《カヴァレリア・ルスティカーナ》公演

戦後の音楽学校は「オペラ」から本格的に復興した。戦前、早い時期にイタリアでオペラを学んだ声楽家、中川牧三を中心に、校内からのオペラ公演要望の声にこたえて、オペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》の上演が行なわれたのは1948年(昭和23年)6月のことであった。この公演からのちの「関西歌劇団」が生まれることになる。中川は当時、本校の声楽部長であり公演に際して、指揮および歌詞の日本語訳(竹内忠雄と共訳)も行っている。小島幸、横井輝男、市来崎義子(のり子)ほかの本校教員を中心とする歌手陣に加えて本校生徒も出演するという、学校をあげてのオペラ活動の原点となった公演であった。

そもそもなぜ演目が《カヴァレリア・ルスティカーナ》だったのかというと、選曲にあたった中川によれば、オペラ初心者にいきなりの大作は無理だということ、そして演奏時間が短く、経費も安くて済むというのが理由であったという。加えてこの演目は、関西でも過去に何度か上演されており、馴染みのある作品だったということもあったのかもしれない。

公演に向けた練習は約半年間、放課後に味原校舎3階の講堂で行われた。歌もさることながら、メイクをして舞台で演技をするという初めてのことに、宝塚歌劇団や大阪中央放送局(現・NHK大阪放送局)から劇団員を招き、歩き方から指導してもらったという。

さらにこの公演には、戦後のいまだ物資が十分ではない中で、解決しなければならない様々な問題があった。まず東京から招いた東京フィルハーモニー・オーケストラ約60名の食糧と宿泊施設の問題である。農村地帯を駆けずり回って何とか米を確保し、宿泊施設も大阪公演では梅田付近のお寺を、京都公演では会場が同志社栄光館であったこともあり、当時の同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)の女子寮の空き室を宿として用意したそうである。

そして衣裳をそろえるのも大変であった。宝塚歌劇団から借り受けたり、ある者は紡績会社に勤める知人に生地を安く分けてもらってこしらえ、またある者は自分のワイシャツを染めたり、帽子もピアノの赤い鍵盤カバーで作ったりと、出演者自らが各々工夫を凝らした手作りなどをして本番に臨んだ。

こうして迎えた公演は、大阪、京都あわせて4日間とも昼夜2回公演であったが、会場は毎回大入り満員の大成功であったという。それというのも、市民が音楽に飢えていたということ、そして報道関係にも顔のきく中川が毎日新聞社からの全面的支援を取り付け、新聞社が連日報道して大量の切符を売りさばいた上に、出演者も率先して心斎橋などの街頭に出て手売りしたという努力があったようである。新聞社からの莫大な資金援助は、4日間の公演、東京からのオーケストラと著名な音楽評論家である大田黒元雄の招聘なども可能にしていた。

6月22日付けの毎日新聞には「清潔な成果」というタイトルで好意的な批評が掲載されたが、同時に舞台上での動きは全くの素人である、との厳しい指摘も受けている。この公演からのちの「関西歌劇団」が生まれることになる。永井校長自らが「新音楽新歌劇の発生地たらんことを」(原文は仮名部分カタカナ)と定礎文を書いた味原校舎から、まさに関西のオペラが産声をあげた瞬間であった。

学校をあげてのオペラ活動はこの後も、ますますさかんとなり、1989年(平成元年)のザ・カレッジ・オペラハウス建設、さらには、「20世紀オペラ・シリーズ」をはじめとする企画色の強いオペラのシリーズ公演という結実をもたらすことになる。

 

出演者(プログラムより)

プログラムには名前の記載がないが、主役のトゥリッドゥに、当時本科二十期生の五十嵐喜芳が抜擢され、ダブルキャストで出演している。五十嵐はのちに、藤原歌劇団音楽監督、新国立劇場オペラ芸術監督などを歴任するわが国有数のテノール歌手となったが、「あの出会いがなければ、自分のオペラ人生はなかっただろう」とこの時のことを述べている。

 

大阪音楽高等学校生徒第一合唱隊(プログラムより)

味原校舎屋上で撮影したものと思われる

 

出演者全員による記念撮影