戦火を免れた校舎

1945年(昭和20年)、いよいよ米軍による本土襲撃が激しさを増す。3月13日深夜から翌14日未明にかけて初めて大阪の空にB29爆撃機が飛来し、大阪市の大半を焼き尽くした。一夜にして死者約4,000人、行方不明者約700人を記録したといわれる。

学校のある味原も空襲に見舞われたが、留守番役を務めていた永井校長の四女、久子が、近所の人たちと必死に消火活動を行い、何とか難を逃れることができた。一時期家族で校舎に住んでいた校長もその頃は布施に居を移しており、早朝に駆けつけ学校の無事を確認したときは、涙を流したという。

焼け残った校舎は被災者たちの避難所となり、家財道具が持ち込まれ、レッスン室は寝所、廊下は炊事場や物干し場などの生活空間と化し、すっかり荒れてしまった。机や椅子、書類、書籍、楽譜など燃やせるものはすべて持ち出されて燃料とされた。外部へ貸し出していた数台のピアノもついに還ることなく8月15日、終戦を迎えた。劣悪な環境の中ではあったが、9月に在校生へ開校通知を出し、10月には授業を再開することとなった。