ヨーゼフ・ラスカ指揮の宝塚管弦楽団

宝塚少女歌劇の第一回公演は1914年(大正3年)にさかのぼる。宝塚温泉の余興としてはじまった少女歌劇はしだいに関西に根づき、西洋の楽器や音楽を取り入れつつも、日本舞踊や邦楽の要素も兼ね備えた和洋兼備のユニークな歌劇文化をつくりだしていた。電鉄経営を柱に数々の事業を興した経営者、小林一三の発案と発想がこの歌劇団に生かされていたことはよくしられる。

1919年(大正8年)には宝塚音楽歌劇学校が誕生する。

一方、歌劇の伴奏をおこなう楽団もしだいに態勢が整えられ、管弦楽団としては初回にあたる公演(定期演奏会ではない)を、1924年2月23日夜、大阪市中央公会堂で開催した。前年に来日し、宝塚音楽歌劇学校の教授に就任していたオーストリア人、ヨーゼフ・ラスカを指揮者に迎えていた。第1回公演のプログラムは、定番のクラシック音楽やオペラからの抜粋曲のほかに、日本人の書きおろし作品による「新舞踊」を組み入れる独特の公演内容となっていた。

1926年(大正15年)には、ヨーゼフ・ラスカ指揮のもと、宝塚小劇場にて「第1回定期演奏会」を行った。演奏曲はベートーヴェン作曲交響曲第3番《英雄》、ワーグナー作曲《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕前奏曲などであった。

ラスカが日本を離れる1935年までのおよそ10年間、宝塚管弦楽団(交響楽団)は、日本初演も含めた数多くの交響曲を関西で演奏することになる。