無声映画からトーキー映画へ(楽士の失業)

大正時代、人々が洋楽に接することができる場所として、演奏会以外に映画館があった。当時は無声映画であったため、弁士が内容を語り、映画を盛り上げる効果音楽が楽団によって生演奏されていたのである。

無声映画音楽は、明治末期の民間音楽隊に始まり、ピアノと弦楽器など編成を変えながら、1919年(大正8年)〜1920年頃、管弦楽に定着するようになった。10~15人程度の小規模な管弦楽団ではあったが、映画の伴奏だけでなく、休憩時間には「休憩奏楽」というサービスで、単独の演奏も行っていた。この頃の流行からか歌劇の序曲、抜粋曲などが多かったようである。弁士の語りとともにこの伴奏音楽の魅力は興行成績にも影響していたようで、有名映画館はお抱えの楽団を持ち、映画の広告には曲目や演奏者を明記して集客に努めた。音楽家にとっても映画館はプロとして腕前を披露できる、貴重な場所の一つであった。

その貴重な場所を奪うこととなったのが、トーキー映画の出現である。

音や声をともなうトーキー(talkie)映画時代は、アメリカで1920年代末より始まり、邦画作品の製作は1931年の『マダムと女房』が最初である。トーキー映画の主流化に伴う常設館楽士の失業は、社会問題化しつつあったため、失業した楽士の救済とトーキー音楽のレベル向上を目的に「関西トーキー音楽協会」が設立された。これはトーキーおよびレコード伴奏その他の事情で解雇された優秀な音楽家をトーキーの吹込みや様々な演奏の仕事に斡旋しようというものであった。

関西の主要な放送音楽家、楽長級の楽士たち39名が協会員として加入し、11月には早速トーキー映画の伴奏音楽を録音している。京都河原町に事務所を置き、トーキー映画の伴奏のみならず、社会事業の演奏会などには積極的に出演していきたいとの意気込みも持っていたようである。

松竹座の広告

(大正12年6月18日 大阪朝日新聞)