシ

※クリックで拡大します。

1934年(昭和9年)第5回オール日本新人演奏会への本学出演者(同演奏会プログラムより)

※クリックで拡大します。
12月 財団法人大阪音楽学校設立認可
大阪音楽学校のカリキュラム
定員350名とした大阪音楽学校の課程は本科2年、高等科4年、あるいは本科ののち、専攻科2年、または師範科3年といったコースが設置されていた。
専攻科、師範科はともに小、中学校の教員を養成するものであった。
もちろん男子部と女子部に分かれていた。
授業内容は、今日の音楽大学のそれと比べると、唱歌と作曲学が入っていることが目をひく。全員が初歩的な作曲を行うことが必要な時代であった。
専門実技と副科ピアノ、唱歌、音楽通論、和声学、作曲学、音響学、音楽史、教育学ほか合唱、合奏など西洋音楽の基礎を身につけるカリキュラムとなっている。また国語、外国語、心理学、美学も教えられていた。

学則 1933年(昭和8年)

新カリキュラム初の成績表 1933年度(昭和8年度)

関西音楽の歴史

《リゴレット》公演(『会館芸術』昭和8年 第2巻-第2号)

3月15日 大阪ラヂオオーケストラ結成
3月17日 邦人によるヴェルディ作曲オペラ《リゴレット》関西初演(日本語上演、朝日会館)
18日:同会館 19日:京都市公会堂
指揮、歌手、オーケストラ、演出まで全て日本人のみで上演された。東京のヴォーカル・フォアという団体の関西公演であったが、オーケストラは宝塚交響楽団、合唱にはアサヒ・コーラス団が加わった
8月5日 大阪地下鉄(梅田〜心斎橋)開通
ラジオの時代と放送管弦楽団
昭和になってラジオ(当時はラヂオと表記)は娯楽の大きなメディアとなっていった。もちろん、洋楽以外の日本音楽や民謡のプログラムもあり、浪花節がラジオを通して大流行していた。ピアノ伴奏の浪花節まで登場し放送されたのが昭和8年のことである
交響曲や室内楽、合唱曲など、関西在住の音楽家や、東京や外国からの音楽家の生演奏をラジオを通じて楽しむ、あるいはピアノ作品解釈講座など啓蒙的な番組も放送されていた。
当時のSPレコードの録音時間が非常に短かったこともあり、ラジオは長大な作品を中断せずに聴くことができるという点で、すぐれたメディアだった。
この年、東京放送管弦楽団創立に先立つこと4年、大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)内に全国初の放送管弦楽団「大阪ラヂオオーケストラ」が誕生し、10月17日に第一回演奏会を開いている。当時音楽関係の企画が多かったので、完全に放送局専属の楽団として編成された。全国から団員を募集し、選考の結果15名が選ばれた。
音楽番組はもちろん、ラジオドラマの伴奏や演奏会でも活躍した。のちにメンバーは35名に増え、「大阪放送管弦楽団」と改称。以後、団員数もさらに増え、戦後も大阪放送交響楽団の名で活動し、関西の音楽界に大きな影響を与えた。つまり、1925年(大正14年)に誕生したJOBKオーケストラが改称して大阪フィルハーモニック・オーケストラとなり、この大阪フィルが解散し、大阪ラヂオオーケストラが誕生、改称して大阪放送管弦楽団へ、と改称と再編を繰り返したことになる。
5月14日 大阪日日新聞社主催「大阪アマチュア音楽競演大会」開催
前年に東京で時事新報社主催の音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)が開催されたが、約1年後、関西でも初めての本格的な音楽コンクールが大阪市中央公会堂を会場に、大阪日日新聞社の主催で行われた。審査委員長を山田耕筰が務め、大阪音楽学校長の永井幸次、金澤塾(大阪で本格的なピアノ教育を行っていた私塾)を主宰することになるピアニストの金澤孝次郎、大阪市音楽隊隊長の林亘など関西楽壇の主だった顔ぶれの25名が審査を行った。
4月30日、三木ホールにおいて70名の参加者で予選を行い、ピアノ8名、ヴァイオリン4名、声楽4名、チェロ2名の合計18名が本選に進んだ。1933年(昭和8年)5月16日の大阪日日新聞には、このときつめかけた聴衆は3千名と記されている。1位に輝いたのは、ラフマニノフの《舟歌》などを演奏した原田千代子という女性であった。
合唱いよいよ盛んに〜アサヒ・コーラス団
わが国は世界でも有数の合唱が盛んな国であり、全国に合唱団は数万あるとも言われている。しかし、明治末期においても独唱でないもの以外、複数人数で歌うものはすべて“合唱”という言葉を使うなど、西洋音楽における合唱という概念が広く世間に浸透するようになるのは比較的遅かった。
教会の聖歌隊や音楽学校の生徒、唱歌教育を受けた学生サークルによって形成されたグリークラブなどを除くと、合唱団というものが一般市民の間で組織されるようになるのは大正期であり、そしてレコードやラジオといったメディアによって西洋音楽が大衆化し、洋楽愛好者がさらに増えた昭和期にかけて急速に広がりをみせる。昭和に入り、大学グリークラブ、音楽学校卒業生による合唱団、交響楽団と共演する合唱団など、多種多様な合唱団の名称がラジオ番組に見いだせる。
この年に開催された邦人によるオペラ《リゴレット》関西初演にも東京からの合唱団に加えて「アサヒ・コーラス団」が名を連ねている。
アサヒ・コーラス団は1926年(大正15年)に大阪朝日新聞社主催の全国中等学校野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の応援歌を歌う合唱団を募集した(このときは男性のみ募集)のをきっかけに結成された。60名を超える応募があったようだが、結成当初のメンバーは旧制中学2年生から唱歌の教師、専門学校生や商人に勤め人など様々であったという。翌年には混声合唱団となり大阪朝日新聞社主催の野球大会で活躍するほか、オペラやこの時期の合唱付き交響楽作品に数多く参加している。1934年(昭和9年)1月17日には「合唱の夕」として朝日会館で単独の合唱演奏会を開催している。本格的な合唱団の先駆け的存在であった。1973年(昭和48年)に大阪フィルハーモニー合唱団として発展的解消を遂げ、現在も大阪フィルハーモニー交響楽団の専属合唱団として活躍している。

大阪中央放送局で「野球大会の歌」を歌うアサヒ・コーラス団
(昭和2年8月11日 大阪朝日新聞)

1934年(昭和9年)

大阪音楽大学の歴史

3月 専攻科(甲種師範科を改称)第1期生卒業、乙種師範科を廃止

5月9日 大阪音楽学校専攻科の課程を終えたものに「府立小学校音楽科専科正教員の無試験検定」認可

学生控え室の一コマ(昭和9年頃)

