山田耕筰、関西との関わりと戦時下の活動

山田耕筰(1886~1965)は明治末期に東京音楽学校からベルリンに留学、日本人作曲家としてははじめて、交響曲《かちどきと平和》(1913年)を発表、その創作と演奏範囲は歌劇、歌曲、舞踊詩および新たなメディアと結びついた広い領域に及ぶ。青年期を関西学院で過ごしたことから、関西とのつながりは深く、相愛女子専門学校(現・相愛大学)の顧問兼教授となり、音楽科の創設にも関わった。

山田耕筰は念願の日本交響楽協会(一部がのちにNHK交響楽団へと発展)発足を正式発表する前年、第1回演奏会と銘打って、大阪を皮切りに神戸、姫路、京都と巡演し、関西から活動を開始した。

同年7月、この日本初の本格的オーケストラの演奏を録音し、初めてのレコードを発売したのも大阪の日東レコードであった。

 

1924年(大正13年) 日本交響楽協会 旗揚げ公演のプログラム

 

1932年(昭和7年)11月21日 「コーラ・ナニワ」発会式

山田耕筰は東京音楽学校出身者を中心に合唱団を設立した。毎週三木ホールで練習が行われ、演奏会やラジオ放送などで活躍した。

 

1935年(昭和10年)5月21日 山田耕筰生誕五十年祝賀演奏会(大阪朝日会館)

宝塚交響楽団ほか関西学院グリークラブなど多くの関西音楽団体が出演し、その演奏は全国にラジオ中継された。

 

戦時下の山田耕筰

日中戦争が始まると、陸軍省情報部嘱託となり、国や軍部が関わる多くの演奏会(祝賀演奏会など)に積極的に関わった。演奏会では自作の演奏にタクトをとり、軍国歌謡も数多く作曲した。「紀元二千六百年」(昭和15年)を祝う各種の演奏会、とくに独、仏、伊などの友好国の著名な作曲家に作品を委嘱した「奉祝楽曲発表大演奏会」(大阪公演:昭和15年12月26、27日)では、指揮者として登壇している。

日本国内のみならず、戦時下の日本軍統治下の外地、とくに上海では、日本軍統治下の上海交響楽団で自作を指揮するなど、在外邦人向けの活動も活発に行っていた。

 

1932年(昭和7年)3月18日 大阪朝日新聞懸賞「肉弾三勇士」発表演奏会(大阪朝日会館)

一等当選の自作歌を演奏し、会場の聴衆に指導する山田耕筰(昭和7年3月19日 大阪朝日新聞)

 

紀元二千六百年 「奉祝楽曲発表大演奏会」での山田耕筰