服装の変遷~大正から昭和へ 17枚の写真が映し出す当時の流行

昭和初期の頃の本校の学則では生徒の服装を次のように規定している。

「男生徒は黒色サージ詰襟、所定金ボタン附、帽子は帽章附丸形学生帽、女生徒式服は冬は黒袖五つ紋夏は麻薄鼠五つ紋附とし袴はオリーブ色セル地とす、通学服は和洋何れにても華美ならざるものとし和装の場合は必ず前記の袴を着用すべし」(原文は仮名部分カタカナ)

長引く戦争はやがて物資の不足を生み、中学校以上に在籍する学生の制服も1941年(昭和16年)より文部省によって統制を受けることとなる。男子は国民服・戦闘帽・ゲートルの着用と、制服の新調を控えるように定められ、女子は統一されたデザインの服を着用するよう求められた。

これを受けてか、本校も男子の国民服姿は確認できないが、この年より女子の制服が見られるようになる。夏用と冬用があり、演奏会でも着用していたようである。昭和19年の「アッツ島玉砕の歌」発表会に出演した時にはその年の2月に決定された女生徒の基準服としてモンペ式のものをはいている。

明治期に洋服がもたらされ、男性の洋服の普及に比べると、女性の場合は貞淑・従順などの婦徳が重んじられたため洋装がなかなか進まなかった。一般女性への普及が進んだのは1923年(大正12年)の関東大震災で和服の非機能性が問題視されたのが契機といわれる。学生たちの服装や演奏会の衣裳においてもその変遷がうかがえる。

女性教員については、永井八重子と永井静子は対照的で、静子は大正5年頃の最初の演奏旅行時は生徒であったが一人だけ洋装。演奏会でも早くからドレスであった。常に和装だった八重子は、昭和11年にベートーヴェン《第九交響曲》のソロを歌った時も和服。それを揶揄するような生徒たちの声が『楽友』第十一号に次のように掲載されている。

「八重子先生、一度洋装の御姿を拝見出来ませんか、生徒達喜ぶ事でせう

 静子先生、年中アチャラモノ一点張。」その永井静子の洋装演奏会写真は次のとおり。

昭和8年6月1日 永井静子ピアノ独奏会

 

服装の変遷

 

大正5年頃の演奏旅行の時の写真(駅での集合写真と下は女性3人の演奏)

男性は全員帽子をかぶっているが、和装にも洋装にも合わせられた帽子は、四季を通じて紳士の外出時の必須アイテムだっだという。また女性のショールも明治末頃、冬の外套代わりとして流行り、以降防寒よりもオシャレのアクセントとしても人気を博していたようだ。                             

  

 

ピアノを弾くのは一人洋装の片山静子(のちの永井静子教員)

 

大正時代の演奏会のチラシ(日本人女性は全員が着物)

 

昭和2年の学校前で写っている女子の写真 (ちらほら洋服姿の生徒が見られる)

 

左:昭和6年の卒業アルバム 女子生徒(ピアノ)(撮影は昭和5年頃と思われる)

右:同アルバム 女子生徒(ヴァイオリン)

        

 

昭和12年卒業アルバム 学則規定の式服で永井校長と写っている屋上での写真

 

昭和12年の卒業アルバム(撮影は昭和11年頃と思われる)

 

昭和12年の卒業アルバム(撮影は昭和11年頃と思われる、上:ピアノの永井静子教員と門下生 下:声楽の永井八重子と門下生)

   

 

昭和12年 卒業アルバム

 

同アルバム 昭和10年代になると、女性の洋装もかなり増えてくる

 

昭和17年 朝比奈隆ほかの先生方で写っているコンサートのオフショット

 

昭和18年3月23日 卒業前の集合写真(校舎屋上にて)

 

昭和13年の卒業アルバム 個人洋装(左:ピアノ、山田康子教員 右:ピアノ、永井静子教員)