味原校舎講堂での合唱練習
1934年(昭和9年頃)指揮は長井斉教授

関西音楽の歴史

9月 オペラ《ラ・ボエーム》公演
17、18日:朝日会館
29、30日:京都南座
主演、藤原義江 作曲家の江文也がバリトンで出演

東京日比谷公会堂での公演を関西にて再演(宝塚交響楽団)
(昭和9年9月14日 大阪朝日新聞)
10月 関西トーキー音楽協会設立
トーキー映画によって失業した無声映画の楽士たちを救済
無声映画からトーキー映画へ(楽士の失業)
大正時代、人々が洋楽に接することができる場所として、演奏会以外に映画館があった。当時は無声映画であったため、弁士が内容を語り、映画を盛り上げる効果音楽が楽団によって生演奏されていたのである。
無声映画音楽は、明治末期の民間音楽隊に始まり、ピアノと弦楽器など編成を変えながら、1919年(大正8年)〜1920年頃、管弦楽に定着するようになった。10~15人程度の小規模な管弦楽団ではあったが、映画の伴奏だけでなく、休憩時間には「休憩奏楽」というサービスで、単独の演奏も行っていた。この頃の流行からか歌劇の序曲、抜粋曲などが多かったようである。弁士の語りとともにこの伴奏音楽の魅力は興行成績にも影響していたようで、有名映画館はお抱えの楽団を持ち、映画の広告には曲目や演奏者を明記して集客に努めた。音楽家にとっても映画館はプロとして腕前を披露できる、貴重な場所の一つであった。
その貴重な場所を奪うこととなったのが、トーキー映画の出現である。
音や声をともなうトーキー(talkie)映画時代は、アメリカで1920年代末より始まり、邦画作品の製作は1931年の『マダムと女房』が最初である。トーキー映画の主流化に伴う常設館楽士の失業は、社会問題化しつつあったため、失業した楽士の救済とトーキー音楽のレベル向上を目的に「関西トーキー音楽協会」が設立された。これはトーキーおよびレコード伴奏その他の事情で解雇された優秀な音楽家をトーキーの吹込みや様々な演奏の仕事に斡旋しようというものであった。
関西の主要な放送音楽家、楽長級の楽士たち39名が協会員として加入し、11月には早速トーキー映画の伴奏音楽を録音している。京都河原町に事務所を置き、トーキー映画の伴奏のみならず、社会事業の演奏会などには積極的に出演していきたいとの意気込みも持っていたようである。

松竹座の広告(大正12年6月18日 大阪朝日新聞)


1935年(昭和10年)

大阪音楽大学の歴史

2月21日 永井幸次先生楽壇40年祝賀音楽会(朝日会館)
教員による室内楽のほか、永井作品(合唱曲)の指揮は永井本人、最後は永井作曲の《浪華のゆかり》という構成

プログラム

4月21日 大阪音楽学校生徒 斉唱と混声合唱を全国放送
(JOBK桃谷演奏所にて撮影)

※クリックで拡大します。

6月に大阪府より授与された初の小学校教員免許状

関西音楽の歴史

4月26、28日 アルトゥール・ルビンシュタイン ピアノ独奏会(大阪朝日会館)

プログラムより

9月15日 大阪交響楽協会設立(指揮者にはE.メッテルが就任)
所属組織をこえて在阪の音楽家が楽団を結成
10月21~24日 藤原歌劇団(当時は藤原義江一党などと称す)関西公演(大阪朝日会館)

21、24日
ビゼー作曲オペラ《カルメン》
22、23日
ヴェルディ作曲オペラ《リゴレット》

※クリックで拡大します。

1936年(昭和11年)

大阪音楽大学の歴史

講義風景(昭和11、12年頃)

大阪音楽学校で教える朝比奈隆
学生の朝比奈評「早口で講義されるので時々ノートを書き損ふ。生徒を見くびつて居られないのが先生の美点です」『楽友』第十一号より
2月18日 大阪音楽学校創立記念音楽会(大阪朝日会館)
この音楽会が朝比奈隆の指揮者デビューとなる

京都宝塚劇場での演奏(株式会社JEUGIA提供)

11月17、22日 関西人によるベートーヴェン《交響曲第9番》初演(京都大学音楽部創立20周年記念演奏会)に出演(17日:京都宝塚劇場 22日:大阪朝日会館)
合唱、合唱指揮、ソリスト、コンサートマスターと、本校あげての参加であった
11月21日 作曲科 研究発表会(作曲科という言葉はこの時初出)
大阪音楽学校と朝比奈隆
朝比奈隆は一度卒業した京都大学に、音楽を目的として再入学し、二度目の学生生活を送ることになる。彼が音楽理論と指揮法を個人的に師事したのはロシア人エマニュエル・メッテルであった。そのメッテルは、京都大学とJOBKラジオ放送(大阪中央放送局)オーケストラの指揮者として、関西に本格的な西洋音楽をもたらした人物である。
朝比奈は恩師である本校教員のチェリスト伊達三郎の紹介で、1934年(昭和9年)本校に奉職。音楽史、美学などの講義を担当し、1942年(昭和17年)大阪放送管弦楽団の専属指揮者となり一旦退職するが、戦後復職。一時期、校内のスタジオ兼講堂を自身の率いる関西交響楽団(現・大阪フィルハーモニー交響楽団)が使用するといった密接な関係もあり、亡くなるまで本学名誉教授であった。

2月18日 大阪音楽学校創立記念音楽会 プログラム
朝比奈隆の指揮者デビュー曲はプログラム5番のポッパー《ハンガリア狂詩曲》であった

※クリックで拡大します。

昭和12年頃 職員室風景(左、手前から4人目が朝比奈隆)

昭和11年頃
演奏旅行先の宿舎にて 
左から山田康子、朝比奈隆、長井斉、永井校長、木村四郎、伊達三郎、田中平三郎

《第九》初公演に参加した本校関係者
関西人による第九初公演に参加したソリスト、合唱指揮、オーケストラのコンサートマスター、合唱団メンバーは大阪音楽学校の教員、学生、卒業生であった。京都大学音楽部が企画した、関西洋楽界にとってこの歴史的な公演に本校が参加することになったのは、京都大学オーケストラに在籍していた経験を持ち、本校で教鞭をとっていた朝比奈隆の尽力があったと思われる。朝比奈はこの演奏会に向け、小編成のオーケストラのためにアレンジを行い、自ら第1ヴァイオリンを弾いて、練習の助手も務めている。
10月18日、本校で初めてコーラスとオーケストラの顔合わせがあり、その時の練習ではコーラスメンバーが1列に並ばされて、指揮者メッテルから「アナタタチ、顔アゲテ下サイ。ガクフにノリで顔クツツイテヰマスカ」(当日のプログラム掲載「音楽部日記」より原文ママ)と厳しく指導されたようである。
この演奏会について11月19日の大阪毎日新聞附録京都版には、関西の楽壇の記念すべき日であったと記されており、コーラスについては「初めてとしては上出来だ。唯後で疲れたのは遺憾。今後の努力に期待する」と評価されている。
プログラムには参加者全員の氏名が掲載されている。学校関係者ではソリストの永井八重子(ソプラノ)、コンサートマスターとして田中平三郎、合唱指揮の長井斉、そして150名による合唱には、生徒、卒業生のほか長井が主宰する大阪コーラルソサエティのメンバーも参加していた。音楽学校をあげての協力をおこなった公演であった。

150名の合唱団(本学の生徒は学則に従い、男子が黒の詰襟、女子は黒袖五つ紋にオリーブ色の袴を着ていた。それ以外は大阪コーラルソサエティのメンバー)

公演のあとの打ち上げ(恵比須町)

プログラムより

関西音楽の歴史

2月、4月 フョードル・シャリアピン、ウィルヘルム・ケンプら関西初公演(大阪市中央公会堂)

2月26日 二・二六事件

11月17日 関西人によるベートーヴェン《交響曲第9番》初演(京都宝塚劇場)
22日:大阪朝日会館
京都大学音楽部創立20周年記念演奏会として企画された

京都宝塚劇場 看板(株式会社JEUGIA提供)(映画上映を一日休業し、第九のために劇場を借りた)

