永井幸次楽壇五十年

永井幸次が1907年(明治40年)に大阪に赴任した当時は、荒野に一人佇んだ気持ちであったという。学校の音楽教育といえば五線譜ではなく数字譜で口うつしの口授法、発声は地声を張り上げるばかりで、その有様を目の当たりにしたとき、関西の音楽教育に身を捧げようと決心したとされる。それ以前の神戸、鳥取 などでの教師生活も含めて50年、一貫して西洋音楽の普及と向上に尽くし、それまでは楽壇は東京だけのものと言われていた常識を破り、関西の楽壇を確立したその労をねぎらい、功績をたたえようと、昼夜2回にわたる演奏会が新大阪新聞社の主催で開催された。関西の名だたる演奏家はもちろん、東京音楽学校、武蔵野音楽学校、国立音楽学校、神戸女学院音楽部等の代表者も一堂に会しての演奏会で、全員無償で出演したという。

教師になりたての頃、良い教材がなく、自ら出版した教科書や楽譜が各地の学校で使われるようになった。夏には毎年、遠くは四国、九州にわたる西日本の音楽教育者を集めて講習会を開き、新しい教育法を伝授した。そして本校で教育を受けた生徒たちが、また各地で音楽を指導するようになった。これらのことを考えると、非常に多くの人たちが直接、間接的に永井の指導を受けていたことになる。

 

当時75歳の永井幸次(「楽壇五十年 永井幸次先生を囲む音楽会」プログラムより)

 

プログラム 東西の著名な演奏家が名を連ねている

 

音楽会当日、レイの贈呈を受ける永井幸次(昭和25年3月6日 新大阪新聞)