明治、大正の関西洋楽界

日本は他のアジア諸国と異なり、欧米列強の植民地支配を受けずに近代化をとげた。そのことが洋楽受容にも決定的な影響をもたらしている。何をどう受け入れ、どのような音楽や歌劇などを創っていくのか、受容当初から日本人は主体的に西洋音楽と向き合うことができたのである。

さて、明治から大正にかけての、関西の洋楽界は、大きくは二つの系統からなっていた。西欧人からの直接受容と、日本人が主体的に西洋音楽を受容、発展させる二つの流れである。

前者は「直輸入タイプ」とよべる、欧米人を介しての洋楽受容である。京都や阪神間には明治期よりいくつものミッション系私立学校が設立されていた。同志社や神戸女学院には本国からの外国人教師が派遣され、賛美歌に代表される西洋音楽との出会いの機会をもたらしていた。明治以降、神戸に外国人居留地が開かれていたことも、阪神間と西洋音楽との結びつきを強めていた。さらに、大正年間にはロシア革命後、亡命ロシア人音楽家たちが阪神間に居住するようになる。そういった西欧人からダイレクトに西洋音楽の教育を受ける道が開かれていたことは関西の洋楽受容の一つの特徴といえる。

後者は「日本人主体型」である。明治期には陸軍第四師団軍楽隊が大阪にて活動を始め、1914年(大正3年)には宝塚に少女歌劇団が創設される。また、明治期には、軍楽隊の流れをくむ管楽器や打楽器に加え、ヴァイオリン、オルガン、マンドリンなどが、つづいて大正期にはピアノが普及し始めた。1915年(大正4年)11月には、オーケストラ「羽衣管絃団」が第1回演奏会を開催(帝国座)。大正4年から7年にかけてと、短命に終わったオーケストラではあったが、最初期のオーケストラの代表的存在であった。1918年(大正7年)に生まれた「ピアノ同好会」「楽友会」といった音楽愛好家の活動も活発になる。明治、大正期においてさかんに開催された「慈善音楽会」とは、邦楽と洋楽の混合プログラムが当たり前であったし、新歌劇や世界音楽という当時のことばも、「西洋の模倣ではない、日本独自のスタイル」を追求するという意識を反映したものである。

とはいえ、東京に比べるなら、関西はまだまだ洋楽不毛の地であった。大阪音楽学校の誕生とその成長は、まさに関西洋楽界の成長とともにあったといえる。