京都公演 プログラム

10月11日 アレキサンダー・チェレプニン ピアノ独奏会(大阪朝日会館) 
自作《ソナタ》イ短調ほか、邦人作曲家、清瀬保二、松平頼則、太田忠、伊福部昭と江文也の作品を紹介
関西におけるベートーヴェン《第九》演奏会
関西でベートーヴェンの《第九》が初演されたのは、1929年(昭和4年)のことである。近衛秀麿指揮、新交響楽団(現・NHK交響楽団)、合唱は東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)生徒160名によるものであった。
それから6年半が過ぎ、この年の11月17日、京都宝塚劇場、22日、大阪朝日会館にてようやく京都大学オーケストラとその他、ソリスト、合唱団すべて関西在住のメンバーによる第九が初めて演奏されたのである。京都大学のオーケストラメンバーたちは、京都大学音楽部20周年を記念すべく、まだ実力的に難しいと渋る指揮者、E.メッテルをときふせ、指導をあおぎ、猛練習を経ての公演となった。
当日、京都宝塚劇場は、映画上映を一日休止し、1800名定員の会場には2800名がつめかけ、付近の交通整理のために警察官が繰り出された。
また、第4楽章はJOOK(現・NHK京都放送局)からラジオで全国中継されることになっていたため、第3楽章でいったん演奏をとめ、放送時間にあわせて最終楽章を演奏するという状況であった。合唱指揮者の長井斉は「合唱部が全曲最後の句(略)を歌い終わるや、満堂を揺るがす大歓声が巻き起こり、演奏者は相擁して感激の涙に咽んだことである」と自伝『み翼のかげに -- 合唱音楽と共に歩んで』に記している。

第九の練習風景 指揮者メッテルとオーケストラ
(昭和11年11月12日 大阪毎日新聞附録京都版)

服部良一、コロンビアレコード専属に
服部良一(1907〜1993)は、大阪音楽学校に在籍していた時期がある。出雲屋少年音楽隊でオーボエを手始めに、管楽器を演奏し、JOBKオーケストラに入団してからはフルート奏者として活動していた。同オーケストラの指揮者、メッテルに見いだされ、作曲の個人教授を4年にわたり受けたことが彼の人生の大きな転機となる。当時、急速に需要が伸びていたレコード生産の分野で圧倒的に人材不足であったアレンジャー、作曲家として和製ポップス(ブルース、ブギウギなど)を次々とヒットさせていく。
コロンビアレコード専属となってからは《蘇州夜曲》《別れのブルース》などが大ヒット曲となる。
戦時期には上海で李香蘭がうたう《夜来香ラプソディー》を編曲、指揮するなど、当時の上海音楽界の映画音楽作曲家たちにも大きな影響を与えている。戦後、香港で映画音楽に携わったことも、彼の国内にとどまらない足跡の一つである。
西洋音楽導入期とは芸術音楽とポピュラー音楽の境界があいまいで未分化な時代であったことを体現する作曲家であった。

大正12年9月 出雲屋少年音楽隊演奏風景

1939年(昭和14年)恩師メッテルを小牧丸(横浜港)船上にて見送る服部良一(左から二人目)と離日するメッテル(左から4人目)

1937年(昭和12年)

大阪音楽大学の歴史

1月25日 大阪音楽学校第八回定期大演奏会(大阪朝日会館)
ビゼー作曲《カルメン》第1幕よりコンサート形式、フランス語で演奏。

《カルメン》を指揮する朝比奈隆

朝比奈隆初のオペラ指揮、学校にとっても初のオペラ演奏となった。この時のフランス語は、朝比奈がフランス語が堪能な阪急時代の上司夫妻につきっきりで習い、生徒たちに教えたという

フランク《交響曲的変奏曲》を指揮する朝比奈隆、ピアノは長谷川さく子

3月24日 初の卒業演奏会(国民会館)

4月 正式に管楽器レッスン開始

10月1日『軍歌集』発行(大阪音楽学校楽友会)

10月25日 『小学唱歌 教授法の実際』発行(大阪音楽学校楽友会)

11月2日 創立記念音楽会(清水谷高等女学校講堂)
『楽友』第十一号によると「非常時にもかかわらず多数の聴衆者を得、盛会裡に無事終了す」とある

12月19日 関西楽壇大演奏会に出演(大阪市中央公会堂)
大阪音楽学校生徒100名の混声合唱と教員たちが出演
関西楽壇大演奏会出演の本学教員たち(プログラム写真)
演奏会のプログラムには出演者の顔写真が掲載されている。太字は本学教員
左列上から奥田良三田中平三郎永井静子朝比奈隆、林良夫、長谷川さく子、右列上からタラスロワ、伊達三郎長井斉、東貞一、クリンスカヤ、伊達静子
また、これら本学教員を含む関西楽壇を代表する演奏家と一緒に、本学の生徒100名も合唱で出演する機会を得ており、これ以後もこの演奏会に生徒たちは出演を重ねている。

卒業演奏会始まる
この年3月に初めて「卒業演奏会」が開催され、本科9期、専攻科4期の卒業生が出演した。この時が「本科9期生のための」演奏会という意味合いから、「第九回卒業演奏会」とし、以後それを踏襲している。残念ながら初回のプログラムは学内に現存していないが、2回目である第十回卒業演奏会のプログラムで、当時の学生たちの卒業時の演奏レベルをうかがい知ることができる。
ちなみにこのプログラムの中で、ロッシーニ作曲オペラ《セミラーミデ》のアリアを歌ったアルトの松本寛子がその年の第9回オール日本新人演奏会(日比谷公会堂)に出演し、のちに本校の教員となっている。

卒業演奏会 プログラム

卒業演奏会、最後の曲目、ブルッフ《英地頌歌》を演奏する卒業生たち 指揮は長井斉

卒業演奏会前、恒例の校舎前での記念撮影(昭和12年3月24日)(前列に教員、中央に永井校長、後列に学生)

関西音楽の歴史

終演後、舞台上での出演者記念撮影
東京音楽学校同声会大阪支部の主催で、支部長の永井幸次(前列左から3人目)の姿もある

1月 大阪毎日新聞社「音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)」継承
大阪で東西音楽界重鎮の懇談会開催。大阪でも第一次予選開催、発表会開催が決定
1月29、30日 三浦環主演《蝶々夫人》関西初公演(大阪市中央公会堂)
三浦環訳詞の日本語上演
7月7日 盧溝橋事件勃発、日中戦争へ
9月25日 全関西吹奏楽団連盟結成
10月24日 愛国吹奏楽大会(全関西吹奏楽連盟結成記念)
12月1日 全関西合唱連盟結成

(昭和12年10月25日 大阪朝日新聞)

JOBK第1スタジオ 指揮:山田耕筰(12月13日撮影)
山田耕筰、関西との関わりと戦時下の活動
山田耕筰(1886~1965)は明治末期に東京音楽学校からベルリンに留学、日本人作曲家としてははじめて、交響曲《かちどきと平和》(1913年)を発表、その創作と演奏範囲は歌劇、歌曲、舞踊詩および新たなメディアと結びついた広い領域に及ぶ。青年期を関西学院で過ごしたことから、関西とのつながりは深く、相愛女子専門学校(現・相愛大学)の顧問兼教授となり、音楽科の創設にも関わった。
山田耕筰は念願の日本交響楽協会(一部がのちにNHK交響楽団へと発展)発足を正式発表する前年、第1回演奏会と銘打って、大阪を皮切りに神戸、姫路、京都と巡演し、関西から活動を開始した。
同年7月、この日本初の本格的オーケストラの演奏を録音し、初めてのレコードを発売したのも大阪の日東レコードであった。

1924年(大正13年)日本交響楽協会 旗揚げ公演のプログラム

1935年(昭和10年)5月21日 山田耕筰生誕五十年祝賀演奏会(大阪朝日会館)

1932年(昭和7年)11月21日「コーラ・ナニワ」発会式
山田耕筰は東京音楽学校出身者を中心に合唱団を設立した。毎週三木ホールで練習が行われ、演奏会やラジオ放送などで活躍した。

宝塚交響楽団ほか関西学院グリークラブなど多くの関西音楽団体が出演し、その演奏は全国にラジオ中継された。
戦時下の山田耕筰
日中戦争が始まると、陸軍省情報部嘱託となり、国や軍部が関わる多くの演奏会(祝賀演奏会など)に積極的に関わった。演奏会では自作の演奏にタクトをとり、軍国歌謡も数多く作曲した。「紀元二千六百年」(昭和15年)を祝う各種の演奏会、とくに独、仏、伊などの友好国の著名な作曲家に作品を委嘱した「奉祝楽曲発表大演奏会」(大阪公演:昭和15年12月26、27日)では、指揮者として登壇している。
日本国内のみならず、戦時下の日本軍統治下の外地、とくに上海では、日本軍統治下の上海交響楽団で自作を指揮するなど、在外邦人向けの活動も活発に行っていた。
1932年(昭和7年)3月18日 大阪朝日新聞懸賞「肉弾三勇士」発表演奏会(大阪朝日会館)

