なぜ、永井幸次は音楽学校をつくったのか?

大阪は江戸時代より商都としてさかえ、上方の地歌や人形浄瑠璃などの伝統を有する文化都市でもあった。
しかし、こと西洋音楽においては、東京に大きく遅れをとっていた。東京には官立の東京音楽学校があり、国費をもって外国人教師を雇うなど、国策としての西洋音楽教育が行われていた。永井自身も卒業生である。

首都東京につぐ、第二の都市に西洋音楽の専門学校をつくりたい、という彼の熱意によって、ついに大阪の中心部、塩町(今の南船場)に「大阪音楽学校」の看板を掲げることになった。関西ではすでに相愛高等女学校、神戸女学院が音楽専門教育を始めていたが、男子が学べる関西初の音楽学校がここに誕生した。男女共学が許されなかった時代ゆえ一日交替で男子と女子の授業を行う、授業は夜間のみ、といったスタートではあったが、永井は「東京音楽学校と対抗するに足るべき音楽学校」という高い目標を掲げていた。





大阪朝日新聞が学校設立を報じる(大正4年10月9日)

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文部省からの受賞賞金が学校設立のきっかけとなった永井の作品《御大典奉祝唱歌》(のちに校歌となる)

自筆譜
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