大阪音楽学校の合唱

 

大阪音楽学校教授で、長年本校の合唱を指導していた長井斉は昭和15年発行の『楽報』第十二号の中でこう述べている。

「音楽学校がその集団としての総合力を現わし、併せてその統制と訓練とを対外的に提示する方法としての最も妥当なるものは、合唱をおいて他に求め得られないであろう。」

男女共学が認められていなかった時代にあっても、男女の登校時間を調整しながら授業を行い、混声合唱という、当時の関西にあっては唯一男子学生を受け入れていた本校ならではの音楽学校としての力を磨くべく、長井は実に様々な合唱曲を生徒たちに与え、修得させていった。

歌劇の合唱曲、カンタータ、交響合唱曲などの名曲、また特に宗教曲に精通していた長井は、ハイドン《天地創造》、《テレジア・ミサ》、ケルビーノ《レクイエム》、グノーのミサ曲、バッハ《ロ短調ミサ》から不協和音のみが連続するメスナー《テ・デウム》に至るまで、数多くの宗教曲もレパートリーに加えている。1930年(昭和5年)の第一回公開大演奏会でブラームスやドヴォルザークを歌っていた頃から見ると、格段の進歩が感じられる。

そして1936年(昭和11年)の京都大学音楽部の公演で、ベートーヴェン《交響曲第9番》の合唱を演奏したことで一躍世間に認知されることになったのか、翌年には「関西楽壇大演奏会」に出演、1938年(昭和13年)には「三楽人作品発表演奏会」、1939年(昭和14年)からは大阪朝日新聞社主催「愛国大合唱の夕」に賛助出演を続けるなど、確実に学外の演奏会に出演する機会が増えていったのである。

三楽人作品発表演奏会 チラシ

 

昭和12、13年頃 大阪中央放送局スタジオにて メッテル指揮のオーケストラと共演する生徒たち

長井によると、メッテルは本校の合唱をとても気に入っていたのだという(昭和5年以降、ラジオ放送にもしばしば大阪音楽学校として出演)