幻のK.NAGAI&SONピアノ

戦時中に疎開させていたドイツ製等のピアノが疎開先で焼失し、皮肉にも終戦後学校に残ったのは、大半が酷使されたボロボロのピアノばかりであった。永井校長は戦後の生活にも困窮しているなか、音楽を愛して勉強しに来ている生徒たちに一円でも安く、そして当時の住宅事情からできるだけ小さいグランドピアノをどうしても与えてやりたいと、自らピアノ製造を思いつく。費用の大半を永井校長が出資し、一部を三男の誠が負担して、長男潔の息子で孫にあたる一(はじめ)と同県人で楽器製作も行っていた山根という人物が、永井校長が考案したピアノの試作にあたった。

そのピアノとは、少しでも廉価に製作するため徹底的な廃物利用が考えられ、鍵盤に青竹の皮、響鳴板に電柱の廃材である桧、ピアノ線の代わりに鉄線を焼いた鋼鉄を用い、アクションはおもちゃのピアノのような卓上ピアノ形式によるというものであった。

そのころ潔の家にあったスタインウェイのピアノのサイズを測り、高さと幅はそのままに、奥行きだけ130cmに縮小して製造することを決め、試行錯誤が始まった。しかし象牙の代わりに鍵盤に貼った青竹の皮は丸みがきつすぎることや、竹の繊維で指に刺が刺さる怖れがあるため断念。ピアノ鍵盤用のセルロイドで白鍵を作り、黒鍵部分は雑木で作って黒いラッカーで塗装した。アクションもやはり卓上のピアノ形式は従来のグランドピアノの形式に変更を余儀なくされるなど、永井校長の最初の思惑とは少し違ったが、何とか1台のピアノを完成させた。

だが実際の商品化となると、必要な材料・部品、職人などを大阪の地でそろえるのは困難なためかえってコスト高になってしまい、ピアノ製造をしても採算が合わず無駄であるという結論に達したという。当時試作を行った一は後日この時のことを、「現在ではわかりすぎることではあったが、祖父の音楽を志す生徒たちに対する深い愛情の表れであって、一笑に付すことはできない。」と語っている。現在そのピアノの行方は不明で、残っているのは写真のみである。


K.NAGAI&SONピアノ
永井ピアノ




永井校長がその後、教育雑誌に寄せた文章(昭和26年3月1日発行『教育音楽』)