一等当選の自作歌を演奏し、会場の聴衆に指導する山田耕筰(昭和7年3月19日 大阪朝日新聞)

紀元二千六百年「奉祝楽曲発表大演奏会」での山田耕筰


1938年(昭和13年)

大阪音楽大学の歴史

1月『楽友』第十一号より 大阪城を背景に昭和11年度専攻科卒業生の記念写真

3月 卒業アルバム 永井校長直筆の祝辞(毎年、直筆でしたためられた)

4月25日 第九回オール日本新人演奏会(日比谷公会堂)
5月7日 三楽人作品発表演奏会に賛助出演(大阪朝日会館)
橘静雄、山縣茂太郎、加藤直四郎の新作曲を合唱で演奏。宝塚交響楽団などと協演

出演者を囲む教員、卒業生たち
前列左から山田康子、松山一子(ピアノ伴奏)、松本寛子(アルト)、西川温子、後列左から長井斉、卒業生3人、朝比奈隆
大阪音楽学校の合唱
大阪音楽学校教授で、長年本校の合唱を指導していた長井斉は昭和15年発行の『楽報』第十二号の中でこう述べている。
「音楽学校がその集団としての総合力を現わし、併せてその統制と訓練とを対外的に提示する方法としての最も妥当なるものは、合唱をおいて他に求め得られないであろう。」
男女共学が認められていなかった時代にあっても、男女の登校時間を調整しながら授業を行い、混声合唱という、当時の関西にあっては唯一男子学生を受け入れていた本校ならではの音楽学校としての力を磨くべく、長井は実に様々な合唱曲を生徒たちに与え、修得させていった。
歌劇の合唱曲、カンタータ、交響合唱曲などの名曲、また特に宗教曲に精通していた長井は、ハイドン《天地創造》、《テレジア・ミサ》、ケルビーノ《レクイエム》、グノーのミサ曲、バッハ《ロ短調ミサ》から不協和音のみが連続するメスナー《テ・デウム》に至るまで、数多くの宗教曲もレパートリーに加えている。1930年(昭和5年)の第一回公開大演奏会でブラームスやドヴォルザークを歌っていた頃から見ると、格段の進歩が感じられる。
そして1936年(昭和11年)の京都大学音楽部の公演で、ベートーヴェン《交響曲第9番》の合唱を演奏したことで一躍世間に認知されることになったのか、翌年には「関西楽壇大演奏会」に出演、1938年(昭和13年)には「三楽人作品発表演奏会」、1939年(昭和14年)からは大阪朝日新聞社主催「愛国大合唱の夕」に賛助出演を続けるなど、確実に学外の演奏会に出演する機会が増えていったのである。

三楽人作品発表演奏会 チラシ
※クリックで拡大します。

昭和12、13年頃 大阪中央放送局スタジオにて
メッテル指揮のオーケストラと共演する生徒たち
長井によると、メッテルは本校の合唱をとても気に入っていたのだという(昭和5年以降、ラジオ放送にもしばしば大阪音楽学校として出演)

関西音楽の歴史

1月22、23日 大阪で音楽コンクール(第6回)関西初第一予選開催

第7回音楽コンクール関西第一予選(昭和13年10月2日 大阪毎日新聞)
10月の第7回音楽コンクールでは、13歳の辻久子が最終予選を突破したことが報じられる

4月17日 関西初の音楽コンクール発表会開催(国民会館)(昭和13年4月14日 大阪毎日新聞)

大阪朝日会館での《椿姫》第2幕(昭和13年6月4日 大阪朝日新聞)

6月2〜4日「三大オペラの夕」
2日:京都朝日会館
3、4日:大阪朝日会館
三浦環《お蝶夫人》、関谷敏子《椿姫》、佐藤美子《カルメン》で、日本の3大プリマが一堂に会した
6月24日 大澤寿人《神風協奏曲》発表公演(大阪朝日会館)
7月 JOBK唱歌隊発足(大阪放送合唱団前身)
日本初の放送合唱団。メンバー募集時の条件は「容姿端麗にして時間に余裕のある美声の持主、しかも金銭的には頓着しない御婦人に限る」であったという。37名を採用。昭和15年に男声部設置。同年4月に混声合唱団となり、「大阪放送合唱団」と改称
8月15日 蓄音器製造禁止
10月30日 大阪音楽協会主催 第1回小、中学生音楽コンクール開催(大阪中央放送局)
関西が生んだモダニズム作曲家、大澤寿人
1907年(明治40年)、神戸に生まれる。関西学院専門部を卒業後、ボストンに留学、ボストン大学、ニューイングランド音楽院に学び、ロンドン、パリで研鑽ののち、同時代の音楽家にみとめられ、パリ楽壇デビューを果たす。1936年(昭和11年)に帰国した。
この年、発表公演されたピアノ協奏曲第3番《神風協奏曲》とは当時の最新鋭国産飛行機、神風号にインスピレーションを得て、着手されたピアノ協奏曲であった。作曲時期からも、いわゆる神風特攻隊をモチーフにしたものではない。初演時には大澤自身がタクトをとり、マキシム・シャピロのピアノ、宝塚交響楽団によって演奏された。同時代の欧米の作曲家に比肩する作品を残し、当時の日本国内での評価もきわめて高いものであった。1953(昭和28)年、46歳の若さで亡くなる。

1937年(昭和12年)大澤寿人交響大演奏会
プログラム表紙

※クリックで拡大します。

1939年(昭和14年)

大阪音楽大学の歴史

2月19日 大阪音楽学校第九回定期大演奏会(大阪市中央公会堂)
昼夜2回、3月4日の神戸の大演奏会とともに大阪毎日新聞社主催で開催
3月4日 大阪音楽学校大演奏会(神戸基督教青年会館)
5月7日「太平洋行進曲」発表演奏会に出演(甲子園球場)
大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)よりラジオで全国中継される。藤原義江、四家文子らも出演
11月3日 愛国大合唱の夕に出演(大阪朝日会館)
長井斉指揮の本校生徒100名が《菊》《国威》を合唱
大阪音楽学校の演奏会
大正4年の開校から昭和19年に一時閉校を余儀なくされるまで、大阪音楽学校が主催した演奏会は資料から確認できたものだけで65回に及ぶ。大正年間に開催された18回は、大阪音楽学校というよりも実質、永井校長個人の主催のものも多く、その大部分は国内外の著名な音楽家の演奏会が占めていた。当初は本校自前の出演者だけで聴衆を呼ぶことのできる演奏会を開催するのは難しかったためである。
1930年(昭和5年)の開催から回を重ねること9回目のこの年の定期大演奏会は、日頃の研鑽を世に問うべく、それまでの本校主催ではなく大阪毎日新聞社の主催で、しかも大阪(昼夜2回)と神戸の2か所で開催され、演奏会の収益金は新聞社の社会事業団の事業資金に寄附された。
この時の大阪公演については2月21日の大阪毎日新聞紙上に吉村一夫氏が「全プログラムを管弦楽の伴奏をもつてし器楽、声楽の全ての部門にわたる曲目のヴアライエテイの豊かさと、その効果においてまづ満足すべき水準に達してゐることは慶賀に堪へない。」(原文ママ)と批評を寄せている。創立からほぼ四半世紀のことであった。
この当時開催されていた大阪音楽学校の演奏会としては、主に次のようなものがある。
  • 定期大演奏会(大阪朝日会館、大阪市中央公会堂など)
  • 創立記念音楽会(大阪府立清水谷高等女学校講堂など)
  • 卒業演奏会(国民会館、軍人会館)
  • 演奏旅行(山陰地方、関西、四国、北九州など)
  • 選科生音楽会(三越ホールなど)
  • 学期末演奏会(大阪府立清水谷高等女学校講堂など)

