大阪音楽学校女子挺身隊

1944年(昭和19年)3月に学徒勤労動員の通年実施が決まると、大阪府では女子勤労総動員態勢の徹底強化のためと称し、府下の各種学校45校の新規生徒募集を禁止、在学生については全国に率先して3月28日までに勤労挺身隊を結成し、4月早々より生産工場での労働に就くよう命じた。これに伴い、自然廃校となった校舎は非常時のための倉庫や病院などに転用された。

本校は鉄筋校舎で丈夫な造りであったことや、地下室が防空壕代わりになって避難所として使えることから廃校は免れたものの、もはや授業をすることを許される状況ではなく、永井校長はわずかに残った生徒たちを講堂に集めて、一時閉校を告げたという。

その後本校も隊員を募り、数人の生徒による大阪音楽学校女子挺身隊を結成。4月17日より日立造船桜島造船所松坂屋事務所にて勤労奉仕を行うこととなった。校長自ら代筆した宣誓書によると「與へられる仕事は不慣れの為めに或は失敗を重ねることが多いことを恐れて居りますが…」(原文は仮名部分カタカナ)とあるが、彼女たちは船のボイラー設計図を描かされていたようである。