関西交響楽団創立

1946年(昭和21年)、満州ハルビンでの指揮活動より敗戦を経て引き揚げてきた朝比奈隆が、BK(現・NHK大阪放送局)ラジオ放送のためにメンバーを集めて再結成したのが「大阪放送交響楽団」(年表1933年の「ラジオ放送と放送管弦楽団」記事に前出)であった。翌年1月、朝比奈によって新たに「関西交響楽団」が創立された。このオーケストラは、大阪放送交響楽団がラジオ放送と切り離した演奏活動を増やすなかで、新たな組織と名称を必要としたことによって生まれたものである。創立記念演奏会ではドヴォルザークの《新世界より》、声楽の笹田和子、ピアノの伊達純を迎えて、オペラアリアや《ハンガリア幻想曲》が演奏された。後援団体「関響友の会」も組織され、瞬く間に会員1000名を集めることができた。

大阪放送交響楽団はあくまでもNHKのラジオ放送のために演奏することを目的としたため、同じ楽団を名称を変えて演奏会活動をおこなうという形をとっていた。明治以来、数々のオーケストラが関西に生まれたが、ここに初めて定期演奏会を開くことができるプロ・オーケストラが誕生したのである。また交響楽のみならず、当初よりオペラ、バレエへと活動の範囲が広いこともその特徴であった。

創立後しばらくは、ラジオの仕事とそれ以外の演奏会活動を掛け持ちするかたちが続くことになる。

一方、大阪放送交響楽団は、占領軍統治下のラジオ放送に様々な制約がついていたため、政治問題や思想検閲と無関係な西洋音楽の放送時間が増え、多忙をきわめていた。

3年後の1950年(昭和25年)にはラジオ放送と放送外の活動の両立は、仕事の質、量ともにバランスをとることが難しくなり、放送局から独立し関響は改組、社団法人「関西交響楽協会」が発足する。

1960年(昭和35年)にはいったん解散し、「大阪フィルハーモニー交響楽団」として再結成された。

創立より55年の長きにわたり朝比奈が指揮をとり、その間、戦前の音楽学校との関係や戦後も新校舎(豊中市)内に練習室をおいていた関係から、オペラ公演、関響演奏会などにおいて、大学とオーケストラの緊密な関係が長く保たれていた。

 

1947年(昭和22年) 4月26、27日 関西交響楽団第一回定期公演 

 

同 第一回定期公演 プログラム

 

同 第一回定期公演 団員表

 

1947年(昭和22年)関響友の会発足

 

1949年(昭和24年)2月  関西交響楽団機関誌月刊『交響』発刊

 

1950年(昭和25年)改組後の団員表

 

関西交響楽団の機関誌『交響』(創刊号、1949年2月)に掲載された、明治39年創立の大阪における最初の交響楽団、大阪音楽協会。以後、数々のオーケストラが生まれては消え、いずれも定着するものはなかった。

1906年(明治36年)12月2日 大阪音楽協会 第一回演奏会 (1949年2月 『交響』創刊号)

(前列左から五人目が指揮者の大村恕三郎、同三人目が陸軍第四師団軍楽隊楽長の小畠賢八郎、その後ろがのちに大阪市音楽団団長となった林亘、最後列左二人目が永井幸次)