関西音楽の歴史

5月 大阪音楽文化クラブ設立 『音楽文化』発刊
6月 文部省絶対音感教育採用
9月1日 第二次世界大戦始まる
10月 大日本音楽著作権協会設立
10月6日、Eメッテルの離日、横浜港から米国へ
この年、 E.メッテルは横浜港より小牧丸にてアメリカに出発した。故郷ロシアから革命の混乱をさけ亡命、ハルビンを経て、関西に居住すること13年、京都大学オーケストラとJOBKオーケストラの指揮、JOBK(大阪中央放送局、現・NHK大阪放送局)ラジオ放送を通してクラシック音楽、とくにロシア作品の普及に貢献した。また、音楽理論や作曲法の個人教授によっても関西洋楽界に計り知れない恩恵をもたらした。

メッテルの離日は、一つの時代の終わりをつげるものでもあった。この後、日本は急速に戦時色を強め、各種の統制によって音楽活動もままならなくなるからである。

離日の際、小牧丸船上のメッテル夫妻(株式会社JEUGIA提供)

メッテルが服部良一に贈った自筆サイン入りの写真(Hattori Ryoichi Sanと読める)

※クリックで拡大します。

1940年(昭和15年)

大阪音楽大学の歴史

3月20日『楽友』を『楽報』」と改め発行(より広く社会に発信するべく改称)
4月26日 慰問演奏会(大阪陸軍病院)

※クリックで拡大します。

5月21~23日 国民歌劇協会第1回公演、チマッティ作曲オペラ《細川ガラシャ夫人》に大阪音楽学校管弦楽団・合唱団賛助出演、朝比奈隆指揮(大阪朝日会館)
本校として学外オペラ公演への初出演となる

5月27日 海軍記念日奉祝大音楽会に出演(大阪朝日会館)

演奏会の最後に全演奏者を指揮する永井校長。全関西合唱連盟、全関西吹奏楽連盟などと共演。大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)よりラジオ放送される

夏休み 白浜慰問演奏旅行
白浜の陸軍療養所へ向かう途中、船上での合唱練習(撮影年月日不祥)
11月3日 愛国大合唱の夕に出演(大阪朝日会館)
学外オペラへの出演
国民歌劇協会とは東京で1939年(昭和14年)、神宮寺雄三郎が「山田耕筰、故青山杉作両師を指導者として、国民歌劇の樹立を目指し、創作歌劇の上演を目的として設立」した団体である。(2003年『日本オペラ史~1952』昭和音楽大学オペラ研究所)
その協会としては2作目にあたる作品、ヴィンチェンツォ・チマッティ作曲オペラ《細川ガラシャ夫人》の大阪公演に、本校の管弦楽団と合唱団が賛助出演した。これは1940年1月に日比谷公会堂で行った同協会公演の再演で、大阪では朝比奈隆が指揮を行った。
オペラ出演とはいえ、合唱団は衣裳をつけて演唱したわけではなく、ステージ下にしつらえたオーケストラピットのようなところで、男子は詰襟姿、女子は黒袖紋付に袴といういつもの式服姿で歌ったのであるが、本校として学外のオペラに出演するのはこれが初めてのことであった。

舞台前方にオーケストラ、その左方に合唱団

※クリックで拡大します。
戦時色に包まれる音楽学校
1937年(昭和12年)に日中戦争が、その2年後には第二次世界大戦が始まり、戦時色が強くなっていく中、この頃から陸軍病院などへの慰問演奏、戦意高揚のための演奏会出演などが増えていく。国策としての「音楽報国」に駆り出されていくようになる。
昭和13年には永井校長の長男で本校の教員でもあった永井潔が出征し、昭和15年には本科在学中の男子生徒3名が応召につき、特別に卒業を認められるなど、本校も否が応にも戦争に巻き込まれていった。

昭和13年の卒業アルバム、生徒の寄せ書き
中央に永井校長、右下には《第九》の歌詞をもじったような朝比奈隆のメッセージも見受けられるが、「音楽報国」の言葉がこの頃の世相を表わしている

※クリックで拡大します。

大阪音楽学校楽友会出版「合唱曲」一覧(昭和17年3月)
大阪音楽学校楽友会出版の楽譜も時局の影響とは無縁ではなかった。

関西音楽の歴史

9月 日独伊三国同盟成立

10月 大政翼賛会結成

10月6日 第一回全関西吹奏楽競演会(第一回全日本吹奏楽競演会予選)(天王寺公園音楽堂)

11月 日本演奏家協会創立

12月26、27日 紀元二千六百年 奉祝楽曲発表大演奏会(大阪歌舞伎座)
盟邦国、ドイツ、イタリア、フランス、ハンガリーより当代一級の作曲家から、R.シュトラウス《祝典音楽》、Jイベール《祝典序曲》などの作品提供をうけ、大規模な演奏会を開催

自作を演奏するR.シュトラウス 楽譜は自筆(昭和15年『会館芸術』)


1941年(昭和16年)

大阪音楽大学の歴史

女子生徒の制服が登場(撮影は昭和17年)

3月 卒業生送別会(心斎橋 森永喫茶店)

4月8日「大阪音楽学校小史並びに希望」発行
5月1日 李王殿下御来校記念演奏会 
記念演奏会での田中平三郎教授のヴァイオリン演奏
5月9日 第一回全日本洋楽新人演奏会関西公演に出演(宝塚大劇場)
昭和8年の第四回から本校も参加してきた読売新聞社主催の「全日本洋楽新人演奏会」がこの年より関西公演を開催。本校からはピアノ3名、声楽2名が出演。4月22日の同演奏会東京公演にはこのうちの1名が出演している。
永井校長、音楽学校26年の総括
音楽学校が創立より26年を経過するにあたり、この年の4月入学式に、永井幸次は「大阪音楽学校小史並に希望」という文章を著している。
私塾のような状態が10年続いたのち、味原町に近代的校舎を建設したものの、増築にともなう負債が重くのしかかり、かつ高価なピアノなどを購入することの困難を嘆きつつも、文章の最後には「純日本音楽、新歌劇」が生まれ、東亜全体を文化によって導く、と大志を表明している。
この文章を著した時点で、学校にはピアノ30台、オルガン10台あまりという状態であった。「専門学校」に昇格するにはピアノ50台、運動場600坪以上が必要であり、現状では無理であるが、必ずや専門学校に、という決意を文章にすることで自らと学校関係者を鼓舞していたのかもしれない。
大阪音楽学校報国隊
1938年(昭和13年)、国家総動員法が公布され、1941年(昭和16年)8月8日には文部省より「学校報国団の体制確立方」という訓令が発せられた。戦時下における総力戦遂行のため、学校を軍隊のような組織に編成し、国土防衛、生産、輸送の各方面に組織的な勤労動員を義務づけるものであった。これを受けて、本校も大阪音楽学校報国隊を結成する。
永井校長を本隊長に教職員30名、生徒101名による総勢131名。生徒は74名という大半が女子であった。本隊は3小隊と特技(衛生隊)、特別警備、看護、炊事という4隊で組織され、3小隊の下に各3分隊を置いた。
一応、学校として形を整えた報国隊であったが、実際に稼働することはなかったという。

