隆盛きわめるオペラ界

戦後の数年間、日本のオペラ界は今日までを通じて、最高の活況を呈していたといえる。その主役を担っていたのは、1934年(昭和9年)の創立以来、数々のオペラの舞台上演を行っていた藤原歌劇団である。わが国の戦中最後のオペラ上演となったのは、同団が1944年(昭和19年)2月27日に大阪の北野劇場で行った創立10周年記念公演のベートーヴェン《フィデリオ》(本邦初演の関西公演)であるが、戦後わが国初のオペラ上演となったのも同団の1946年(昭和21年)1月27~31日に東京の帝国劇場で行った、ヴェルディ《椿姫》の公演であった。

そして、その藤原義江とも共演を重ねていたソプラノの長門美保が1946年11月2日に長門美保歌劇研究所(のちに長門美保歌劇団と改称)を旗揚げし、東京では一時期この2つの歌劇団が競うように華やかな活動を繰り広げていた。藤原歌劇団は戦後、音楽部門の強化を図った東宝の専属となり、かたや長門美保歌劇団は戦中に藤原歌劇団を支えていた松竹と提携して、お互い大きな後ろ盾をもとに数多くの公演を重ねていた。1演目につき昼夜公演を含めて20数回の公演を行うなど、現在では考えられないほどの公演回数であった。

こうしたオペラ界の隆盛の背景には、戦時中に抑圧されていた人々の活動が自由になり、文化的なものを渇望していたことや、連合軍総合指令部の指導下に入ったNHKが当時全国民の唯一最大の娯楽であったラジオで「放送歌劇」などのオペラの番組を数多く放送したことなどがあったようである。そして公演回数の多さについてはオペラが好まれたこと以外に、戦中末期からの名残で最高100%~200%という高率な入場税が要因の一つとして挙げられる。赤字を少しでも減らす方法として、公演回数を増やし、1回あたりの経費を抑えようという苦肉の策でもあったのである。この時期一気に地方公演の回数や範囲が拡大したのも、オペラの普及による地方からの要請とともに、在京の歌劇団にとっては自分たちに経費負担がなく、収入になるというメリットも大きかったのではないだろうか。

理由はともあれ、藤原歌劇団は関西における戦後初のオペラ公演となる1947年(昭和22年)1月16~21日のヴェルディ《椿姫》公演以来、1年に2~3回のペースで毎年来演し、東京で本邦初演した作品を関西で公演するなど精力的に活動を行った。これに1948年(昭和23年)の関西初公演以降、長門美保歌劇団が加わって東京での両歌劇団の競演が舞台を関西に移して展開されていたのである。そしてこのことは関西の演奏家たちにとって大いなる刺激になり、自分たちも関西人によるオペラを上演したいという動きに発展していく。

東京ではこの後、1952年(昭和27年)に当時最も活躍していた柴田睦陸、中山悌一ら若手の声楽家たち16人が新たにオペラの団体を立ち上げる。それまでのわが国のオペラ活動を第一期として、さらに発展していくことを使命とする次世代の集団であるという意味から「二期会」と名付けられた。

 

1947年(昭和22年)11月15~19日 藤原歌劇団 ヴァーグナー《タンホイザー》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)

出演者(プログラムより)

 

1948年(昭和23年)5月29~31日 長門美保歌劇団 プッチーニ《蝶々夫人》(大阪歌舞伎座)

長門美保歌劇団の関西初公演

プログラム表紙

出演者(同プログラムより)

蝶々夫人に扮した長門美保(同プログラムより)

 

1948年(昭和23年)9~10月 長門美保歌劇団 サリヴァン《ミカド》日本人向け本邦初演の関西公演(昭和21年に外国人のソリストによる進駐軍向けの上演はあり)

9月29、30日:京都南座 10月6日:大阪歌舞伎座

プログラム表紙

同プログラムより

 

1949年(昭和24年)4月1~3日 藤原歌劇団創立15周年記念公演 モーツァルト《ドン・ファン(ドン・ジョヴァンニ)》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)

精緻なアンサンブルを聴かせなければならないモーツァルトの作品は演奏が難しく、なかなか上演に至らなかったという。

プログラム表紙

第1幕 ドン・ファンとツェルリーナの二重唱(同プログラムより)

 

1949年(昭和24年)12月17~21日 藤原歌劇団 チャイコフスキー《エフゲニ・オネーギン》本邦初演の関西公演(大阪朝日会館)

プログラム表紙

出演者(同プログラムより)