理事長交代

1950年(昭和25年)、年明け早々、永井校長は昭和8年に本校が財団法人になって以来の理事長職との兼務を退く。後任の理事長は水川清一であった。水川と永井校長との出会いは昭和22年秋頃にさかのぼる。その頃音楽高等学校への許認可申請に必要な運動場の確保のため、永井校長が、当時大阪中央放送局長であり、新制高等学校の認可の可否を審議する委員であった水川を訪ねて行ったのである。この時、水川の働きかけがあり、本校近くの土地の借用契約が成立して、音楽高等学校への認可を受けることができた。

また、その2年後の昭和24年に、大学設置に向けての条件整備の考え方をめぐって校内を二分する意見の対立が生まれ、教授19名が辞職宣言をするなど一時校内が混乱した。この事態を収拾したのも水川であった。、永井校長はそんな水川の手腕を買って新たな理事に迎え入れた。

そして翌年、自分は教育に専念し、経営は水川に委ねることとした。永井校長が水川に寄せる信頼の強さは水川の「私が最も敬服した点は『経営の方は引き受けてくれ』とのお話があってから、一度も口出しをせられなかったことである」との言葉からもうかがえる。そして水川は永井校長について、こうも語っている。「永井校長が人間として、私の最も好きな人であったということは、私が学校・大学に対して積極的な意欲をもつ因由になったし、私の人生の有難い思い出ともなった」(大阪音楽大学『永井幸次先生の思い出』(1966年))。

こうして永井幸次が学長として昭和40年、91歳でその生涯を閉じるまで、二人の間には強い信頼関係が保たれ、二人三脚で本校の舵取りをしていくことになるのである。

 

水川清一理事長

永井学長亡き後、二代目の学長に就任。1980年(昭和55年)に亡くなるまで、理事長との兼務を果たす。

 

理事長交代当時の水川理事長と永井校長(昭和25年3月23日 卒業生職員生徒による卒業記念音楽会)