大阪音楽学校報国隊組織図

服装の変遷~大正から昭和へ 17枚の写真が映し出す当時の流行
昭和初期の頃の本校の学則では生徒の服装を次のように規定している。
「男生徒は黒色サージ詰襟、所定金ボタン附、帽子は帽章附丸形学生帽、女生徒式服は冬は黒袖五つ紋夏は麻薄鼠五つ紋附とし袴はオリーブ色セル地とす、通学服は和洋何れにても華美ならざるものとし和装の場合は必ず前記の袴を着用すべし」(原文は仮名部分カタカナ)
長引く戦争はやがて物資の不足を生み、中学校以上に在籍する学生の制服も1941年(昭和16年)より文部省によって統制を受けることとなる。男子は国民服・戦闘帽・ゲートルの着用と、制服の新調を控えるように定められ、女子は統一されたデザインの服を着用するよう求められた。
これを受けてか、本校も男子の国民服姿は確認できないが、この年より女子の制服が見られるようになる。夏用と冬用があり、演奏会でも着用していたようである。昭和19年の「アッツ島玉砕の歌」発表会に出演した時にはその年の2月に決定された女生徒の基準服としてモンペ式のものをはいている。
明治期に洋服がもたらされ、男性の洋服の普及に比べると、女性の場合は貞淑・従順などの婦徳が重んじられたため洋装がなかなか進まなかった。一般女性への普及が進んだのは1923年(大正12年)の関東大震災で和服の非機能性が問題視されたのが契機といわれる。学生たちの服装や演奏会の衣裳においてもその変遷がうかがえる。
女性教員については、永井八重子と永井静子は対照的で、静子は大正5年頃の最初の演奏旅行時は生徒であったが一人だけ洋装。演奏会でも早くからドレスであった。常に和装だった八重子は、昭和11年にベートーヴェン《第九交響曲》のソロを歌った時も和服。それを揶揄するような生徒たちの声が『楽友』第十一号に次のように掲載されている。
「八重子先生、一度洋装の御姿を拝見出来ませんか、生徒達喜ぶ事でせう
静子先生、年中アチャラモノ一点張。」その永井静子の洋装演奏会写真は次のとおり。

昭和8年6月1日 永井静子ピアノ独奏会
服装の変遷
大正5年頃の演奏旅行の時の写真(駅での集合写真と下は女性3人の演奏)
ピアノを弾くのは一人洋装の片山静子(のちの永井静子教員)
男性は全員帽子をかぶっているが、和装にも洋装にも合わせられた帽子は、四季を通じて紳士の外出時の必須アイテムだっだという。また女性のショールも明治末頃、冬の外套代わりとして流行り、以降防寒よりもオシャレのアクセントとしても人気を博していたようだ。   

大正時代の演奏会のチラシ(日本人女性は全員が着物)
※クリックで拡大します。

昭和2年の学校前で写っている女子の写真(ちらほら洋服姿の生徒が見られる)

昭和6年の卒業アルバム 女子生徒(ピアノ)(撮影は昭和5年頃と思われる)

同アルバム 女子生徒(ヴァイオリン)

昭和12年卒業アルバム

学則規定の式服で永井校長と写っている屋上での写真

撮影は昭和11年頃と思われる

ピアノの永井静子教員と門下生

声楽の永井八重子と門下生

昭和10年代になると、女性の洋装もかなり増えてくる

昭和17年 朝比奈隆ほかの先生方で写っているコンサートのオフショット

昭和18年3月23日 卒業前の集合写真(校舎屋上にて)

昭和13年卒業アルバム

個人洋装
ピアノ、山田康子教員

ピアノ、永井静子教員

関西音楽の歴史

2月23日 楽隣会の創立(大阪洋楽界の草分け的功労者16名が結成)

4月1日 大阪放送交響楽団再編成

4月1日 文部省、ドレミ唱法をハニホ音名唱法に

6月30、7月1日 東京交響楽団(現・東京フィルハーモニー交響楽団)披露公演会(宝塚大劇場)

プログラム

8月 音楽挺身隊結成
前年11月創立の日本演奏家協会全会員2,300名を動員して結成され、山田耕筰がその隊長を務めた。
銃後国民の慰安と鼓舞激励のための市民慰安会、農村漁村への音楽慰安隊派遣、産業戦士の慰労演奏などを行った

9月11日 第一回全国勤労者音楽会大阪予選(大阪市中央公会堂)

9月13日 日本音楽文化協会設立

9月22日 音楽雑誌第一次統合
紙の使用制限を目的とした政府の音楽雑誌統合令により14種を6種の音楽雑誌に統合
12月には3誌発行元が合併し、音楽之友社が創立され、『音楽之友』創刊号発刊

10月6、7日 京都交響楽団第一回演奏会
6日:京都朝日会館
7日:大阪朝日会館

プログラム

12月7日 若き人々のための「第一回交響楽演奏会」開催(大阪市中央公会堂)
戦時下の日本の音楽は誰よりも若人たちによって支えられなければならないと、本校校長永井幸次を委員長に青少年交響楽鑑賞協会が設立され、第一回の演奏会が開催された。ベートーヴェン《第九交響曲》終楽章の演奏では水野康孝の指導で聴衆全員が「歓喜の頌歌」を合唱するという、音楽鑑賞の全く新しい様式を拓いたという。昼夜2回公演で、阪神の中等・高専大学60校約3,500名の学生が鑑賞した。

昭和16年12月8日 大阪毎日新聞

12月8日 太平洋戦争開戦
12月9日 JOBK都市放送一時中止
楽隣会の創立 
1941年(昭和16年)音楽の隣組という意味から「楽隣会」となづけられた戦時下の、大阪洋楽界の功労者たちの会は、ソハマ楽器店(現在はアコーディオンの専門店として営業)の店主、祖濱捨松氏による招待会がきっかけとなって結成された。永井幸次や、宝塚歌劇の高木和男ら大阪の洋楽界の黎明期をしる人々16名が集まり、話し合いの結果、楽器店内に事務所を設け、音楽文化向上のために活動を起こそうという主旨を確認した。
戦後には「楽隣塔」という、大阪の洋楽発展に寄与した人々の分骨を納めた供養塔を奈良の薬師寺公園墓地に建設している。

写真は1941年(昭和16年)2月の初会合

楽隣塔(1950年、昭和25年建立)の前で。
前列左より6人目が永井幸次

楽隣塔に納骨された功労者の名前

霊標


1942年(昭和17年)

大阪音楽大学の歴史

1月1日 必勝誓願元旦音楽大会に出演(橿原神宮野外講堂、北野劇場)
1月20日「和音感の育成より合唱指導への音楽練習書」(大阪音楽学校楽友会)発行

3月 卒業式記念写真

2月25日 大阪朝日新聞社会事業団主催 大阪音楽学校大演奏会(大阪朝日会館)

応召する男子学生との記念撮影(昭和17年頃)

新入生歓迎ピクニック(淡路島・洲本)

4月23日 山田耕筰指揮の新交響楽団大演奏会に出演(京都宝塚劇場)

4月25日 N.T楽譜「大東亜讃歌」戦中最後の出版(大阪音楽学校楽友会)

戦争と音楽
日米開戦後の約1年、日本軍は東南アジア諸国を次々に占領していった。そんな中、音楽は人心を鼓舞・慰安し、団結力を生み、銃後における人々の労働生産能力を上げる、いわば一つの武器とも足り得るものとして積極的な活用が推奨された。特に軍歌は内閣情報局の後援で、全国的に「国民歌唱指導」なるものが展開され、全国民に普及徹底がはかられた。藤原義江、四家文子など著名な歌手たちを擁する歌唱指導隊20班が全国各地の農山漁村、工場鉱山などに指導行脚を行った。
本校も「大阪音楽学校大演奏会」、卒業演奏会、創立記念演奏会など、従来の演奏会とともにこの頃より、益々軍事色の強い演奏会への出演が多くなる。1942年(昭和17年)は元旦の「必勝誓願音楽大会」を皮切りに、2月17日「戦捷祝賀と感謝の夕」、3月8日「大東亜戦争陸軍軍歌発表会」、11月3日「愛国大合唱の夕」、12月1日「大東亜戦争一周年記念<音楽の夕>」などが続く。

白浜傷痍軍人療養所での慰問演奏(昭和17年頃)
学校を取り巻く戦時体制
日米開戦を前にした1941年(昭和16年)3月より、学制に関する法律が次々と発令され、学生にとっては厳しい状況へと変化していく。本校学生も開戦後の昭和17年頃より男子の本格的な召集が始まり、女子は徴用へと駆り出されていくこととなる。
  • 1941年(昭和16年)3月
    「国民学校令」制定小学校は国民学校と名称が改められ、年限も8年になり、教科は国民、理数、体錬、芸能の4科になり、音楽は芸能科に含まれた。
  • 8月8日
    「学校報国隊編成訓令」公布
  • 10月16日
    「大学学部等の在学又は修業年限の臨時短縮に関する勅令」制定
    昭和16年度から大学・専門学校・実業専門学校等は在学・修業年限を1年短縮できると定めた。昭和16年は12月に卒業させることを決定。
  • 11月1日
    「大学学部等の在学年限又は修業年限の昭和17年度臨時短縮に関する件」制定
    昭和17年度からは高等学校高等科・大学予科・臨時教員養成所も含めて6か月短縮する措置を決定。
  • 1943年(昭和18年)1月20日
    「高等学校令・大学令改正」公布高等学校高等科・大学予科の修業年限を2年とし、昭和18年4月入学者よりこれを適用と決定。
  • 1月21日
    「中等学校令改正」公布5年制を4年制へ改正。
  • 3月
    「戦時学徒体育訓練実施要綱」制定体育訓練などを強化して、精神・体力・科学訓練の一体化を図る。
  • 6月25日
    「学徒戦時動員体制確立要綱」閣議決定学校報国団による勤労動員体制の確立を図る。
  • 10月12日
    「教育に関する戦時非常措置方策」閣議決定理工科系および教員養成諸学校学生を除き、一般学生の徴兵猶予を停止。この結果、学徒の全面的な出陣となる。
  • 1944年(昭和19年)1月8日
    「緊急学徒勤労動員方策」閣議決定学徒の年間4か月の勤労動員を決定。
  • 2月
    「決戦非常時措置要綱」閣議決定中等学校以上の学徒に通年の勤労動員を決定。
  • 1945年(昭和20年) 3月
    「決戦教育措置要綱」閣議決定国民学校初等科を除き、学校における授業は昭和20年4月1日から昭和21年3月30日に至るまで原則としてこれを停止することを決定。
  • 5月22日
    「戦時教育令」公布先の「決戦教育措置」の終了期限を定めず、学徒に本土決戦に参加して最後の奉公を義務づけた。

関西音楽の歴史

2月8日 大阪放送交響楽団第一回発表演奏会(大阪朝日会館)
再編成後初の演奏会開催

プログラム

2月22日 日本音楽文化協会大阪支部結成(発会式に大阪音楽学校賛助出演)
戦時下の国策として音楽活動を統制しようとする日本音楽文化協会は終戦とともに解散した(10月京都、昭和18年6月兵庫にも結成)

9月 大阪音盤文化協会設立
新交響楽団から日本交響楽団へ名称変更
NHK交響楽団の前身である新交響楽団は、指揮者であり作曲家であった、近衛秀麿により1926年10月5日にプロ・オーケストラとして結成された。紆余曲折を経ながらも、1936年、ドイツから世界的指揮者、ヨーゼフ・ローゼンシュトック(米国亡命後にジョセフ・ローゼンストックという表記になる)を専任指揮者として迎えたことにより日本を代表するオーケストラとして成長した。
その後、名称を1942年に「日本交響楽団」と変更した。ローゼンシュトック時代には年2回の関西定期演奏会を行い、本格的な交響楽にふれる機会として大阪朝日会館での公演は人気を集めた。戦時下も外地への慰問活動など演奏を継続し、山田和男、尾高尚忠ら日本人指揮者も育っていった。戦後の1951年に日本放送協会(NHK)の支援を受けることとなり、NHK交響楽団と改称した。

昭和12年10月8日 新交響楽団演奏会プログラム(『会館芸術』10月号)

新交響楽団演奏風景(昭和14年6月4日 大阪朝日新聞)


1943年(昭和18年)

大阪音楽大学の歴史

9月 小西教授口述「教育問題解決」表紙(文字は持主の生徒の手書き)

10月20日 朝日新聞大阪厚生事業団主催 軍人援護資金醵集のための大阪音楽学校大演奏会(大阪朝日会館)

チラシ

プログラム

11月16日 出陣学徒壮行音楽会に出演(大阪市中央公会堂)
戦時下の演奏会
この年1月に内閣情報局は、米英の音楽の演奏を禁止すると通告。「敵性音楽」として追放すべき米英の楽曲1000曲余りのリストが発表され、生演奏はもとより、レコード演奏も禁止された。ただ、原曲が米英のものでも、『蛍の光』『庭の千草』など日本曲として消化されていたものについては保存との方針が示された。
これによりジャズなどの軽音楽は演奏ができなくなったが、クラシック音楽界では同盟国のドイツ、イタリアの作品が多いので、さほど大きな影響なく音楽活動が続けられていた。10月の大阪朝日会館での本校大演奏会も一見、従来と同じような内容で行われている。
しかし演奏会のタイトルの前に「軍人援護資金醵集のため」とあるように、戦争が長引くにつれ戦況の悪化も影響してか、昭和18年頃からそれまで以上に、純粋に音楽を楽しむための演奏会ではなく、「建艦資金醵集のため…」「軍人遺家族激励慰問資金醵集のため…」といった文言が目立つようになる。もはや「お国のため」の演奏会でなければ許されない状況になっていた。

関西音楽の歴史

1月 米英の楽曲演奏中止および邦人作品奨励(4月鋼鉄使用楽器の製造禁止、6月敵性楽曲出版禁止、9月音楽雑誌再統合)

3月 大阪で敵性音楽追放運動展開
市内約300の蓄音器店を敵性音盤供出相談所に指定

11月7日 大日本吹奏楽連盟関西本部挺身隊結成
11月29日 第十二回音楽コンクール発表演奏会(北野劇場)
この舞台より直に戦地に赴く出陣学徒もいた

昭和18年11月30日 毎日新聞

戦時下、音楽家も外地へ
戦時下において文学者など多くの文化人が外地にわたったことはよく知られているが、音楽家も例外ではなかった。山田耕筰や近衛秀麿らが自作自演のために満州、上海などで活動し、日本の作曲家の作品が国外(占領地)でさかんに演奏されたのも戦争が引き起こした現象であった。
演奏活動もままならない国内の状況のなか、関西では朝比奈隆が陸軍情報部の中川牧三(オペラ歌手として関西で活躍していた経歴をもつ)の指示により、上海に招聘された。当時、上海には亡命ロシア人やユダヤ人演奏家を擁する上海交響楽団(創立1879年)があり、その演奏水準は当時の日本人オーケストラとは比べるべくもなかった。朝比奈は1943年12月19日を皮切りに、計6回の定期演奏会で指揮をとった。また帰国後、再び、満州にわたり、新京交響楽団、ハルビン交響楽団の指揮をとり終戦を迎えた。

朝比奈指揮の上海交響楽団定期演奏会の広告
1943年(昭和18年)12月17日 Le Journal de Shanghai(上海発行の仏語新聞)

昭和20年3月10~22日 全満合同演奏会 朝比奈隆指揮、辻久子独奏 ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲》
『厚生文化』3、4月合併号 1945年(昭和20年)4月


1944年(昭和19年)

大阪音楽大学の歴史

2月29日 専門学校設立申請
3月9日 第39回陸軍記念決戦必勝大音楽会に出演(大阪市中央公会堂)
3月23日 第十六回卒業演奏会(軍人会館)
本校戦中最後の演奏会となった
4月 一時閉校(戦時緊急措置令)

4月17日 永井幸次代筆の「宣誓書」(挺身隊に学生が参加した際の決意表明)
結果的には学生たちがこれを読むことはなかったという

「アッツ島玉砕の歌発表会」出演(大阪朝日会館)

戦中最後の本校演奏会
本校の戦中最後の演奏会は3月23日に軍人会館(跡地は現・ドーンセンター)で開催した「第十六回卒業演奏会」(本科第十六期卒業生のという意味で、実質は第八回)である。
プログラム冒頭にある国民儀礼とは、宮城(きゅうじょう)遥拝(または皇居遥拝)・君が代斉唱・戦勝祈願のことで、この当時すべての集会において、最初に皇居の方角に向かって最敬礼して天皇を礼拝し、君が代を歌ってから日本軍の勝利を祈ることが義務づけられていた。
続いて信時潔作曲の《海ゆかば》が演奏されているが、この曲は大政翼賛会から特に必勝歌曲として指導されていたものであった。
曲名表記もプッチーニ作曲歌劇《トスカ》の「歌に生き、恋に生き」の“恋に生き”が省略されているところに戦時下の配慮がうかがわれ、「警報発令の際は中止致します」との断り書きが時局の深刻さを物語っている。

1944年(昭和19年)3月23日「第十六回卒業演奏会」
プログラム

大阪音楽学校女子挺身隊
1944年(昭和19年)3月に学徒勤労動員の通年実施が決まると、大阪府では女子勤労総動員態勢の徹底強化のためと称し、府下の各種学校45校の新規生徒募集を禁止、在学生については全国に率先して3月28日までに勤労挺身隊を結成し、4月早々より生産工場での労働に就くよう命じた。これに伴い、自然廃校となった校舎は非常時のための倉庫や病院などに転用された。
本校は鉄筋校舎で丈夫な造りであったことや、地下室が防空壕代わりになって避難所として使えることから廃校は免れたものの、もはや授業をすることを許される状況ではなく、永井校長はわずかに残った生徒たちを講堂に集めて、一時閉校を告げたという。
その後本校も隊員を募り、数人の生徒による大阪音楽学校女子挺身隊を結成。4月17日より日立造船桜島造船所松坂屋事務所にて勤労奉仕を行うこととなった。校長自ら代筆した宣誓書によると「與へられる仕事は不慣れの為めに或は失敗を重ねることが多いことを恐れて居りますが…」(原文は仮名部分カタカナ)とあるが、彼女たちは船のボイラー設計図を描かされていたようである。

関西音楽の歴史

1月 日本音楽著作権協会設立

2月 決戦非常措置要綱公布(高級音楽停止、19大劇場閉鎖)

2月27日〜29日、北野定期演奏会開設(北野劇場)
27日(昼夜2回)、ベートーヴェン《フィデリオ》本邦舞台初演の関西公演
マンフレッド・グルリット指揮 大東亜交響楽団、藤原義江歌劇団、日本合唱団出演
28、29日:大東亜交響楽団関西披露公演
齋藤秀雄指揮 長門美保独唱
毎日新聞社が「増産へ働き抜いたあとの人々に憩いの一ときを捧げるため」として北野劇場を会場に新たな定期演奏会を開始
この藤原歌劇団の《フィデリオ》がわが国の戦中最後のオペラ公演となる

6月29日 女子挺身隊慰安激励音楽会(大阪海軍会館)
(昭和19年6月30日 毎日新聞)

8月23日 学徒勤労令・女子挺身隊勤労令公布
「贅沢は敵」の時代
1943年(昭和18年)には新聞記事に下記のような華美な服装などをやめ、モンペなどを推奨する記事が掲載されている。

昭和18年7月25日 毎日新聞

翌年2月には政府により「決戦非常措置要綱」が発表された。これに応じて、音楽界では、ジャズ用打楽器等使用禁止、個人発表会禁止、独奏部の起立演奏禁止、宝塚歌劇団解散、同音楽舞踊学校授業停止、交響楽定期演奏会会員制禁止、入場料5円未満に規制、音楽コンクールを「音楽顕奨」と改称、ピアノ製造停止といった制限が次々に繰り出されることになる。

1945年(昭和20年)

大阪音楽大学の歴史

夜の校舎(写真は昭和17年頃)

8月15日 終戦

9月 在校生へ開校通知

10月1日 学校再開

10月1日 西川温子 任教授証書

戦火を免れた校舎
1945年(昭和20年)、いよいよ米軍による本土襲撃が激しさを増す。3月13日深夜から翌14日未明にかけて初めて大阪の空にB29爆撃機が飛来し、大阪市の大半を焼き尽くした。一夜にして死者約4,000人、行方不明者約700人を記録したといわれる。
学校のある味原も空襲に見舞われたが、留守番役を務めていた永井校長の四女、久子が、近所の人たちと必死に消火活動を行い、何とか難を逃れることができた。一時期家族で校舎に住んでいた校長もその頃は布施に居を移しており、早朝に駆けつけ学校の無事を確認したときは、涙を流したという。
焼け残った校舎は被災者たちの避難所となり、家財道具が持ち込まれ、レッスン室は寝所、廊下は炊事場や物干し場などの生活空間と化し、すっかり荒れてしまった。机や椅子、書類、書籍、楽譜など燃やせるものはすべて持ち出されて燃料とされた。外部へ貸し出していた数台のピアノもついに還ることなく8月15日、終戦を迎えた。劣悪な環境の中ではあったが、9月に在校生へ開校通知を出し、10月には授業を再開することとなった。

関西音楽の歴史

3月13~14日 大阪大空襲
8月3、4日「朝日名曲定期演奏会」(大阪朝日会館)
大阪での戦中最後の演奏会と思われる
8月15日 終戦
10月7日「第1回市民音楽文化の会」(大阪市中央公会堂)
大阪での戦後初の演奏会と思われる

プログラム(※クリックで拡大します。)

各種音楽禁制解禁
朝日新聞社厚生事業団主催で、進駐軍勤務の世界的ピアニスト、ジョン・フレッチャー氏独奏会なども開催される
(昭和20年11月14日 朝日新聞)
ヤマハ製ハーモニカ・木琴など製造再開
終戦前後の演奏会とラジオ放送
8月15日の終戦の日の前後、演奏会とラジオ放送はどのような状態だったのだろうか。
まず、戦時中、大阪での最後の演奏会は現存の資料によると次のようなプログラムであったと思われる。
主要作品に、交響曲《仏陀》、バレエ曲《天の岩戸》、その他、多くの歌曲がある。
終戦後、大阪での最初の演奏会は、10月7日の「第1回市民音楽文化の会」だと思われる。
そしてラジオ放送については新聞のラジオ放送欄によって当時の状況を知ることができる。玉音放送のあった8月15日の終戦当日のみラジオ放送欄はなく、代わりに翌日の新聞に「15日午後より一般放送を中止」と記載され、全国放送ではこの15日より当分の間一般の放送をとりやめ、時報と報道、官公署の時間、子どもの時間だけ放送する、としていた。
そして8月27日から一般放送は再開され、8月28日には日本放送交響楽団によりピアノ協奏曲(タイトルは不明)が演奏されている(日響は、戦後9月14、15の両日に定期演奏会を開催している)。当時、生演奏以外には「音盤」と特記されているので、28日の演奏は日響が演奏したものとおもわれる。その後、徐々に音楽プログラムも増え、レパートリーも彩りが増してくる。意外にも9月の番組表には現在の放送とそう変わらない曲目が並んでいる。15年という長きにわたった戦時期の抑圧からの精神的な復興と解放をラジオ放送が支えていたのかもしれない。

昭和20年7月28日 朝日新聞

※クリックで拡大します。

一般放送中止を伝える新聞記事
昭和20年8月16日 毎日新聞